第20話 二年後

あれは誰の声だろう。


それは、木の葉のささやき、風になびく草原の歌。


太陽は草原を照らし、そこに影はなく、躓く岩もない。


寝転んだぼくの耳に、草原は語りかける。


ここは平穏の地、恐れの要らぬ場所。


人の労苦と、いたわりが共にある。


奪われることはなく、消え去る事はない。


大地は保障する。


ぼくが全身を預けても尚、この地表は砕けない。


大空は保障する。


ぼくがいくら見上げても、その青は欠けて落ちてきたりはしない。


太陽は保障する。


いくら夜が巡ろうとも、再び上り来る。


そして、いまは見えぬ月も、保障するだろう。


夜は太陽に代わり、大地を照らすことを。


月でなければ、星が。


星でなければ、灯し火が。


この廻る世界を保障する。


柔らかな風が草原を流れてゆく。


頬をなでる心地は、誰かの手の感触に似ている。


太陽に温められていても、風は少し冷たい。


きっと春先だからだろう。


羊の鳴く声がする。


ぼくは起き上がる事にした。


傍らに置いた杖を拾う。


羊の群れは六頭で構成されていて、それが、ぼくに任された羊の数だった。


三十、いや、多いときには四十頭くらいの羊を統べる人もいるようだけれど、ぼくの現在の限界はちょうど六頭だ。増やそうとは思っている。けれど、彼らは従順に見えていい加減なところがある。先導する羊についてゆくが、何か他のものに興味を示して、勝手に歩いてゆくものもいるのだ。そういうわけで、ちゃんと注意しておかないと、一匹か二匹がいなくなっていたりする。しかし草を食んでいるうちはおとなしい。その間はこうして地面に寝転んで休む。そうして鳴き声を聞けば、様子を見に駆け戻る。またこの草原は広く、視界を遮るものがないから、遠くからでも、その数があっているかどうか見て取れる。六頭すべてがそろっているように見える。もちろん本当かどうか近寄ってみて、その数を確認する。結果は同じだった。


足音が近寄ってくる。


羊の蹄の音ではない。


人間の、どっしりとした足音だ。


振り返るよりも先に、ヤヌアと声がかけられる。


足音はぼくのすぐそばで止まった。振り返り、見ると肩幅のがっしりした、恰幅のいい男がいる。


名をヤペテという。彼が、ぼくにこの羊を給金の代わりに見張っているように言った人である。


年はぼくより十は上だろうか。正確には知らない。


ヤペテはでかい腹をしている。それに比例してからだも大きい。しかし目つきだけ異様に細い。


彼が話すときだけ見開かれるのだ。


口元には茶色いひげが蓄えてある。


彼の顔を見て、彼との見張りの約束が昼までだったことを思い出す。


ぼくは彼に杖を渡し、もう片方の手で銅貨を受け取る。


銅貨三枚。


店で小型のパンとチーズが買える金額だ。


お金にはそこまで困っていないから、そのままもらう。


ヤペテは口を開く。


「ヤヌア、お前どうして俺の仕事の手伝いなんかするんだ。お前のおっ父の畑仕事は手伝わないのか。」


「あれは好きじゃない。同じ場所をえんえんと耕してばかりなんだ。」


ぼくは正直に答えた。ヤペテは眉をしかめる。


「これも畑仕事と大差ないだろう。似たような場所を廻って、羊どもを眺めているだけだ。最近では狼も出ないから、杖の用もさほどない。それに比べて、畑仕事ならきちんとした労苦に応じて、秋には麦穂が輝く。お前も毎年見てるじゃないか。」


