第17話 器の中の残滓

一歩階段を下りてゆくごとに、身体に纏わりつくような闇の濃度は濃くなってゆく。暗闇の中で手にした松明だけが煌々と燃えている。視界の先に明かりはなく、この手元のともし火だけが、この暗闇を歩くための導べだ。足元を照らし、また小さな石段を見て取り、そこに足を下ろす。視界で捕らえただけの貧弱な認識は、石段に当たる足音と、その感触でようやく補強される。そうしてそれまでの石段から足を離し、次の石段に体を移す。しかし、この階段自体が、どうやらはるか昔に作られたものらしい。物音に反応すれば、石段にヒビが入っていることを、よく目にする。崩れないうちに階段を渡り、任務を終えて帰還せねばならないから、慎重に歩いてゆく事は、望ましい行動ではないのかもしれない。しかし、視界がほとんどないこと状況では、本能的に慎重にならざるを得ない。暗闇からは静寂しか伝わってこないのが、唯一の幸運である。気にすべき足元の環境に神経を集中できる。ある段に着くと、その先の下に伸びる段はなく、松明の火で照らすと、ただ平たい石畳が奥へと直線状に続いている。何らかの通路なのだろうか。どこか、地上につながる通路があるらしく、歩いてゆくうちにぬるい風の流れを感じるようになった。そして。進むに連れ、それは次第に臭いを帯び始める。あの、苔と、血と、何か酸いような臭いが、進むにつれ次第に濃くなってゆく。あの凄絶な死の匂いが、俺の目の前に確かに存在を伴っているように思える。


不意に、闇の中で空間の広がりを感じる。松明の火を翳すと、それは小さな部屋が通路の左右に密接されている光景である事が分かった。その部屋はただの個室であるように見えたが、ただ一点、その入り口には、鉄格子が嵌められている。ここは罪人の収容所であったのだろうか。そう考えたが、この場所は城のほど近くであり、罪を犯した者をすぐ傍に据え置くようなことは、為政者であるなら誰でもしようとはしないだろう。だが、想である事を分かっていても尚、その異様さはぬぐえない。何か歪んだ成分を感じずにはいられないのだ。


腐臭と違和感を抱えながら、なおも闇の中を進んでゆくと、目の前に、またも見覚えのある青い門が聳えていた。あの居城の正門と同じ作りの赤めのうの果実。そして、今までの腐臭も、悪寒に似た違和感も、すべてこの門の先から漏れ出ていると、瞬時に悟った。


その門を開いたとき、俺は一つの寓話を思い出していた。


パンドラの箱、無数の災厄の中に一つの希望を封じたという悪意ある寓話。


確かに、俺は嬉しくはあったのだ。


なぜならそこには、消えうせたと思われた人が、収容されていたのだから。


一人や二人ではなく、数百数千もの顔が、この門を開けた俺の方を向いた。


何かに動かされているのではなく、ちゃんと生きた人の動きとして、雑多であってもそこには生の輝きがあった。


この人々こそが、あの東側の消えた人々ではないのか。直感はそう訴える。


彼らは手を伸ばし、口々に叫ぶ。ここから出して、解放してくれ、と。


彼らは実に、動く事ができなかった。


足元を繋ぎ止める、くびきがあるのではない。


その身体が、縄や、鎖で縛られているわけではない。


彼らの前に、何らかの障害があるわけでもない。


しかし、彼らは、自由に動けるのである。


その二つの大きな足が、彼らを運んでゆくのだろうから。


その無数の腕が、彼らの障害を突破するのだから。


彼らを押しとどめるものなど、もうないのだ。


彼らは助けを請う。


それは、彼らが、もはや人としてどころか、一つの命としてさえ、もう生きることができないからだ。


その名称はあまりに酷く、あまりに冒涜的であったが、俺はその言葉でしか、目の前のそれを、形容する事ができない。


ヘカトンケイル。無数の顔、無数の腕を有し、神話の中で神々に疎まれ、地の底に幽閉されしもの。


実に、それには頭は一つしかなかったが、奇怪なほどに細長い腕が数十本、その両肩から伸びている。


そして、その身の丈はあの居城ほどあると思われ、全身は黒い鎧で覆われているのか、炎の光を無機質に反射する。


そして、胸元には、無数のいぼのようなものが生えていて、それらは人の上半身を象り、俺に向かって涙ながらに叫び続ける。もはや人でなくなった外見など度外視して、その内なる人間性を信じて、助け出してくれと叫んでくる。


