第30話 海の匂い、涙の味。
私は、ゆっくりと目覚める。
まるで、今まで死んでいたかのようなその覚醒は、とても緩慢で気だるいものだ。
いや、どうだか分からない。
私の脳裏に残る最後の像は、私の顔のほど近くをかすめて行く右腕に向けられていた。
それは、大人のものではない。
細く、日に焼けたその表皮には筋肉の隆起はさほど見られない。
私と同じ、あどけなく、無力な子供の腕だ。
しかし、私はそれに、確かな恐れを感じていた。
少年の手には、真新しい短剣が握られ、それを私に向けて突き出したのだから。
足場の少ない塔の上、
私は己の命の終わりを確信した。
叶うなら、一瞬で。
そう祈り、私の意識は途切れた。
しかし、どういうことか。
目覚めた私は、まだ息をしている。
この体の体温も、流れる血潮の拍動も。
寸分たがわず、私のものだ。
それに、立っていたはずの私は、どこか冷たく固い何かに背中を預けている。
これは壁だろうか。土埃の匂いが鼻につく。
そして、ここは日陰だろうか。前まで感じていた太陽の温度を感じない。
私は意識を失った後、どこかに動かされたのだろう。
肩が、少し痛む。
もしかして、どこかに囚われたのではないか。
そんな疑問が胸をよぎる。
試しに指を動かしてみる。
両手は普段のよう動き、どうやら手かせのようなものは嵌められていない。
次に腕を動かしてみる。
腕も私の意志に沿い、前後に微細に動く。
腕を縛られているわけではない。
それから、胴、腿、膝、足と暗闇の中、点検は続く。
瞳を開けないのは、起きていると気取られないようにするためだ。
私を移送したらしい彼は、少し遠くで私の姿を見張っているかもしれない。
その恐れが、私の体が十全に動くかどうかを確かめさせる。
首と、顔まで動かし終えて、私を縛るものは何もない、とようやく確認する。
眼を開く。
ゆっくりと、用心深く。
これから開けてゆく世界は、私の敵かもしれないのだ。
閉ざしていた暗闇は、ゆっくりと晴れてゆく。
まるで、舞台の幕が開くように。
始めに映ったのは、塗り固められたような白だ。
風に舞い上がるそれは、匂い立ち、私はそれから先ほどの夢を思い出す。
ああ、私はあの夢の中では涙を流せていたのだ。
久しぶりの、暖かく満たすような涙だった。
夢の中で母は微笑んだ。
金色の幻想はまだ目蓋の裏に残る。
今は、あの外れの家に移されて、落胆していないだろうか。
会って、謝りたいものだ。
私は、あの人の笑顔しか覚えていない。
だからたまには、怒った顔とかも見てみたい。
それが、いつになるのかは分からない。
叶うのかさえ、分からない。
しかしまずは、この状況を確認し、突破してからだろう。
そのとき、不意に目の前に影が覆いかぶさる。
おい、という声。男の声だ。
低いそれは大人のもので、影は、それほど大きくはない。
彼が、私をここまで、移送したのだろうか。
あの、狭く、平安に包まれた塔から。
「誰。」
憎しみを込めて呟く言葉に、目の前の男は驚く。
私は、その顔を拝んでやろうと、眼を見開く。
視界は開ける。
同時に、強い光が私の世界を一瞬にして塗り潰す。
男の姿が瞬きの間だけ映る。
灰にまみれた靴とズボン。
茶色の麻の服。
黒い髪。
緑の眼。
私にはそれが、他の世界よりも鮮明に見えた。
なぜかは分からない。
ただ、色だけが、実在から遠く離れて私の視界に張り付いた。
私は、うっとうしくなって、その色を拒絶する。
するとまた、焼くような光が、私の視界を包む。
しかし、それは一瞬だった。
瞬きのように光が過ぎ去ると、私の世界は、また色を取り戻す。
形あるものは形を持ち、影あるものは影をにじませる。
