epi.

 真白な天井と、そこから吊るされたひよこ色のカーテン。

 目尻からはらはらと流れる涙を感じながら、まずなんとなく、わたし達の家だ、と思った。でも、こんな幼稚園みたいな色のカーテンを選んだ覚えはない。そもそも、『わたし達』って……

「葉子?」

 そっと額を撫でられる。固まった首でぎこちなく顔を向けると、ベッドの横で男が心配そうにこちらを覗き込んでいた。

「……たかひろ」

「あぁ、よかった……大丈夫? どこか痛い?」

 大きくて、関節の太い手の感触が頬に添えられて、指先で涙を拭ってくれる。一瞬過った違和感は、水滴と共に消し潰された。

「ううん、平気」と、本当は起き上がりながら言うつもりだったけれど頭が重くて、身じろぎしただけに終わった。動いた表紙に左脚にじわりと痛みが湧く。

「まだ無理しないで。いきなり起き上がったら駄目だよ」

「どうして?」

「どうして、って……葉子、どこまで覚えてる?」

 困ったような隆弘の後ろ、簡素なサイドテーブルと小さなテレビ、畳んで立てかけられたパイプ椅子を見てようやく、どうやらここは病院らしいと思い当った。

 どこまで、と言われて、ついさっきまで触れていた気がする冷たい海風と苦しいほどの愛しさ、小さくて温かな秘密の香りが思い浮かぶ。そこに確証を求めようとすると、手から逃げた風船のように実感が遠ざかってしまう。その向こうに、割れたネイルと誰かの足が見えた。

「そうだ……わたし、ネイルに行って……」


 連休初日の5月3日に予約していたネイルサロンで鮮やかな萌葱と桜色で指先を飾ってもらい、大満足で店を出た。その後は美容院に行っている隆弘と合流して、義両親に遊んでもらっている娘の美桜を迎えに行く予定だった。





『もうすぐ終わるよ』

 隆弘のメッセージから逆算して、彼が来るまで40分は時間がある。いつもはバスに乗ってしまう距離だけど、良い天気だしたまには駅まで歩こうかな。それでも時間が余ったらスタバの新作ラテでも試しに行ってみよう。

 明日も明後日も休みだと思うといつもより元気が湧いてくるのはなんでだろう。昨日まであんなに疲れていたはずなのに。バスから眺めていた景色を頼りに駅を目指し、普段より人出の多い通りを行く。

 手を繋いで歩くカップル、アイス片手にはしゃぐ子供。ゲームセンターの前ではプリクラを見せ合って笑う女の子達。初夏の気配潜む光に照らされて、なんだか誰もが眩しく見える。


 あれ、ここの信号を渡るんだっけ? それとも次かしら。

 道路の反対側には見覚えのあるコンビニ。ここを通って、バスはどう走っていたっけ。地図アプリで確認しようかとバッグに延ばしかけた、はたと手が止まる。身体の感覚全てが視覚に奪われる勢いで、横断歩道の先、コンビニから出てきた彼女に目が釘付けになった。

「……さくら」

 日焼けを知らなそうな白い肌に、あの頃と変わらない艶やかな黒髪がやわらかにウェーブして流れ、少し大人っぽさを演出している。面影を残しつつもあどけなさは消え、化粧っ気の薄い素朴で可憐な、思い描いた通りの大人のさくらの顔。間違いない。

 追いかけようとして、一瞬躊躇った。

 会ってどうするの? 自分のした事、まさか忘れていないよね。中学生のわたしが、嘲るように囁く。絶対、さくらは会いたがって無いわよ。

 塾の非常口前で爆発してしまった十数年前のあの日から、さくらの動揺は哀れな程だった。わたし達は確かに仲睦まじく近い距離感で向かい合っていたけれど、恋心を抱くわたしと違ってさくらは、初めて出来た親友のような存在に舞い上がっていただけだったのだと思う。彼女の反応を見ていればそんな事もう分かり切った事だったけれど、諦めの悪いわたしは僅かな可能性に縋り付きたくて、そこで終わらせたくなくて、さくらの確かな想いを引き出そうと躍起になった。嫉妬させようとしたり、傷つけてみようとしたり、省みさせようとしたり。思いつく限りのデモンストレーションをして、最後、さくらに言われたのだ。


