第43話 さようなら、高校生世界
「ちょ、ちょっと待って!」
割って入ったのはやはり、香里の声だった。
じりっと僕に歩みより、傘越しに見上げてくる。
「あんた、わたしのことが好きなの?」
「…………え?」
いま? 空気読もうよ、香里……
空気読もうよっ!
「えっと……その話は別に、今じゃなくても……」
「どっちなの?」
「えぇーっと、だから……」
「わたしとその幼なじみの子、どっちが好きなの?」
「……え?」
「あんた、幼なじみの子を助けようとしてるのよね? それって、その子のこと好きだからでしょ?」
「好き、だけど」
「じゃあ、わたしのことは好きじゃないでしょ?」
「違う、『僕』は香里のことが好きで、僕だってこの世界に来て……あれ? でも僕が未来を変えたら、悠花が存在するなら『僕』は香里のこと……」
顔を上げると、不安そうな目で僕を見つめる香里の視線があった。
その隣で、厳しい目をしている美波先輩。
未来は変わる。
そうなれば当然、出会うはずだった人と出会わなかったり、大切な存在になるはずだった人が、そうじゃなくなったりする。
もし僕がこの試練を乗り越えて、悠花を救うことができたなら香里は。
きゅっと唇を結んだ香里が、僕に歩み寄ってきた。
呆然とその様子を見つめていた僕の頬に、香里の手のひらが飛んでくる。
「…………え?」
バッチーンっと、思慮する間もなく盛大な音が雨空の下に響き、僕の身体は弾けたんだ。
グジャっと、手に持っていた傘が地面に落ちると同時、僕も尻もちを着いた。
「痛……痛ぁ……え? なんで?」
香里が僕を見下ろしていた。
雨に濡れた前髪のせいで、表情は見えない。
「なんで⁉︎」
声を張り上げると、うつむいていた香里が目線を僕に向けた。
香里は傘を差しているから、頬を伝うものは雨ではないだろう。
「許すっ!」
雨音に負けないくらい大きな声で、香里が叫んだ。
意味がわからず惚ける僕と、ポカンと口を開けて僕らを見つめる美波先輩。
しばらくして香里が、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「あんたのこと、許すからっ!」
「ゆる……許すって、え? なにを?」
「だから、あんたが、幼なじみの子を助けること」
「え? あ、うん……」
「それでわたしのこと忘れても、わたしを好きだって言ってくれたあんたが消えても、許してあげる! だから、頑張りなさいよっ!」
わっと、香里が声を上げて泣き出した。
雨の音よりも激しい、高い泣き声。
「後悔してんでしょ? 途中で諦めたこと。だったら今、チャンスがあるうちに頑張りなさい! 未来がどうなろうと、わたしがあんたを好きって気持ちは変わらないからっ!」
「え?」
「ていうかわたし、両想いだと思ってなかったのよね! だから、あんたの気持ちがわたしに向いてなくても大丈夫。だけどきっと、わたしは好きになる。どんな未来になっても長束健を好きになって、いつか幼なじみの子から奪って、わたしを好きにさせるからっ! 略奪婚てやつよっ!」
「り、略奪愛の間違いじゃないかな?」
「口答えするんじゃないわよっ!」
「ぴぎゃんっ!」
「とにかく! だから、未来がどう変わるとか気にせずに、後悔ないようにやってきなさい。未来は変わるけどわたしは変わらない、あんたのことずっと待ってるから!」
ザァァァアと雨の音が地面に落ちる、ポツポツと傘を打ちつける。
僕の頬を伝うものは雨のだけじゃなくて、涙も含まれていたと思う。
「待ってて、くれるの?」
弱々しい僕の言葉に、香里は大きく頷いた。
「約束する、わたしはここにいる。ずっと……二年後の未来であんたを待ってる。だから諦めないで、最後まで走りきって来なさい! どんな結果になっても絶対、あんたの未来には私がいる!」
振り上げる香里の手を、僕の手のひらが掴んだ。
不発に終わったビンタに驚いた香里だが、やがてふやっと可愛らしい笑顔を見せる。
「かわされちゃった」
「うん、初めて……香里の攻撃を受け止めた」
「……さようなら、健」
「違うよ、香里。またね、だよ……また二年後の未来に、会いにくる」
「中学二年のあんたって馬鹿なんでしょ? あんたと同じ中学の子が言ってた。中二の夏休み明けから、急に成績が伸びてこの高校に受かったのも奇跡みたいだったって」
「うん、頑張らないとね。僕は馬鹿だから、『僕』みたいになれるように頑張って、香里に会いにくるよ」
「……またね、健」
すっと、香里が僕の手を離した。そのまま抱きしめたかったが、今じゃないと思ってやめた。
僕がそれをすべきじゃない、今じゃない。
「告白の返事は、その時でいいかな?」
僕の言葉に、香里は苦笑いで頷いた。
美波先輩に目配せし、傘を拾って立ち上がった。激しい雨音に目をやり、香里と美波先輩に背を向けた。
一歩、一歩進む毎にザザッと靴が水たまりを跳ねのける音。
ゆっくりと鳴っていたそれはやがてテンポが速くなり、気づいたら僕は走り出していた。
行こう、未来へ。
二年後の『僕』が笑っていられるような未来を、今の僕が作るんだ。
僕の今日、明日明後日、これからの行動全てが未来の『僕』の世界を作り上げる。
その結果がどうなるかはわからない。
だけどいいんだ、今の僕がいる。
僕が頑張る。
傘を放り投げて走りたかったが、風邪をひいたら困るのでやめておいた。
*
次の日もその次も、僕は超常現象を繰り返した。
悠花は相変わらず元気だし、香里はなにも言わなかった。図書委員はもう終わったけれど、一時間だけと担任の先生に呼び出されて本の整理をした。
呼びつけたにも関わらず担任は図書室に現れず、僕と小雪二人だけでさっさと仕事を終えた。
「僕も頑張るよ。二年後の『僕』はとても賢いから」
そう言うと、小雪はくすくすと笑った。
「健くんはきっと、素敵な高校生になりますよ」
一学期が終わったから図書委員の役目も終わる。
小雪と親しく話すのはこれが最後だろうと、その笑顔を忘れないでおこうと思った。
テスト週間が終わって、夏休み。
「夏休みも遊ぼうねっ!」
自宅の玄関先で悠花に別れを告げて、それぞれの玄関に入った。
普段通りに過ごして、いつも通りに寝て。
朝陽が漏れるカーテンを開いて向かい側の窓を見ると、レースのカーテンがしゃっと動いた。
夏休みに入った。
僕が高校生世界にタイムリープすることはなくなった。
『僕』がこの世界に現れることは、二度となかった。
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