しかし。
「どういう、こと。」
私の目の前に立っていた男は消えうせ、同じ場所にいつしか白い塊があった。
鼻につくのは、さっきと同じ、涙の匂い。
その塊は、紛れ込んだ微風にさえ耐え切れず、その形を崩してゆく。
何が起こったのか、わからない。
私は、他の何かを見て、この状況の比較をしようと試みる。
私はある店の一角に、腰を落ち着けていたらしい。
垂れ幕に視線を向ける。
すると、クリーム色の垂れ幕は白く染まった。
そして、声を上げるまでもなく、音を立てて私の足元へ崩れ落ちる。
いやな予感が脳裏に過ぎる。
私は、崩れた垂れ幕のその先に、レンガの瓦礫を見て取る。
微妙に曲がったその形状は、それがかつて円塔の一部であった事を思い出させる。
そして、その壁には切れた鎖が幾つも引っかかる扉が、ただ一つだけ在りし日の面影を残していた。
ああ、あれは、私の塔の残骸なのだ。
鐘を鳴らす私を囲う、物言わぬ守護者の成れの果てなのだ。
あれがなくなった今、私を守る障壁は、もうひとつとしてないだろう。
私の視線は、恐怖と焦りから、崩れた外壁に集約される。
すると、また、陽光は私の目を瞬きのうちに塞ぐ。
次に私が眼を開けると、そこにあったのは堅牢なレンガの壁ではなかった。
白く、脆い真白の塊。
風が吹くと、それはまたしても流れる砂のように崩れてゆく。
塩だ。
誰かが、そう呟いた。
私の目の前で、塔の残骸は塩の柱へと姿を変える。
呆然とする私を尻目に、白銀の竜は中空で体制を整えながら、忌々しげに口を開く。
「あの黒い亡霊どもは、強い魔力に寄せられて、この村を襲ってきたらしい。あの塔にこそ秘密があると睨んでいたんだが、やっぱりそれは当たっていたんだ。」
ハインリヒ、そう呼ぶ声は、いつにも増して冷たい。
私は、その声に事態の深刻さを、感じ取る。
地面に突き立った剣を引き抜き、足元に構える。
吐息一つで、意識を切り替える。
視線は異変の元凶に、まっすぐに向く。
傍に寄って来たヤヌアは、その気迫を感じてか足を止め、そして、視線の指す方向を見て息を呑む。
「ハインリヒさん。あそこには。」
そう絞り出した彼の言葉は震えている。
視線の向かう先には、一軒の店があった。
魔物の襲撃に、幸運にも崩れなかったその場所を、われわれはついさっき選び取っていた。
塔の中にいた少女を休ませる場所として。
不意に、背後のヤヌアの孕む空気が変質する。
彼は、悟ったのだろう。
少女を匿ったその場所に、魔物が潜んでいる事を。
「行かなきゃ」
やめろ、という言葉を私が発するより先に、短剣を手にした少年は、半ば崩壊をはじめる店先へと駆けてゆく。
異形の正体がつかめないままに、こちらから向かって行くのは、自殺行為に近い。
そのことは私も、レーゲもこの二年の中で知っていることだった。少年には教えられない、血と残虐にまみれた記憶が、われわれに教えた知識だった。
馬鹿者が。
そう呟いたのは、少年に向かってか、それとも己に向かってか。
私は地面を蹴ると、少年の後を追うように、小屋の影に向かって駆けてゆく。
しかし、決断の早さが、到着の順番を決めるほどに、彼我の間隔は近いものだった。
そして、日光に反射して見えなかったそれは、駆けてゆくうち視界に実像を伴って迫る。
店の垂れ幕の端が、崩れたように欠けており、その下に、白い塊となって残っている。
ひたすらに迫る少年には、それが見えてはいないのか。
欠けた垂れ幕の手前まで、迫った少年は急に驚いたように足を止めると呆然と立ちつくす。
その内側は、見えない。
少女は無事らしく、少年は、安堵の声を漏らす。
しかし、少年は気付いてはいない。