ぼくは首を横に振った。


「少しでも動きたいんだ。羊たちと一緒でもいいから。この草原の先の匂いを、嗅いでいたい。」


するとヤペテが顔を近づけてくる。見開かれた目は、澄んだ緑色をしている。若草の色だ。


「もう二年になる。まだ、待っているのか。」


その目には、諦めと、凄みのようなものが感じられる。


ぼくは怯まずに見返して、言う。


「あの人は帰ってきます。きっと、帰ってきます。」


信じている、とは言わなかった。そのことが、少し悲しくさせる。


冷たい風は鼻をくすぐる。


心の弱いところをちくりと刺してくる。


とたんに身震いがして、底から湧き上がるものを感じた。


けれど、目からあふれそうになるそれを、ぼくは何とか押しとどめた。


ヤペテはそれを見届けてから、


「お前の好きにするといい。」


と言った。


そして、杖を地面に突き立て、鈴を鳴らす。


すると、六匹の羊たちがヤペテの周りに集まる。


ヤペテはそのまま、羊たちと共に草原の向こうへと歩いてゆく。


ぼくはそれを、立ち止まったままで見ていた。


その影が、広大な草原に消えてゆくまで。


ぼくは身じろぎ一つしなかったし。


涙一つ、流しはしなかった。


風は優しく語りかける。


しかし、それは、あまりにも寂しい冷たさだった。


ぼくが草むらを進み始めたときには、太陽は少し、西に傾いたところにあった。


頬をなでた風は、今度は横から当たるようになる。


強さは変わらない。


ぼくは歩を進める。


しばらくしていると緑の草原の果てに、小さな家と、その横の畑が見えた。


畑には細身の男が一人、耕して周りと色の違う畑地に麦を撒いている。


男の名はハヌアと言う。


ぼくの足音に気付いたのか、顔を上げて、こちらを見る。


「おかえり。」


繰り返された挨拶に、ぼくは時間の流れを感じる。


二年の歳月は、その言葉に含まれていた違和感を大方流してしまったように感じた。


ぼくは、ただいま、と返した。


普段のように。


この家には、部屋は三つしかない。


一つはドアを開けてすぐ見える居間だ。


テーブルと椅子一対四で揃っていて、その奥にキッチンがある。


次に寝室。


二人用の大きなベット、それに暖炉が壁にはめ込まれている。


そして、最後は、ぼくの部屋だ。


もともと、ハヌアが日記や手紙などの書き物をするときに使っていたらしいから、書斎といってもいいのかもしれない。


机があり、寝室よりは小さなベットがある。


机の上には、読んでいた本が開いたままにして置いてある。


読み始めたのは二年前だというのに、読書の習慣が付いていないせいか、まだ半分も読めていない。


この本は、二年前、ここにやってきた人がぼくに贈ったものだ。。


いや、やってきたのはぼくも同じだから、この家を共に訪れたといった方が正確だろう。


ここから、いなくなった者と、留まっている者という違いだけで、ぼくとその人はいなくなるそのときまでは、共に暮らしていたのだから。


この家に来た日のことは、鮮明に思い出せる。


二年の歳月はまだ、彼との絆を薄れさせるまでには至っていない。


恐ろしいことだったが、今では懐かしいものとなっている。


思い出になるとは、そういうことなのだろうか、と少し悲しくなった。


あの日。


程近い森の中で、ぼくらは山賊に襲われた。


あの人はぼくを抱えて、無数の矢が木の葉を射抜くその中を、出口目指して駆けた。


森を抜けた先は、草原が広がっていた。


追いすがる山賊たちに、あの人はすがるぼくを剥ぐように草原に捨てて、そして一人で立ち向かった。


独りになったぼくは走った。生きろ、そう言われた。


そして、たどり着いたのがこの家だ。


ハヌアは、ぼくの事を息子だといった。


抱きしめられたが、実感は無く、他人の体温に思えた。


その後、ハヌアと共に草原で戦っているであろう彼の元に戻った。


しかし実際は違った。


彼は草原を赤く濡らして、地に臥していた。


どんな傷で、どれくらい深かったか、とか、詳しい事は覚えていない。


でも、このままでは彼が死ぬであろうことは、どうしようもなく明らかだった。


まだ息はある、ハヌアはそう言った。


そして、村の人を呼んでくるようにぼくに言った。


ぼくは走った。心臓が張り裂けそうに痛くても、かまわなかった。


あの人は、ぼくを守るために、一人立ち向かった。


それだけで、ぼくは何を犠牲にしてもよかったのだ。


村の広場は、ハヌアの家からさらに遠くにあった。


村人たちは突然広場に駆け込んだ少年に驚いただろう。


ぼくの恩人を助けてください、そう大声で叫んだのだから。


四人、村人が驚いた顔でやってきた。


その中の一人が、ヤペテさんだった。他に若者が二人と、初老の男が一人、いた。


多分彼らに何があったのか聞かれたのだろうが、ぼくはどう答えたのかは覚えていない。