「もう二度と、わたしの人生に関わらないで……」


 そのまま中学を卒業し、わたしは約束通り彼女の前に現れないようにしていた。高校も大学も知っていたけど近寄らなかった。同窓会も行かなかった。大人になってしまえば当時の交友関係も途絶えてゆき、そのうちさくらの噂は全く耳に入らなくなった。


 踏み留まっている間に、さくらは道の角へ消えてゆく。このまま早く立ち去ってくれれば、彼女との約束は守れる。また彼女を傷つける事もない。

「……っ!!」

 それなのに、走り出してしまった。わたしは馬鹿だ。既に点滅していた信号機は赤に変わり、出鼻をくじかれた車が迷惑そうにクラクションを鳴らす。

 一言だけでも謝りたかった。それが自己満足な行為だと分かっていても。あの時、さくらに拒絶されて情けなく引き下がったけれど、そこまで追い詰めてしまったさくらの気持ちを思いやる事など全くできていなかった。このまま、後味が悪いばかりの想い出にしておきたくない。そんなの言い訳だ。さくらがそこにいる。会いたい。――あぁもう、頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 角を曲がると、さくらの姿はもう次の角へと飲まれてゆくところだった。こんなに走るのは久々で、脚は上がらないしつま先が痛い。息を切らしながら彼女の後を追って路地に飛び込んだ。

「待って……! さくら!!」


 その声がさくらに届いたのかは、分からない。

「うわっ」

 驚いた顔の男と、彼が跨る原付がわたしの目前に迫り、鈍い衝撃とともに世界がひっくり返った。頭に雷が落ちたかのように白い光が弾け、みるみる霞んでゆく視界の端にアスファルトを掻いた浅葱の爪と、倒れた原付、集まる人の足が映った。






「幸い原付は一時停止前でスピードもそこまで出ていなかったから、骨は折れなかったけど左脚は打撲と捻挫だって。命に別状はないって先生には言われたけど、2日も目を覚まさないからちょっと冷や冷やしたよ……」

 隆弘の話だと、原付を運転していた相手の男性に大きな怪我はなく、脳震盪を起こして気を失ったわたしだけが救急車で運ばれたのだそう。

「美桜は……?」

「あの日からそのまま、うちの実家に泊めてもらってるよ。葉子が起きないうちは可哀想で病院には連れて来なかったから、ママに会いたいって大騒ぎしてる」

 まだ3歳にもならない幼い娘は、淋しくて不安で仕方なかった事だろう。

「警察から電話があった時は胸が凍る思いだったよ。無事でよかった。本当に……」

 隆弘は毛布の中からわたしの左手を取り上げ、顔の前で固く握り締めた。彼と、わたしの左手の薬指にはお揃いの指輪がはめられている。

「……ごめんなさい」

 何をやっているんだろう、わたしは。

「いいんだよ、目を覚ましてくれたんだから」

 優しいわたしの夫は、赤い目をしているくせに穏やかな顔で微笑んでみせる。そんな表情を見ていられなくてわたしは思わず目を伏し、首を振った。

「……ごめ……本当に、ごめんなさい…………」

 喉が詰まり声が掠れる。まぶたの隙間をぬるい水滴が通り抜けてゆくのを感じた。


 ごめんなさい。こんなわたしで。

 ごめんなさい。さくら。


 なだめるように背中を撫でてくれる手を得ておきながら、わたしの心はなおも貴女を掴んでここに縛り付けていたいのね。


 サイドテーブルには、気持ちばかりの花が飾られていた。カードも何もついていない、 手のひらサイズの小さなフラワーアレンジ。

「……あぁ、あの花ね、事故を見ていたってい女の人が心配して届けてくれたんだって。病院の受付に預けていったみたいで、お礼も言えなかったんだけど」

 そろそろ看護師さん呼ぶね、とナースコールを手に取る隆弘の声を聞きながら、わたしはまた込み上げる涙に目を覆った。



 さくらだ。

 わたしは約束を破ってまた、彼女の人生に現れてしまった。

 後悔すると同時に、もうひとつの感情が胸に沸きあがる。


 さくらがわたしを忘れずにいてくれた。

 そして再び、わたし達の人生が繋がったんだわ。

 ここが新たな最後だとしても、その終幕を確かめる術はない。だからまだ、今は終わらない夢を見ていられる。


 さくら。どうか許して欲しい。こんな気持ちの悪いわたしを。





fin.


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ポピーの眠り 雨森 無花 @amemi06

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