その足元に、ひたひたと霜のように迫る、白い死の境界を。
大剣を振り上げる。
このまま、踏み切り、残った幕ごと斬ってしまえば、まだ間に合う。
「伏せろ。ヤヌア!」
飛び上がり、力を込めて振り下ろそうとするその時、私はそう叫んだ。
しかし、ヤヌアはそれに応えない。
それどころか、私のほうに振り向くと。
その右手を突き出す。
右手には短剣が握られ、縦に裂こうとする私の剣筋に、短剣の刃は斜に食い込んでいる。
ダメだ。
そう叫ぶヤヌアの声には迷いがない。
しかし、一度振り下ろされる大剣は、その軌跡をなぞるまで止まってはくれない。
正気か、小僧。
私は胸の中で、そう狼狽の叫びを上げた。
衝突する鋼の轟音。
耳をつんざくその響きは、一瞬のうちに止み、次の瞬間。
短剣が地に乾いた音を立てて、落ちる。
しかし、その抵抗によって、微妙にその刃先は逸れ、目標ではなく地面に突き当たり、轟音を立てる。
その音に、か細い悲鳴が響く。
視線を逸らし、影の中にいるその姿を、私はようやく捉える。
金色の髪をした少女が、両の眼をその手で塞ぎ、足を屈めて震えている。
そこには、塩の柱を生み出すような異形の姿など、どこにも見つかりはしない。
私は呆然となって、言葉を漏らす。
「何だ。これは、どういうことだ。」
傍らに佇むヤヌアは、呆然とする私に、震えた声を発する。
「ハインリヒさん。あの子を、どうか、斬らないであげてください。」
うつむいた彼がその顔を上げたとき、その眼には涙があふれ、既に幾筋かその頬を伝っていた。
駆け出す足音が聞こえる。
静止するよう怒号は響く。
私の鼓動は音を潜める。
分かっていたことだ。敵はすぐそこにいて、ただ襲ってくる機会を狙っているだけだった。
私の命は麦穂のように、数秒後に刈り取られるのだろう。
覚悟は、その前には決まっていた。
足音はまだ軽い。大人の者ではない。
男の子の息遣いは、その声は聞き覚えがあった。
昨日、塔から出る私をその目で見た男の子だ。
塔からは広場に集まる子供が、昼夜を通して見られる。
その景色を、四年に渡って私は俯瞰していた。
その中でも、見覚えの無い子だった。
いや、二年前だったか。
私は、彼の大きな叫びを聞いた。
恩人が死に瀕しているらしい彼は、突然この広場に駆け込んできた。
ハインリヒさんを助けて、そう叫ぶ言葉は広場中に悲痛に響いた。
その言葉は、今も耳に残っている。
でも。
君は、誰かの命を望むその口を持ちながら。
今、私に向けて刃を向けるのね。
なんて、残酷な人だろう。
そんな皮肉に、頬を歪めたくもなる。
毒の一つでも吐きたくなる。
足音は、私のすぐそば。
多分、落ちた垂れ幕の成れの果てがある場所で、ぴたりと止まる。
でも、私は、そんなあなたにもう皮肉の一つも吐けないの。
そんな権利、私はもう失くしちゃったのよ。
村長が言っていた昔話。
かつて塔に住む魔女は、その目の一睨みで塩の柱を生み出した。
塩は偉大な効果を持っていた。腐りゆくものの時間を止め、飢饉のときの備えを生み出したからだ。
魔女は富んだ。
しかし、塩を求めたものたちは、魔女の持つその目こそを求めた。魔女は命を狙われて、その過ぎた富を呪った。そして終いに、その眼の力を封じて二度と開かないようにした。
そう、知ってはいたの。
けれど、いったい誰が御伽噺を真実だと受け入れるのだろう。
私は伏せた目を、立ち止まった男の子の足元に向ける。
誰が、あの塔を白く染めたでしょう。
誰が、あの欄干を落としたでしょう。
誰が、あの男の人を殺したのでしょう。
応えは明白よ。そう雪のように。
すべて、私。
男の子はその足元の変化に気付きもしない。
