歪んだ真珠達
佐倉島こみかん
第1話
――ライトが、眩しい。
午前の部というだけあって、照明の落とされた会場に人はまばらだ。舞台に上がった私達は観客に向かって一礼するとそれぞれスタンバイした。
私はピアノの椅子に腰掛けると、鍵盤へ手を伸ばす。
動き出す鍵盤に合わせるように、麗のフルートが歌いだした。
このコンクールは県でも大きな大会だ。音楽の名門校である尚陵高校を目指す麗にとってはこれが登竜門と言ってもいい。推薦を受けるにはここで金賞を取る事がどうしても外せないんだ。
今日のために一生懸命練習してきた。大丈夫、麗ならやれる。そう信じて、私は鍵盤の上で指を躍らせる。バロック音楽特有の、メロディの追いかけっこ。掛け合うように、呼び合うように、旋律が絡み合い、引き立て合って、異国の街が夕暮れを迎えたような、優美で情感にあふれる情景を創り出していく。
きらめく高音。柔らかな低音。駆け上がる音階に、程よく効いたビブラート。麗の調子もすこぶるいい。
中盤に差し掛かる。今までよりテンポが格段に速くなる。華やかで軽快なメロディは、夕暮れの街に明かりが灯り、舞踏会が始まったかのよう。軽やかに追いかけてくる旋律。くるくるとターンを繰り返すように、互いが互いを追いかけあう。練習通りにいっている。時々音の処理が荒いところまでそのままだけれど、それはもう仕方ない。演奏に緊張の色はうかがえないのは、いいことだと思う。
順調だった演奏に影が差したのは、終盤に差しかかってからだった。
麗のフルートのテンポが徐々に上がってきている。練習の時より随分と速い。この速さでいくと、最後の
私はすぐさま楽譜全体を思い浮かべた。私の伴奏を聞いてからでないと麗のフルートが動き出せず、麗が音を伸ばしている所。その前後で少しずつテンポを落として、どうにか元に戻すしかない。この先に五ヶ所ほどそういう所があることを思い出して、速さの配分を考える。
もう八拍もすればその部分だった。麗の顔にも焦りが見える。彼女自身も自分のテンポが速くなっていることに気付いてはいるのだろう。自分ではどうしようもなくなっている、そんな感じだ。
例の箇所が来た。麗のフルートが伸びやかな高音を奏でるのと同時に、私はごくわずかに速さを落とす。ちらりと目が合った。アイコンタクトでタイミングを計って次の音へ。うまくいった。テンポを落とすのも忘れてはいない。麗も幾分落ち着いたようで、表情にも冷静さが戻ってきた。
注意深く、けれど確実に、同様の方法で速さを元に戻していく。最後のアッチェレランドに入る十六小節ほど前で、テンポは完全に元に戻った。これなら終焉を飾る怒涛の音の波が生きてくる。練習通りにいけるはずだ。
めまぐるしく高低を行き来する旋律。終焉が近い。強く激しく、けれども荒くなってはいけない。極めて繊細に、それでいて大胆に。独奏楽器を引き立てることは大前提。ペダルを踏むその一動作にさえ神経を行き渡らせなければならない。
とうとう最後の
細やかな音のきらめきを詰め込んで、曲は最高潮へと駆け上がる。限界まで速くした超絶技巧。追いかけて追い抜いて追いついて。絡み合う伴奏と主旋律が徐々に一つに収束され、ピアノの重厚な和音と抜けるようなフルートの音色が会場いっぱいに響き渡った。
――演奏、終了。
私は椅子から立ち上がり、麗の横に並んだ。最初と同じように一緒に一礼すると、会場からは思ったより大きな拍手の音が聞えてきた。その音にやっと終わったことを実感し、それでも次の演奏者のため、速やかに舞台袖へ移動する。
「ああ、一時はどうなるかと思った。あそこから立て直せたのは
憔悴しきったように、それでもやり遂げたことに対する一かけらの安堵を浮かべながら、麗は私に言った。
「いえいえ、どういたしまして。速くなったときは本当にどうしようかと思ったけど、麗がすぐ冷静になってくれたから良かった」
私が、緊張から解放された笑顔を向けて言えば、麗は少し表情に影を落とす。
「でも、金は無理かもね……中盤、やっぱり音が汚かったし、テンポも速くなったし」
「だけど、ほら、それ以外は完璧だったじゃない。きっと大丈夫よ、それに」
「神奈、無理しなくていいわ。分かってる」
私が慌てて言いつくろえば、麗は遮るように首を振った。
「コンクールはあともう一つあるんだし、そっちで頑張るよ」
「もう、麗ったらまだ結果は出てないのにもう次の話? どうなるかなんて分からないんだから暗くなるのはよそう? ほら、もうすぐ十二時だし、お弁当でも食べようよ。川崎先生も待ってるよ」
気丈に笑みを浮かべて言う麗に、私は否定も肯定もできなくて無理に明るい話題に持っていく。
「そうね……そうしようか」
麗も少し踏ん切りがついたらしく、私の提案に乗ってくれた。
吹奏楽部顧問で今回の私達の引率者である川崎先生と合流してご飯を食べると、すぐ午後の部だった。やっぱりどこもレベルが高くて、会場にもずいぶん人が増えていた。
全部を聞き終わると、休憩時間も兼ねて審査の時間が取られる。その間に、演奏者はこの後の表彰のため舞台に設置された壇上に上るのだ。ざわつく会場の雰囲気に、会場の座席に座ったままの私でさえ、いやがおうにも緊張が高まった。
しばらくするとブザーが鳴り、下りていた舞台の緞帳が上がる。会場の照明は落ちていた。いよいよ表彰だ。
表彰では、全員に必ず金賞・銀賞・銅賞のいずれかが与えられる。そこがスポーツの競技と違うところだ。
舞台中央より上手寄りにスタンドマイクが一本。舞台袖から審査員長のおじいさんが出てくる。吹奏楽連盟の重鎮、梅木先生だ。隣には賞状の入った黒い盆を持った係の人が並ぶ。
「それでは、成績を発表いたします」
梅木先生がマイクに向かって言った。
「粟野中学校、林田真奈美――銀賞」
とうとう始まった。私達は午前の部の八番目だから順番まであと七つある。
呼ばれた順に進み出て賞状を受け取り、また自分の場所に戻ってくる。一人、また一人。一連の流れの中には参加者全ての感動や絶望が詰まっているんだ。
「隼野中学校、有馬啓二――銀賞。舞原中学校、加藤沙耶――銅賞」
次々と名前と賞が読み上げられていく。銅賞が呼ばれると、会場全体が『お気の毒に……』という雰囲気になるから怖い。
「日田川中学校、猪瀬はるな――銀賞。国分寺中学校、木原千歳――金賞」
金賞の二文字に、会場にどよめきが広がった。次が麗だ。何もこのタイミングで金賞が出なくたって!