ぼくが泣いていたのは間違いなかった。


服に血が付いていたのかもしれない。


彼らはすぐに草原に走っていった。


ぼくも走っていこうとしたが、鉛のように重い足が言う事を聞かない。


それでも足を動かして、ぼくは草原へ向かおうとした。


日は傾き始め、重い足取りに、一人不安が募った。


ぼくの恩人は、人間の姿をしていない。


そのことが、どうしても言えなかったからだ。


本の横に、あの日の名残が残っている。


あの人が、山賊から奪い取り、戦った短剣。


あの時は柄も刃も赤くさび付き、ぼろぼろだった。


ぼくはそれを綺麗にして、あの人に渡そう。


それがぼくにできる、せめてもの恩返しだと思ったからだ。


二年が経った。


刃は村の広場に鍛冶屋があるので、そこで磨いてもらった。


ぼくの机の上にあるその刃は、白銀に輝いている。


しかし、柄の革はまだぼろぼろで、不釣合いだ。


柄の材料になる皮革を売る行商人は、この春先に限ってこの村にやってくる。


冬に集めた獣などの毛皮の残りを売るためだろう。


でも、獣の皮は安くない。


お金を貯めて買う必要があった。


一番安いもので、銀貨五枚。


去年来たときに、行商人はしたり顔でそう言った。


銅貨は三十枚で銀貨一枚になる。


今日でようやく、銀貨は四枚、銅貨は三十三枚となった。


小さな皮袋にそれらを入れ、仕度をする。


村の広場に行くのは、一月振りになるだろうか。


完成に近づく短剣を手にとって眺める。


白銀に輝く剣先には、あの日の匂いは残っていない。


この今にも千切れそうな汚れた革の柄だけが、あの日の感情を思い出させる。


もし、これさえなくなってしまったら、ぼくは次第に忘れてしまうのかもしれない。


あの日の声を。匂いを。痛みを。


そして、あの人の名前さえも。


ハインリヒ。


今はまだ、あの人の名を呼んでいられる。


「忘れてしまう事が、こんなにも、恐ろしい。」


日は傾き始める。


窓から吹き込む風が、思ったより冷たい。


ぼくは身震いした。


ぼくは部屋を出ると、そのまま居間に向かう。


ハヌアがテーブルの椅子に座っていた。


「ヤヌア、どこかに出かけるのかい。」


「そうだよ、父さん。」


ぼくはなんでもないように返す。


実際、それは呼吸するようなものだ。


記号となった言葉に、無駄な意味は付与されない。


それは、もしかしたら動物の鳴き声の呼応に似ているのかもしれない。


ジェスチャー・ゲームのようで楽しくはある。


「行商ボードラのところに、革を買いに行く。」


そう伝えると、彼は思い出したようにやおら立ち上がり、キッチンに向かう。


そして、小さなナイフをこちらに手渡した。


表面に赤茶けたさびが見えて、見るからに古そうだ。


「それをボンザ爺さんに届けてくれ。研いでもらうんだ。無理だったら爺さんに譲り渡してもらってかまわない。」


ヤヌアは一口に言った。


ぼくは首を縦に振る。了解というサイン。


ヤヌアは首を縦に振る。承認というサイン。


ドアを閉める。


その音の中で、ぼくは口角が上がっていることに気付く。


少し、悲しくなった。


鐘の音が聞こえる。


広場が近いことの証だ。


草原の中にぽつぽつと畑が広がるばかりだった風景は、いつしか畑ばかりの茶色い様相になる。


各々の畑は柵で分けられ、一本道の街路に、馬車の車輪の跡がぼんやりと残っている。


畑を見渡しながら歩いていると、時折村人とも目が合う。


無視する人もいるが、怪訝な目つきをする人は減った。


種まきの季節だからか。いつもより畑に人が多い。


働きに出ている人もいるのだろうか。


ふと、轟音が耳を驚かす。


音の主を探すと、広場の方から馬車が走ってきていた。


踏まれるわけにはいかない。


ぼくは端に避ける。


馬の御者はひげを蓄えた初老の男だった。


車体には白い幕が張られていて、荷物が乗っているのか、人が乗っているのか、分からない。


ぼくは立ち止まって眺める。


あれはどこに行くのだろう。


どこまで行って、どこで安らぐのだろう。


旅するものに、ぼくは思いを馳せずにはいられない。


多分、ぼくも、旅人なのだろう。


きっと、魂に性質が刻まれているのだ。


あの人も、きっとどこかを旅している。


さあ、歩こう。


少し、元気が出た。


広場の中心には塔がある。


この村で一番高く、頂上には鐘がある。


代々鐘を鳴らす事を仕事にしている人々がいるらしい。


塔に窓は無く、白いレンガにその内側は閉ざされている。


裏手にある木の扉が、唯一の通用口なのだろう。


そんなところに入っていて、息が苦しくならないのだろうか。


鐘の音だけ聞こえて、その塔から誰かが出てきた事など、一度もない。本当は誰もいない、幽霊の仕業なんじゃないか、と耳にしたこともある。朝に三回。昼に二回。夕暮れに一回。それぞれ間隔を空けて鳴らされる。