愚かで、無自覚。だからこそ、私の姿を見ても呆然としていたのだ。
私の一族は、呪われた一族。
塩の魔眼を受け継ぐ、滅ぼされるべき人でなし。
私の視線はじわじわと蛇のように地面を這い、男の子の足元に届こうとする。
君が気付かないそのうちに、足元から塩にしてあげる。
恨めしいあなた。
外に出られて、すべてを視られるのね。
塔の中で、私はゆっくりと朽ちてばかり。
いいえ。
本当に恨めしいのは、この一番高い塔から見えるすべて。
広場も、その奥に広がる草原も、本当はこの上なく憎かった。
手を伸ばしても、決して触れられない幻のようで。
いつか、手を伸ばせば触れられた、四年前からの幻のすべてよ。
ああ。せめて、その感触を知らなかったなら。
綺麗な夢で終わったのに。
そう、憎しみを込めた視線を向ける私に、何を思ったのか。
男の子は、短剣すら向けずに、立ったまま。
「生きてて、よかった。」
あろうことか、そんな言葉を、私に向けて投げかける。
私の息を止めにやってきたはずなのに。
そんなにその短剣を信頼しているのだろうか。
何て無知。なんて楽観だろう。
そう跳ね返す事も、もちろん出来る。
でも、私は気付いてしまった。
この男の子は、きっと何も知らないのだ。
村の伝承も、私の罰も。
この塩の呪いさえ。
そして、知らないまま、死んでゆくのだ。
私を、ただの女の子だと最期まで信じて。
その真っ白な可能性が、私に、一瞬の希望を抱かせる。
もしかしたら、この眼が目覚めさえしなければ。
この子が、あの塔の戸をその手で開けてきてくれたなら。
私たちは、初めての友達に、なれたかもしれない。
でも、やっぱり。
私は、あなたを信じられない。
だって、私は塩の魔女になってしまった。
あなたは、それを倒しに来た勇者なのよ。
その手に短剣がある限り、あなたは私の敵。
死にたくないなら、殺さなくちゃいけない。
なのに、こんなときになって私の眼は動きを止める。
理由は痛いほど分かっている。
目の前の絶望的な光景よりも、どうしても夢見てしまうのだ。
触れられたかもしれない幻を。
取れたかもしれない手の体温を。
彼を殺してしまったら、その可能性さえ潰えてしまう。
そうしたら、私の世界には、もはや星の小さな光さえ見えなくなる。
広場に現れた私を、村の人たちは許しはしない。
一族の呪いの発現者を、彼らはきっと生かしはしない。
そして、最も恐ろしいのことはね。
一番好かれたい人たちに、自分のことを厭われることなのよ。
そして、夜の暗闇の中で、たった一人。
私は、歩いてゆくしかなくなるのだ。
やっぱり。私、だめだ。お母さん。
私に、塩の魔女の役は重すぎる。
私に、あの子は殺せないや。
だから。せめて。こんな私を、許して。
風が、巻き起こる。
その轟音にあの子は驚いて、何か言って、それから短剣をその轟音の元に差し向ける。
振り上げられる大剣の地響き、それを、あの子は短剣なんかで防ごうとしている。
ありがとう。
名前も知らない男の子。怪物になった私を、まだ女の子と信じる君は、守ってくれるのね。
目蓋の裏に映るのは、ずっと触れたかった夢の世界。
そこには私の家があり、私は両親とともに暮らしている。
友達は数人でいい。
犬や、羊にも、触れてみたい。
そう、私がやりたかった役は。
塔で鐘の番をする役や、塩の魔女の役なんかじゃない。
ただの平凡な村娘の役。
それで、十分幸せだったのよ。
ねえ、神様。次は。きっとそんな役にしてくださいな。
旋風が頭上をなでるそのときに、私は生まれて初めて、そう祈った。
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