3.
乗換駅から各駅停車の在来線で30分。
帰宅する人が増え始める夕暮れ前、なんとかふたり分の席を確保して暫く揺られながら時をさかのぼる。
「あのシャーペンは? 使ってないじゃん」
「シャーペン?」
「わたしが米田との賭けに勝って、貰ったシャーペン。さくらにあげたでしょ」
「あー…そうだったね」
少々気まずそうに、苦笑で言葉を濁すさくら。中学で唯一さくらと同じクラスになれた2年の時、わたしは隣の席になった米田という男子と、なんだか話をするうちに仲良くなった。おすすめの本を貸し借りしたり、給食のパンをあげたりしていた姿を近くで見ていたさくらは、「見ていると何故かジェラシー」を感じていたと言い、その嫉妬心は米田への恋心から来ているのではないか、と自己分析したらしい。
まだ自制心がきちんと働いていたその頃のわたしは、まぁさくらが喜ぶならばと、米田とくだらない賭け(確か来週の天気、とか)をして勝ち取ったシャーペンをこっそりさくらにプレゼントしたのだ。
「ペンケースには入れてるよ、たぶん」
決まりの悪そうな顔で、むぅと唸るさくら。
結局あの時好きだったのは本当に米田だったの、なんて訊く勇気は未だにない。
中学3年の春には、お互いに好きだった女優の主演映画を、こんな風に並んで電車に乗って観に行った。真夜中の海辺に座りギターを弾くシーンが印象的で、すっかり感化されたわたし達はギターが欲しいと随分騒いだけれど、結局ふたりとも手を出さなかったな。
それから、あの映画に出てきたあの海へ、受験が終わったら行こうと約束した。さくらが、そう誘ってくれた。それが何より嬉しかった。
まさか受験より先に、わたし達の関係が終わってしまうとは思いもしなかった。
移動の間に太陽はすっかり西に傾き、美しく海面を火照らせていた。
砂浜で思い思いに過ごすカップル達に紛れ、手を繋いで歩くわたし達は、愛し合う恋人同士に見えているだろうか。それともやはり、仲の良い女友達に過ぎないだろうか。
約束の海へは、未だ行けていない。
15歳のあの日、待ちに待った志望校の合格通知を手に、もう見ることの叶わない景色を思い浮かべては泣いた。憧れの海で、喜びはしゃぐさくらの笑顔。想像でしかないはずのそれは、しかしあまりにも眩しくて、目を逸らす事も、掻き消す事もできなかった。
「今日は風も落ち着いてて良い感じだね」西陽を飲み込み始めた水平線に目を細めて、さくらは満足気に言った。
「日没までゆっくり見られる」
連れてきてよかった。子供の頃から変わらない、あどけないさくらの横顔を見つめる。彼女の頬が、淡い茜に溶けてゆくその様は、儚くて綺麗だ。
そう、さくらは変わらない。まるで15歳で時が止まったかのように、さらさらの黒髪も、少し丸みを帯びた輪郭も、身体つきも全て。
沈む夕日を座って見守ろうと、岩場まで歩いて腰を下ろした。相変わらずさくらの手は握り締めたまま、しかし繋がっているという安心感はあるのに、手のひらの感触は漠然としている。
いつ動いたのか分からないくらいゆっくりと空を周遊する太陽は、そのくせ水平線が近づく頃には1日の終わりを惜しまない。まだ海から離れて見えている丸い光の塊だが、あと数十分ほどで夜を連れてくるだろう。
「あ、そうだ、この前借りたマンガ面白かった。もう1回読み直してから返すね」
「……なんだっけ?」
「やだ、もう忘れたの? 葉子はおばあちゃんだなぁ」
昔はあれこれ興味を以っては本や漫画を買い漁っていたけれど、最近では書店に近づくことすらない。さくらに最後に何かを貸したのはいつだっけ。
「わたしも行ってみたいなぁ、異世界ってやつ」
「うわ、中二病炸裂」
「うっさい、葉子のばか。葉子だって、よく言ってたじゃん」
ぶんっと手を振り払われる。離れた左手をすぐさま迎えに行く。
「ごめんって。そうだね、さくらと一緒なら異世界でもどこでも、別に飛ばされていいかな」
「異世界でも、海があるといいな」
「あるでしょ、大抵」
「害虫もいない世界」
「それは切実に願う」
眺めていた恒星はすっかり海の陰にその姿の殆どを隠し、鮮烈な光線を空に放っている。それでも構わず、わたし達は話し続けた。
