第29話 塩の目
陽光は崩れた塔を照らす。
それは、楕円の壁のようになり、太陽の光をさえぎる。
その影に包まれたある店先に、塔を降りた少年は真っ先に駆け寄って行く。
そこには、天井から剣が無数に下げられており、そのいくつかは千切られたのか、その剣の並びは整列しているとはいえない。
無理もない。
それらは立派に任を果たした。
老人の手に握られたそれらは、魔物の頭をことごとく砕き、主の手を黒く染めながら、なおもその命を守りぬいたのだから。
その剣技は、常人に出来る事ではない。
老人は左右と正面の三方から、同時に魔物の襲撃を受けた。
それでも、瞬時にその手に長剣を取り、まず始めにその頭に順に突き刺す。
一匹は、石畳の上で。
一匹は、その帳場台の上で。
一匹は飛びかかろうとする中空で天井に張り付けにされる。
そのどれもが、頭上からの一閃にその頭から顎までを貫かれ、一撃にして絶命している。
その老人は、ボンザという名で、少年に呼ばれる。
目を閉じていた老人はその声に驚いたように顔を上げ、ああ、と呻いた後、そして涙をこぼした。
ヤヌアは彼に駆け寄り、その胸に飛び込む。
老人は腰を悪くしているのか、その姿勢は中腰であり不安定なものだった。
少年の突撃によろめいて、あわや倒れるかと思ったが、とっさに帳場代に突き立つ剣の柄を掴み、踏みとどまって見せる。
それでも少し体が痛むのだろう、浮かべた笑みには汗がにじむ。
老人は私のほうを見た。
そして、顔をしかめて見せる。
無理もないことだ。彼の前に立つのは、大きな猫が、大剣を手に人間らしく二足で立っているさまなのだから。
しかし、次の瞬間には、その顔は赤く膨れる。
「痴れ者が。弟子を置いて旅に出るとは何たることか。」
その怒号は、私の胸の湖面に深く沈み、波紋を立てる。
私は、老人の目を見つめる。
黒い瞳は、鏡のようだ。
その中には、二年前の以前とは違う、私の顔が見えていることだろう。
「ああ。すまないことをした。」
その言葉に、少年は驚き、こちらの方に顔を向ける。
私が謝る事など、しないとでも思っていたかのような顔だ。
呆然としたその顔に、なおも私は言葉を続ける。
「私の不在にも、弟子は応えてくれた。鍛錬こそしなかったがな。だが、その忠義に、私も認識を改めざるを得ない。」
ヤヌア。
彼に面と向かって呼びかけるのは、これが初めてだ。
ヤヌアは、私の手招きに応え、そばに近づいてくる。
私は、瓦礫の中で拾った短剣を、その広げた手に返還する。
「それは、今からお前の剣だ。鍛錬の中で欠くことが無いように、そこの老人に管理を学ぶといい。」
その言葉を聴いて、ヤヌアの眼は宝石のように輝いた。
そして振り返ると、老人は満面の笑みで了承のサインを返す。
ヤヌアは、体から溢れる元気の発散を求めてか、くるくると廻るように小躍りを始める。
そのときだった。
頭上で、私の名を呼ぶ声が聞こえる。
何だ、と返すと、それは声を発しながら、この広場に降下してくる。
銀色の翼、鋼の鱗、赤い石榴の瞳。
黒い、先ほどのまがい物とは違う、かつての天空の領主。
竜と呼ばれる存在は、瓦礫の上にその両足を着地させる。
ボンザが、まだ残党がいたか、と吊り下げた剣をまた一つ取る。
小躍りしていたヤヌアは、凍ったように動かなくなる。
私は笑って、緊張する二人に、これは敵ではない、と釈明する。
しかし、銀色の竜はそうはいかないようだ。
多分、人間にあからさまに恐れられたのが、久しぶりであるからいい気分になっているのだろう。
それはどうかな、と勝ち誇った様な声を発する。
「機嫌が悪かったら、食っちまうかもしれないよ。」
ヤヌアがひっ、とおびえた声を上げる。
さっきまで魔物相手に一人で戦っていたのだ、その言葉は冗談に思えなくても無理はない。
「いい加減にしろ、レーゲ。その背中の鱗、一枚剥ぎ取るぞ。」
そう言って、大剣を構えると、挑戦と受け取ったのか柘榴石のような瞳が輝く。
「ハッ。口答えかい。お弟子さんの前だと強気だね。いいよ。じゃあ俺はその尻尾を持っていくから。」
そうして白銀の竜は羽ばたくと、中空に飛び上がる。
しまった。
調子に乗ると、いつもこうして決闘を申し込んでくる。
暇なときは付き合っているが、今は別件があるはずだ。
多分、頭に血が上って忘れているのだろう。
面倒な事になった。
レーゲと戦っているような余裕はないのだが、一度戦闘の頭に切り替わった竜を止めるには、その体に傷を加えなければならない。
その傷は数秒で回復するので、意味もないことだが。
いや、だからこそ、彼女は何度も私に戦いを挑むのだろう。
「まったく、もっと冷静で、思慮深い竜に出会うべきだった。」
「言ったな、この毛むくじゃら」
白銀の竜は一際大きく飛び上がると後方に旋回し、こちらに向けて滑空する。
風圧で、村の家の傷ついていた表面は砕け、砂埃を上げる。
足は尾に沿わせているらしく、家屋に爪痕を残すようなことはない。
だが、そんなつつましい配慮をするようなら、最初からやるなと言いたい。
旋風を纏った白銀の塊が、私の前に迫ってくる。
私はヤヌアとボンザに塔の陰に隠れていろと言った。
そして、剣を頬の横に番える。
幾千の魔物を切った大剣だ。竜の体当たりなどで折れはしない。
だが、果たして砂塵を纏ったそれを耐えていられるかは知らない。
大気が震える。
風が渦巻く。
いよいよ、白銀の竜が目前に迫る。
そのときだった。
白銀の竜は突然その滑空を取りやめ、中空に静止する。
その石榴の目は驚きに見開かれている。
それは何を視たのか。
それとも、その脅威に反応したのは、竜の持つ生存本能だったのかもしれない。
何が起こったのか。
かろうじて残っていた塔の白壁は、一瞬で雪のような真白に塗りつぶされた。
そして、微風にも耐えかねて、砂のように崩れだしたのだ。
風に舞う白い断片は、海を思い出させる匂いを大気に放つ。
ヤヌアが、その物質に気付き、呆然と呟く。
「塩だ。」
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