あれは、あの異形の付属のような者たちが、すべて、生きている人なのか。


その事実に、俺は、その言葉を受け取るより先に、理性が燃え尽きそうな感覚を味わっていた。


そして、それが龍の心臓に冒されたものたちの、もう一つの末路なのか、という事実が、俺の意識をその暴力で削り取ろうとする。


怒りよりも、嘆きよりも、その他あらゆる感情を押しのけて、俺はその異形を前にして。


ただ、呆然としている。人間たちのこの最果ての末路に、ちっぽけな一つは、息一つ吸うという行為さえ、まともにできずにいる。


決定的な滅びを眼にして、底から逃れようともがく姿に、傍から見て、意味のないことだと悟ってしまったとき、人は、どうすればよいのだろうか。


俺の中には、その回答はない。そんなものがあるのなら、とっくの昔に自分自身に突きつけている。巨人はただ、こちらを睥睨するだけで、動くそぶりは見せない。それがかえって、彫像のように見えてしまって、現実の出来事であるのか、それとも立ちの悪い悪夢なのか、判別ができなくなりそうだ。それでも、叫びだけは、俺の鼓膜に響き続ける。助けて、たすけて、タスケテ。はっきり聞こえる声もあれば、今にも消えかかりそうな声がそれに混じるようにして、聞こえる。男の声。女の声。子供の声。老人の声。今そこで生きている、命の声。今そこで滅びようとする、ともし火の歌。そのなかで、もし、俺が息をすれば、彼らは俺が生きる事を選び取る事を知る。そして、前へ歩み出れば、彼らは彼らの命を救いに、俺が走り寄る事を想定するだろう。


背を向けて逃げる事は、できないだろうか。貧弱な声が、心の奥から、聞こえる。その手に握った剣を放し、彼らに背を向け、そのまま走り去る事は、何もなかったことにすることは、できないだろうか。幾千の命を、俺は救う事はできない。獣は生み出さない。ただ、眼前のものを破壊するだけだ。それがどれだけ崇高であろうとも、どれだけはかないものであろうとも、関係のないことだ。俺は、彼らの叫びを聞き入れることを断念する事もできる。人としてのあり方から外れる事で、その果てに、きっと俺はこの任を終えるだろう。彼らに向かうということは、人ならざる身で、人を殺す事でしかない。彼らを見捨てて逃げる事も、あるいは同じなのかもしれない。この暗い穴倉の中で朽ち果てるのか。


どちらにせよ、俺はあの村には帰れなくなるだろうことは、はっきりした。幾千の人々を殺した身の上で、どうして俺だけ幸せを求める事が許されようか。人ならざる身の上で、おろかにも人としてしがみつこうとした報いが、この有様であるとしたら、なんと滑稽なことであろうか。人でない偽者であるがゆえに、人の無欠のあり方を求め、それが自らの獣としての本能をゆがめて、結果出来あがったのがこの欠陥なのだ。潔白であろうとするあまり、敵に際しても自ら自身を傷つけていく。このようなあり方は、捨て去るべきだと、俺もどこかで気付いてはいなかったのか。


だが、それでも、俺はまだ、人もどきであることを手放したくはないのだ。俺は松明をそこらに投げた。すると、そこには油が満ちていたのか、火は燃え広がり、この部屋を周辺から照らすように燃え始める。しかし、俺にとっては、それももう意味は持たなかった。俺は白い光をなおも放つ剣を下段に構える。助けてとさせビ続ける彼らのうち、始めにそれに気付いたのは、ある女だった。その女は、それまで発作のように叫び続けていたそのほかと違って、ただ一人じっとしていた女だった。その女は、口を開いたが、音は出なかった。ただ、唇の動きを繰り返すようにして、ある言葉を、執拗に繰り返している。俺はその言葉を、読み取ったとき、やはり信じられなかった。試しに、果断に下げた剣を振り上げ、地面に振り下ろすしぐさを、その女に向けて見せる。その音に、その行為に多くの者が悲鳴をあげる中、その女だけが、目を閉じゆっくりと頷く。だが。俺は尚決断できない。もし彼女がこれからの俺の行為を了承したとしても、俺の罪が無くなるわけではないのだ。女は、それ以外の騒ぎ立てる者たちの方向を向いて、何がしかを伝えるべく、口を動かす。その言葉を、分かったものたちは、反発するものも多ければ、その言葉を受け入れるものも確かにいた。俺は、女の言葉が、彼らの中にどこまで届くのかを、じっと、見上げていた。そうして、その女の言葉が、彼らの中で反対するもののいなくなったとき、ようやく俺は打ち立てた剣を引き抜く。


だがこれでも、俺の罪はなくなるわけではない。


そういうことを自覚しながら。


それでも俺は、彼らにとっての魔物になろう。

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