「樫木中学校、佐々木麗」
息を飲む。手を合わせて必死に祈る。
「――銀賞」
無情にも、銀。麗は賞状を受け取ると唇を噛みしめて元の場所に戻っていった。
残りの人達が次々と呼ばれていく間、麗はじっと下を見つめて微動だにしない。ただ、何かをこらえるように拳を固く固く握りしめている。
最後の人が賞状を受け取って元の場所へ戻ると、梅木先生が閉会の言葉を述べた。電動音を立てながら、ゆっくりと緞帳が下りてくる。会場は再びざわざわと喧騒を取り戻した。
――終わったんだ、このコンクールは。
会場の座席に座ったままの私は、ぼんやりとそんなことを思った。うすうす分かっていたとはいえ、今までの練習や麗の進路を思うと、やっぱり辛い。
「村上さん、大丈夫? どこか具合でも悪い?」
「あ、いえ。大丈夫です。ちょっとショックなだけで」
川崎先生に声を掛けられてようやく我に返る。隣に先生がいることも忘れていた。
「先生、神奈! ここだったんだ」
「麗……」
賞状を右手に、舞台から戻ってきたらしい麗がこちらへ走ってきた。
「ほら、だから言ったでしょう、金じゃないって」
冗談めかして言いながら、麗は私に賞状を突きつける。
「佐々木さん、お疲れ様。よく頑張ったわね」
「ありがとうございます、先生」
努めて明るく振舞う麗を元気づけようとする先生に、麗も笑顔を返す。
とっさに言葉の出てこなかった私も、ようやく落ち着きを取り戻して麗に笑みを向けた。
「次、頑張ろうね」
「うん、まだ終わったわけじゃないもん。次、頑張るよ」
もう麗は前を向いている。一番辛いのは麗のはずなのに。私がうつむいてる場合じゃない。
「そういえば、神奈はその前に自分のピアノコンクールがあるんじゃなかったっけ?」
「うん、そうだよ。予選がもうすぐ」
帰る準備をして三人で会場を出ながら、私達はやり取りした。
私も麗と同じ高校を目指している。そうでなくてもピアノの先生の関係でコンクールに出ることは多いのだけれど。
「もうすぐって、いつなの?」
「……もうすぐは、もうすぐだよ?」
言葉に詰まった。これは、まずい。
「神奈? 何か言えない理由でもあるの?」
「あー、いや、別に」
問い詰める麗から必死で目を逸らす。
「神奈?」
「だって言ったら、麗、怒るもん」
「もう! 先生、神奈のコンクールっていつなんですか?」
私では埒があかないと判断した麗は即座に先生に尋ねた。私は必死で首を振って言わないよう先生に目で懇願する。
「え、その……再来週」
「再来週っ?」
観念した先生が白状してしまったため、私は思いきり頭を抱えた。
「神奈!」
「は、はい!」
明らかに怒っている麗を恐る恐る見上げ、返事をする。麗は私よりだいぶ背が高いから、こんな風に見下ろされると更に怖い。
「再来週ってどういうこと? 私なんかのこと手伝ってる場合じゃないじゃない! なんでそんな大事なこと早く言わないの!」
「だってもし言ったら、麗、伴奏させてくれなかったでしょ?」
「当たり前でしょう!」
セミショートの髪を片手でグシャグシャとかき回して麗は叫んだ。
「私は、麗の力になりたかったの……それに、練習時間だってちゃんと確保してるから大丈夫だよ」
「そういう問題じゃないでしょう、神奈」
麗は険しい目つきで言う。
「なんで大事なコンクールを控えてるのに自分のことに専念しないの、神奈は私と違って才能もあるのに!」
苛立ちに悔しさをにじませて、神奈は私へ言葉を叩きつける。
「麗……」
「あ……ごめん、気にしないで」
思わず震えた声をこぼせば、麗ははっとしたように二、三度首を振って目を伏せる。
それきり会話が続かなくてギクシャクしてしまった私達の間に挟まれて、川崎先生は困っていたようだけれど、私達にはどうすることも出来ずに、その日は帰途についた。
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