さっき聞いたのは多分昼の二回目だろう。


塔のそばに幕屋を作って商売をしている男がいる。彼がボードラだ。ヤペテさんよりも一回り大きな腹を持ち、蓄えた口ひげは太い。


ボードラはぼくを見ると、その大きな目をいっそう見開き、口元をゆがませる。


「ああ。去年の坊主じゃねえか。」


彼の声は普段から大きい。


若干枯れたその声は、独特の存在を持ち、ぼくだけでなく周囲にいた村人までぎょっとさせる。


ぼくは、気おされそうになる自分を何とか奮い立たせ、彼の店の前に立つ。


「言っておくが、値引きはしないからな。」


釘を刺すように、ボードラは言う。


彼の足元には厚い絨毯が敷かれ、その上に毛皮や革の品物がきちんと並べられている。


前よりも数が多い。前に来たときにあった右端には、別の毛皮の商品が置かれている。


数えて三十もあるその中で、また色も似通ったものが多い中で、前回と同じ革の切れ端を見つけるのは難しく思えた。


前にどれを選んだか覚えてないか、そう聞くと、忘れちまったな、と返してきた。


「俺だって暇じゃあねえんだから、早く決めてくれよ。」


しかし、この中で一番安いものを、と再び頼むのはよくないと思った。


ボードラは客の懐を見て値段を決める悪癖がある。


客の表情の変化、微細な身振り手振りから判断するのだそうだ。


前回はそうやって、銀貨一枚分価格を上げた。


二度も同じ手に引っかかるわけにはいかない。


ぼくは馬の革だという一つの切れ端を指差す。


ボードラはぼくの顔を見下ろすようにしてじろりと見た後、


「そうだな、それは銀貨三枚だ。」


そうにやりとして、言う。


吊り上げられる事は無かった。


よかった、とそうして腰につけた袋を取り、僕は銀貨を取り出そうとする。


すると、ボードラの手が突然上から伸びてくる。


あっと、気付いたときにはもうすでに、銀貨の入った袋はボードラの手の中に納まっていた。


返せ、と掴みかかろうとするぼくを気にもしていない。


彼の関心は銀貨の入った袋に注がれている。


「商品に汚れがついたらどうするんだ。」


立ち上がろうとしたぼくに向かって、ボードラはいきなり顔を赤くして怒鳴った。


圧倒されたぼくをよいことに、ボードラは袋の縄を解く。


そこには銀貨三枚と銅貨三十三枚があった。


ボードラはそれを見ると、共通銅貨じゃねえな、これは地域銅貨か、と言って舌打ちをする。


そして銀貨三枚だけを取ると、銅貨には手を付けずに、商品の馬の皮と一緒にぼくの手に握らせる。


ぼくは呆然としていたが、我に帰ると腑に落ちない気持ちのままボードラの店の前を去る。


もう少し口論になるかと思っていたのだ。


地域通貨、そう言われた銅貨を改めて眺める。


三十三枚、そのすべてがヤペテからもらったものだ。


ヤペテはこのことを見越していたのだろうか。


今どこにいるとも知れない彼のことを思う。


森のそばを羊たちと共に歩いているのだろうか。


すると、物音がした。


ドアが開く音だ。


どこから、と思ったが、


自分のすぐ右だと気付くのには、


ほんの少し時間がかかった。


目は動く。


視線は向かう。


小麦色の長い髪。


雪のような肌。


湖面のように、青い、瞳。


人だ。


そう思うと同時に足はステップのように、横に跳ねる。


それは防御のようでもあり、実際、驚きもあった。


その人は、鐘を鳴らす塔から出てきたのだから。


銅貨は手の中で音を鳴らす。


女の子だ。


長い髪は腰まで届いている。


白い服からは生活の匂いはしない。


陽光に照らされたその風貌は、とても映えて見える。


彼女が、あの鐘を鳴らしているのだろうか、そう思うのと、


彼女が暗い路地へ駆けてゆくのは、同時だった。


彼女は、靴は履いておらず、裸足だった。


ぼくはまたぼうっとして、遠ざかる姿を眺めていた。


鍛冶屋は広場の塔からさらに直進した路地に、店を構えている。


日陰に当たるせいか、客のいないその店は、普段よりも寂れて見える。家の一角を改築して店にしているらしく、天井からいくつもの剣やナイフがぶら下がっている光景は、とても異様に思える。そしてそれが、風が吹くたびに、揺れて鋼の音を響かせる。


店の中央で木の椅子に腰掛けた白髪の老人の名は、ボンザと言った。


ボンザは手渡したナイフを、ときおり表と裏をひっくり返したりしながら眺めて、ふん、とか、うん、とかそんな反応をしてばかりだ。


ぼくはボンザ爺さんが答えを出すまでの間、店先に立ったままでいるから退屈で仕方がない。


しかし帰るわけにもいかない。


そこで、仕方なく天井にぶら下がった何振りもの剣を見ることにしたのだ。どこかの商人から仕入れたものもいくつかあるが、大半はボンザ爺さんが自作したのがほとんどだという。刃が左右についている両刃の剣もあれば、片方にしか付いていないものもある。


ボンザは、それぞれにそれぞれの用途があるから、このように分かれているのだ、と言ったことがある。


ぼくが短剣の錆を落としてもらいに広場に訪れたときの事だ。


鍛冶屋はこの店以外にもいくつかあったが、どこに行っても、短剣を見せただけで追い返されてしまう。


最後の一つとして紹介されたのが、この店だった。


天井にぶら下がる無数の剣に、ぼくは驚いた。


だが、それと同時に、種類もさまざまな剣の中には、これはいったい誰が使うのだろう、という代物もあった。


ボンザは突然問いを投げたぼくに、怒りもせず、ただ淡々とした口調でこう言った。


生まれたもの、作られたものは、それだけで意味を持つのではない。今を生きる人自身が、それに善かれ悪しかれの意味をつける。それだけのことだ。お前の持ってきたこの短剣も、傍から見れば血と錆に汚れたおぞましいものにしか見えないだろう。だが、お前が言うには、この剣はお前の恩人のものだという。そして、人が何かを大切に思う理由など、それだけで十分だ。他人がとやかく口を挟む道理はない。


