第2話
翌日の全校朝礼で、麗はさっそく昨日のことで表彰された。他に剣道部とサッカー部も表彰されていたので、一人だけというわけではなかったけれど。そのあと、廊下ですれ違ったときに話しかけようとしたけれど、すっと避けられてしまった。まだ昨日のことが気まずいのかな。クラスが離れているから、その後はそれきり会わなかった。
昼休み、私は自分のコンクールのため、第二音楽室のピアノを借りに来た。
先生に聞いたところ、麗は私のコンクールが終わるまで家で練習することにしたらしい。麗の配慮はありがたかったけれど、魚の小骨が刺さったように、ちくりと痛かった。
ほとんど使われない第二音楽室は、古びてがらんと広くて、ここだけ昔に取り残されたみたい。不揃いで傷だらけの机が並ぶ前方に、どん、と置かれたグランドピアノ。このピアノも随分と古い。だけど最近、調律してもらったそうで、音には問題ない。
蓋を開けると、鍵盤にかぶせてある赤いフェルトの布をとって近くの机に置く。角が破けてスポンジののぞく黒い椅子に腰掛けると、位置を微調整。鍵盤に指を伸ばした。
指ならしでハノンを少々。廊下を通り過ぎる人達が急なピアノの音に驚いて足を止めたようだったけど、気にしない。
一通り指ならしを終えると、楽譜を開く。何の因果か、麗のコンクール曲と同じバロック音楽だ。しかも、作曲者はバロック音楽を大成したJ・S・バッハ。曲が決まった時期は全く別で、決めた経緯も全然違うのに、偶然に重なってしまったのだ。
『バロック』とはポルトガル語の『歪んだ真珠』を意味する『barroco』に由来する芸術用語だ。音楽だけでなく建築や絵画にも広く使われる。だいたい十七世紀初頭から十八世紀中ごろの様式だ。作曲家の有名所ならバッハやヘンデル、ヴィヴァルディが挙げられる。バロック音楽は形式ばって面白くないという人もいるけど、私はこのバロック音楽の規則的な形式に則った構成や、繊細な旋律の掛け合いがとても好きだ。
私は、一呼吸置いて鍵盤へ手を伸ばした。
柔らかで希望に満ちた提示部。変化を加えながら繰り返される主題、展開されて悲観的なメロディへ。悲しみがひときわ盛り上がったところで救いの手が差し伸べられ、主題が再現される。提示部・展開部・再現部から成る古典的なソナタ形式だ。ソナタ形式もバロック音楽の一つの形式である。
今回、コンクールの曲に選んだのは、バッハの典型的な教会音楽。荘厳にして優美。希望に満ちていて、優しい。絶望からの救済を連想させるような楽曲だ。
流麗な音の流れが途切れないように、だからといって音の粒が曖昧になってしまってはいけない。音のまとまりを大事に。展開部は感情の高まりをうまく制御しなければならない。乱暴になってはだめ。そこは指先だけじゃなく体全体を使って。もっと歌って。もっと表現豊かに――
先生と母の言葉がぐるぐると頭を巡る。
ピアニストになりたかった母の影響で二歳の頃からピアノを始め、もうかれこれ十三年経つ。
五歳になる頃には様々なコンクールに出されて神童と呼ばれ、望んでもいないのに今でも今後期待の有望株だとか言われている。
小学校の頃は遊びになんて行かせてもらえなかった。平日五、六時間の練習なんて当たり前。休日はご飯とお風呂と睡眠以外はずっとピアノ。有名な先生に習いに行って、家でも母にずっと付きっきりで練習させられて。
辛くはなかった。物心つく前からピアノを弾くことが当たり前で、ピアノ以外の生活を知らなかったから。だけどピアノが楽しいとも思えなかった。私にとってピアノは呼吸と同じようなものだ。呼吸を楽しいと思う人が一体どこにいるというのだろう?