「村人1号に、なんだお前、見ない顔だなって言われんの」
「そして長老のところへ連れて行かれる?」
「うーん、それより魔女がいいな。魔法がある世界で、魔女に正体を占われるの」
そうだ、さくらは魔法使いものが大好きだった。ハリー・ポッターの台詞を殆ど暗記してしまう程に。隣で勧めてくる人間がいなくなって、何年も読んでいないうちにあのシリーズは終わってしまった。
「魔女ってなんか手厳しそうじゃない? 受け入れてもらえるかな」
「優しいおばあちゃん魔女なの。この世界の食べ物を食べれば、身体もすぐに馴染むだろうって言ってくれるの」
「出た、定番」
とりとめのない妄想話にふたりして吹き出す。
「……ずっとここに居たいなぁ」
言ってから、思いが声になって漏れたと気づく。
次第に強くなり始めた海風が、今いま沈んだ太陽の残り香を吹き飛ばしながら、さくらの長い髪を躍らせていた。赤みを帯びた薄闇に取り込まれて、お互いの輪郭が曖昧になる。
「風邪ひいちゃうよ?」
さくらが呆れ顔で笑っている。
「風邪くらい良いよ、引いても」
あぁ、泣きたい。
幸せだ。
15年前に生まれたわたし達の亀裂は、今、この海辺の砂のように柔らかいものでそうっと隠されている。こんな風にあおられてはそのうち露わにされてしまいそうなくらい軽くて脆いその上に、それでもこうしてわたし達は並んで立っていられる。
ずっと後悔していた。あなたから離れてしまったこと。
さくら。
さくら、さくら。さくら。
「大好きだよ、さくら」
「うん、わたしも」
嘘だ。
すぐそこにあるはずなのに、頷いて笑ったように見えるその表情にピントが合わない。寧ろ目を凝らしたらハリボテに気づいてしまいそうで、わたしはさくらの暗い首筋あたりをぼんやり見下ろした。
スクリーンへ我儘に見たいものだけを投影しているような、他人のホームビデオでも見せつけられているような、手応えの無さ。望むように描くほど、安っぽくて惨めに映る。
「さくら、今どこにいるの?」
「内緒」
いつの間にかつま先に届く距離まで潮が満ちてきている。靴底を掠めていった波の跡、足元がしっとりと濡れている事に気がついて、急に寒さを感じ始める。足の指からじくじくと込み上げてくる冷たさに、いつかの塾の非常口を思い出した。今はきっと、わたしがあの時のさくらみたいな顔をしているのだろう。
「ねぇ、会いに行ってもいい? 謝りたいの……」
「やだ。駄目」
こんな時でもさくらは笑っているみたいだ。だけどいよいよ、その顔を見つめられない。
「やだって、やだ。さくらに会えないなら、ずっとここにいる」
駄々っ子みたいに首を振って、それでもさくらの気配が遠くなっていくのを感じた。これではまた、さくらのいない世界になってしまう。わたしは咄嗟に、海水の滑る砂浜へ倒れ込むように膝をつく。左脚が嫌に痛んだけれど構わない。砂浜へ手を突っ込んで、潮で重たくなった砂を握りとり、迷わず口の中へと突っ込んだ。
途端に広がる、苦みとエグ味。極限まで圧縮された繊維の塊、強いて言うならまるで断熱材を食むような食感。
まだ足りない。もう一度、もっと多い量を口へ運ぶ。砂を食べているはずなのに、やっぱり同じ味がする。海辺の砂なんて食べたことないけれど、きっとこんな味はしないんだろう。ザラザラした砂の感覚もない。だけどもし、もしもこれが砂の味になれば、わたしは『ここ』に馴染めるんじゃないか。
もうひとくち。もうふたくち。
どんなに必死に砂を搔き集めても、その感触さえ鈍い意識の奥にあるだけ。
嫌だ。嫌だ。最早声に出しているのかどうかもよく分からないけれど、止めてしまったら今度こそ終わりだ。
「やめてよ、気持ち悪い」
頭上から酷薄な声。それでもいい、姿が見えるならそれでも。涙か終幕か、滲む視界のなかでさくらを見上げる。陽の光を失った暗い海辺で、彼女の姿はもう断片的にしか認められない。
「もう二度と、わたしの人生に関わらないでって言ったじゃない」
ㅤぷつり、と潮騒が途切れ、静寂の中で世界が暗転した。
「っ…………そう、だったね……」
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