その言葉が、涙が出るほど嬉しかったのを、覚えている。


ボンザの手で磨かれ、手元に戻った短剣には、錆一つ残っていなかったどころか、そこに刻まれたつる草の文様さえ鮮やかに輝いていた。


時間は進み、日は傾く。


日陰にあったこの店に、太陽の光が注ぎ込んでくる。


「ダメだな、これは。」


ボンザはそう呟いた。


ダメですか、とぼくが言うと、


「錆び過ぎだ。研げば刃が欠けるだろう。」


そう返してぼくにナイフを渡そうとこちらに手を伸ばす。


そのとき、ぼくはハヌアの言葉を思い出した。


「だめだったら。あなたに渡すようにって、ハヌアが言っていました。」


ボンザはその言葉を聞くと、眉をしかめた。


「素人目にもこれがダメなことぐらい分かるだろうに。もしや小僧、あいつは料理をしないのか。」


ぼくは首を横に振って答える。


ハヌアは料理を作る事をむしろ好む。凝ったものを作る事はしないが、パンと水だけという事はしない。


ボンザは、うん、と呻いた後、ぼくの手にしているものを見て、その視線をぼくの腰に提げたものへ向ける。


「本当に、その短剣を直してもよいのか。」


ぼくは首を縦に振る。


そして、腰に提げた短剣を抜き、それを先ほど買った革の切れ端と共に、ボンザ爺さんに手渡す。


手渡された短剣を眺めて、ボンザはため息をついた。


「この剣をあたらしく直すという事は、この短剣の中に眠った二年前の思い出のよすがをお前はこの剣から洗い流す、という事だ。」


それでも。


そう言って、ボンザは口ごもる。


ぼくの中に眠るそれを見抜いたからだろう。


少しの沈黙の後、ボンザは口を開く。


「お前の魂は、まだ確かにあの草原の中にいる。あの日からどれくらい経つ。二年だ。お前はその歳月を経て尚、まだ夢を見ているのか。」


ぼくは何も答えずに、ただボンザの目を見つめる。


その顔には彼が若いころに負ったという火傷の痣が点としていくつも残っている。


目は黒い。吸い込まれる、というよりは鏡のようだ。


その鏡に映るのは何だろう。僕自身の、心だろうか。


ボンザは見つめるぼくから目をそむけずに、言った。


「この剣が直れば、お前の夢も終わってしまう。どちらに終わるのかはわからんが、わしは残念でならない。お前のような実直な子供の願いが、現実に覚まされるのを見なくてはならないのだから。」


そして、ボンザは椅子から立ち上がると、短剣を手に、店の奥へと去ってゆく。


「明朝には出来上がっているだろう。」


影で見えない、その奥からボンザの声が聞こえた。


帰り道で、また、鐘の音が聞こえた。


そのさざ波のような音はいつもよりも、痛烈にぼくの胸に響いた。


それはまるで、消え行く面影をその目に焼き付けても、もう遅いと言っているように思えた。


あの短剣が、新品のようになってぼくの前に現れたとき、


ぼくは果たして、あの人の面影を、その剣から感じ取る事ができるのだろうか。


いつものように、思い出し続ける事ができるのだろうか。


あの人を忘れずに、いられるだろうか。


沈み始めた太陽は、橙に色を変えて、ぼくの目を焦がす。


遠くにはっきりと見えるそれは、確かに輝いて見えるのに、決して触れる事ができない。


手を伸ばしても。


どれだけ走っても。


どれだけ叫んでも。


あの夕陽には、決して届かない。


でも、夕陽だったら、まだよかった。


ぼくはあの人の体温を知っている。


あの人の声も、笑顔も、手も、どれも太陽みたいに暖かかった。


声を掛ければ、振り向いてくれた。


走れば、あの人の隣に追いついた。


手を伸ばせば、取ってくれた。


夜になれば、焚き火を囲んで下手な話をした。


嫌いなところが無かったわけじゃない。


衣服は臭いし、怒ると容赦がない。


でも、嫌いなところを思い出すたび、目から涙がこぼれる。


ボンザの言うとおりだ。


ぼくはまだ、二年前のあの草原の上にいる。


自分でも、痛いほど分かっている。


それがどれだけつらいことなのかも、分かっている。


あの人が、生きているのか、そうでないのか。それさえ分からない。


でも。


まだ、待っていたい。


まだ、忘れたくない。


思い出にしてしまったら、あの人の温かさは消えてしまう。


あの人の言葉も、笑顔も、ピン止めにした蝶のような標本になってしまう。


それだけは、耐えられない。


でも、最初は、あの短剣は怖かった。


あの人が傷ついた記憶を思い出させたからだ。


次第に、それはあの人をぼくの中で繋ぎとめる唯一のものとなっていくにつれて。


その恐怖は、もう思い出になっていた。


そのとき嗅いだであろう匂いも、聞いたはずの声も、もう思い出せない。


あの人の声も匂いも、思い出になれば、着実に色あせてゆく。


そして、あの人をどれだけ大切に思っていたかも、それと共に消えてゆく。


何よりも、それが、恐ろしい。


あの短剣を直したのは、あの人に渡したかったからだ。


それが、ぼくがあの人に贈れる初めての贈り物だったからだ。


そんな大切な事も、あの人への感情が消えてゆくにつれ、分からなくなってしまうのだろう。


他人には簡単に言えるのに。


ありがとう、そんな簡単な感謝さえ、あの人には結局言えずにいる。


それが、一番ぼくの胸を締め付ける後悔だ。


沈む夕陽を見つめながら、足だけは懸命に動いている。


どこへ向かうのだろう。


そこまで考えて、ぼくは気付く。


二年が経っても尚、ぼくの足は仮の宿へ向かっている。


ハヌアを好きになれないのは、そのためだ。

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