それが変わったのは、中学校で麗に出会ってからだった。
母は、本当は音楽で有名な中学校に入れたかったらしいんだけど、勉強も大切だと主張する父の意見と、当時コンクールに出すぎて極度の緊張のためにノイローゼになった私の様子を鑑みて、地元の公立中学校への入学を決めた。
当時、ピアノを弾くこと自体はどうもなかったのだけど、小さい頃はあんなに何ともなかったコンクールの舞台に立つことが、学年が上がるにつれ、極度に苦手になっていった。それでも母の期待を裏切りたくない、コンクールに出ないといけないという圧迫感から、精神的に追い詰められたのだった。
麗と友達になったのは、ちょうどその頃。中学一年生の時だった。
お医者さんから、しばらくはピアノやコンクールを控えるように言われて、私以上に神経質になってしまった母から、家でピアノを触らせてもらえなくて、どこか物足りなさを感じながら生活していた頃だった。
入学したてでまだ友達もいなかった頃、音楽の前の休み時間に、かなり早く音楽室に着いてしまった私は、なんとはなしにピアノへと手を伸ばしていた。しおれた植物が水を吸い上げるような、本能にも似た自然な行動だった。
気付いたら指が勝手に動き出して、音楽を紡いでいた。無意識のうちに演奏していたのはバッハの平均律クラヴィーア。
ゆっくりと確かめるように、感覚を取り戻すように。指が、体が、心が。ピアノを欲していた。
「すごい……」
ぽつりとこぼれた溜め息のようなつぶやきに、はっとして辺りを見回せば、同じクラスの麗が教科書や筆箱を手にしたまま、すぐ近くに立っていたのだった。
「え?」
「すごい! ピアノ、とっても上手なのね!」
「あ、いや、そんな」
こちらが何か言う前に向こうからたたみかけてきた。今まで学校でピアノを弾く機会なんてなかったから、同年代の人に褒められたのは初めてで、気恥ずかしさと言いようのない嬉しさを感じたのを今でもはっきりと覚えている。
「ねえ、良かったら今度、また聞かせてくれない?」
「あ、えっ、うん……私なんかで良ければ」
「もう、せっかく上手なんだからもっと堂々とすればいいのに!」
「ご、ごめん」
「謝らなくたっていいよ。私、佐々木麗。よろしくね」
「村上、神奈です……よろしく」
こうした麗との出会いがあって、私と麗は瞬く間に仲良くなっていった。
少しだけ強引な所もあるけど明るくてしっかりしたお姉さん気質の麗と、優柔不断でピアノ以外のことには本当に世間知らずだった私とは、うまく波長が合ったのかもしれない。
休日に麗の家に遊びに行ってピアノを弾いたり、麗が私の家に遊びに来たりするうちに、少しずつノイローゼも治っていった。吹奏楽部に入ってフルートをしている麗の練習を手伝ったり、伴奏をしたりするうちに、本当にピアノが楽しいと思えるようになったのだ。
今までずっと一人で演奏してきた私にとって、誰かと演奏するということは新鮮な体験だった。もちろん、一人じゃないから思うように行かないところもあったけど、そんなところがぴったりと合ったときの感動といったら、自分一人で難しいところが弾けるようになった時の何倍も嬉しかった。
一年生の終わりの春先にあった吹奏楽の大会で、麗のフルート独奏の伴奏をしたことをきっかけに、またコンクールにも出られるようになった。
一年生が独奏で大会に出るというのは吹奏楽部でも異例の出来事で、色々と大変なこともあったけど、それを乗り越えて二人で舞台に立ったときは、言いようのない感動を覚えた。一人ではない舞台は心強くて、前はあれほど緊張した舞台も観客も全く気にならなかった。練習の甲斐あって大会で金賞を獲得したときは二人で手を取り合って喜んだものだ。
それから、私もピアノを本格的に再開して、小学校の時ほどはいかないまでも、それに近い質と量の練習をするようになった。それでも、麗とは頻繁にセッションしていたし、麗が大会にでる時は決まって伴奏を引き受けた。
私にとって、麗との演奏は本当に掛け替えのないものなんだ。
しかし、進路を本格的に考え始める三年生になると、色々とすれ違うようになってきた。
県下でも有名な音楽の名門高校に進学することを真剣に考えている麗だったけど、今の能力や成績では厳しいと先生から言われたのだ。そしてそれと同じ頃、私もその学校を目指していたのだけど、全国規模のとある大きなコンクールで最優秀賞を取ってしまったため、先生からもう安泰と言われてしまったのだ。
決定的な、差。
麗は私が賞を取ったとき喜んでくれて、次は私も頑張らないとね、と前向きな事を口では言ってくれたけれど、その時の笑顔には麗らしくもなく影が落ちていたのを覚えている。
それからいくつか大会やコンクールがあったけど、コンクールは予選落ち、大会でも芳しくない成績が続くなど、麗にとっては滅入る状態が続き、ほとんど後がない状況で臨んだ昨日の大会での銀賞。
麗にとって、どれだけショックだっただろう。
私は麗に後がない状況を知っていたからこそ、コンクールを控えた状況で母やピアノの先生に無理を言って麗の伴奏を引き受けさせてもらった。本当に力になりたかったんだ。そこには、贖罪の意思も含まれていたかもしれない。自分の中で、自分が自分を責め立てていた。
『私が麗を焦らせて』
『私のせいで麗は』
『私があそこで賞なんて取らなければ』
『私が』
『わたしが』
『ワタシが』――
そう思う私が、一番焦っていたのかもしれない。私をどん底から引き上げてくれた麗を踏み台にするようなことだけは絶対にしたくなかったんだ。
――そんなことを考えて、少しも練習に身が入らない。麗に言われた昨日の言葉が、思いの外、深く心に浸透しているようだった。
『神奈は私と違って才能もあるのに!』
きっとあれは麗の心からの本音。
思うようにいかない歯がゆさと、進路への不安と、コンクールを控えているのに他人のことにかまけている私への怒りと、そこから感じる能力の差への苛立ちと。押さえきれなくなった思いがあふれでて、のどからこぼれ落ちてしまった――そんな風に感じた。
結局、私は麗を追い詰めただけだったのかもしれない。
どうしても払拭しようのないその思いに、不意に泣きたくなった。
麗とは疎遠になったまま、あっという間に私のコンクール予選は当日を迎えた。演奏順は十番目。お昼過ぎだった。
一人で立つ舞台は広くて、ライトがやけに眩しい。会場には審査員と関係者ばかり。
緊張はするけれど、麗のプレッシャーとは比べ物にならないくらい軽いものだと自分に言い聞かせる。
観客席に一礼して、椅子に腰掛けた。
テヌートのついた最初の一音が会場に反響する。リハーサルの時にも思ったけど、やっぱりよく響く。続けて流れ出す音の波。柔らかで穏やかで、それでいてどこか厳かで。ただただ体に染み付いた曲のメロディとイメージが、指を、腕を、体を動かしている。音楽と一体になる。提示部から展開部へ。ああ、そうか。この悲観的なメロディは悲しみだけではない。どうしようもない現実への憤りも含まれているんだ。悲しみの奥に押し込められた怒りと苦しみ。さあ、救済へ向かおう。この現実から解き放って。温かくて希望に満ちた世界へ連れて行って。救いの手が、ゆっくりと差し伸べられる。救い上げてくれる。ほら、もう大丈夫――
はっと気付けば、演奏が終わってゆっくりと鍵盤から手を離しているところだった。
状況を把握するのに半瞬を要して、そっとその手をひざへ下ろすと、一呼吸おいてから立ち上がる。始めと同じように観客席に一礼すると、会場からは割れんばかりの拍手が聞えてきた。
その音を背に、舞台袖へ下がる。なんだか頭がくらくらした。演奏時のことを覚えていないなんて、こんなことは初めてだった。
舞台袖から控え室までの廊下へ出たところで母に遭遇した。
「神奈、あなた今日、どうしたの?」
「えっ、どこか変だった?」
どこか呆然とした母の様子に、何かとんでもないミスでもしてしまったのだろうかと不安に思って聞き返す。なんて言おう。演奏の時のことを覚えていないなんて!
「とんでもない! 素晴らしかったわ! とても情緒的で、特に展開部から再現部への移り変わりなんて、こう……うまく言えないけど、心を揺さぶられたっていうか、とにかく、本当にすごかったの!」
「ほ、ほんとに? お母さんがそんなこと言うなんて、珍しいね」
興奮気味の母に若干引きながら私は答えた。ピアニストになりたかった母は期待も大きいため、感想も毎回辛口だった。それがべた褒めだなんて。
「だって本当に素敵だったのよ、予選の結果通知が楽しみだわ!」
私よりワクワクしている母の背をどこか他人事のように見つめて、私は薄暗い廊下を抜けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます