第42話 『僕』
それは二年前、僕が中学二年生で美波先輩が高校一年生の年。
五月最後の日曜日のこと。
商店街の八百屋を営む家庭に生まれた美波先輩はいつものように店番を任され、店頭でぼぅーと外の人通りを眺めていた。
昼前のことだった。商店街を行き交う人の中に自転車を押す『僕』を見つけたという。
「たっけるー!」
声を張り上げると、『僕』は真っ赤なママチャリのハンドルを握ったままぺこりと頭を下げた。
店番を放り出して駆け寄る美波先輩に、『僕』はもう一度、深々とお辞儀する。
「なにしてんの? 自転車?」
「昨日借りたみたいで、返しに来たんです」
「借りた?」
「野鳥を見る会に、悠花を送り届けるために」
「? その自転車って四丁目の田中さんのやつでしょ?」
「知ってる方ですか?」
「酔っ払ってそこのゴミ捨て場で寝てるの、時々。ていうか健、元に戻ってる?」
「もと?」
「ドーナツ屋に行った時、変だったからっ!」
「……それ、『僕』じゃないです」
「ん?」
「僕、二年の時をぶっとばして成長しちゃったんです」
「……ん? あ、そっか。健っていま中二だっけ? そういうお年頃かなっ?」
バシバシと、愉快に笑って『僕』の背中を叩く美波先輩。しかし『僕』の表情は変わらず、瞬時に、美波先輩は異変が起きていると察した。
だからなのか、『僕』の発した言葉を、素直に受け入れることができたという。
「先輩、『僕』……未来人なんです」
ことのあらましを、『僕』が体験した二年間の出来事を、美波先輩はあますことなく全て聞いたという。
『僕』が嘘をついていたり妄想しているという一切の疑念を捨てて、全て真実として。
「だから『僕』は、中学二年生の僕に、悠花を救ってほしくて」
美波先輩が感じたのは、苦しさだったという。終わらないループに悩まされ、それでも悠花を救おうと奮闘し、だけど最後には諦めてしまった。
悠花を救えなかった『僕』の悲痛と懺悔を、美波先輩は感じ取ったという。
「『僕』は最後まで走りきれなかったから……今でもずっと、後悔して……高校に入って、好きな子ができたんです」
同じクラスの、後ろの席のツンデレのツンの部分が九十パーセントを占めるような、暴力的な女の子だという。
きっと彼女も、『僕』を好きなクラスメイト。
「だけど悠花を救えなかった、途中で諦めた『僕』に誰かを好きになる資格なんて……誰かを守る力があるなんて、思えない」
頭を抱える『僕』を見て、美波先輩は声をかけることができなかったという。
宙を睨むと澄んだ青空が広がっていた。
晴れ渡った青に飛行機雲が一つ、空を裂くように線を描いている。
「健はさ、どうしたいの?」
美波先輩の言葉に、『僕』はゆっくりと顔をあげる。
じっと見つめる視線と、逃げたいけどそれが叶わない視線が、ぶつかり合って絡みあう。
「『僕』は、僕の未来を変えたいです」
「健の未来?」
「今この世界の、中学二年生の時の僕に、悠花がいる未来を見せてあげたい。いや、それだけじゃなくて、最後まで走りきれと……ゴールまでちゃんと完走しろと、言いたいです」
「前もその話したね。持久走だっけ?」
「はい……持久走なんです、これは」
美波先輩が首を傾げる。
構わず、『僕』は正面を向いたまま話を続けた。
「途中でもういいかと諦める僕を、もういいよの言葉に甘えて何事も最後までやり遂げない僕に、神様は超常現象っていう大きな試練を与えた。最後までやり遂げろ、走りきれと……それが僕の、中学二年生の僕が乗り越えるべき試練なんです。最後まで諦めず、悠花を助けろと」
「……壮大な試練ね、過酷すぎない? 終わりがいつ来るかも見えないし、人の命までかかってるって」
「やり遂げれたはずなんです、途中で諦めなければきっと『僕』は、悠花を救えていた。神様は人に、乗り越えることができる試練しか与えないから」
ははっと無理して笑う『僕』が痛ましくて、美波先輩は再び口を閉じた。
「だから美波先輩、見守っていてください」
「見守る?」
「二年後、高校一年生になった『僕』の世界にきっと、中学二年生の僕が現れます。手助けはしなくていいです、これは僕の問題だから。それに手は出せないと思う。『僕』が中学生世界に干渉出来ないように、高校生世界の人間は僕に強い影響を与えることができない。けれど見守って……もし、僕が挫けそうになったら、未来を変えることを躊躇うような仕草を見せたら、この言葉を伝えてください。僕の未来は『僕』とは違っていて欲しい、だから……」
* * * * *
「挫けるな、諦めるな、最後まで走りきれ、完走しろ。大丈夫、君は一人じゃない。未来の自分が、『僕がいる』。だから、最後まで走り続けろ、中学二年生の長束健」
降り続く雨の中、傘を片手に美波先輩が言った。
『僕』は中学生世界に影響を与えることはできない。だから悠花を救う算段はすれど、結局ことを起こすのはその世界で生きている中学二年生の僕なのだと、美波先輩が言った。
手助けしてくれない、邪魔してるわけじゃなくて何もできなかった。
『僕』は僕の敵じゃないのだと。
「それ以降は健がどっちの健かわからなくなって、わたしの中でも整理がつかなくてなんとなく疎遠になって……」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
美波先輩の言葉を遮り、僕たちの間に割って入ったのは香里だった。
困惑したような目で僕を見つめ、その視線を美波先輩に向ける。
「じゃあ、健は本当にタイムリープ? してて、今の健は中学二年生で……未来を変えようとしてるの?」
ちらっと窺う視線。どうやらやはり、僕の言葉を信じていなかったらしい。
そりゃそうだ、超常現象を安易に信じろという方がおかしい。頭のおかしいやつ扱いされて終わりだ。
香里には信じて欲しかったという気持ちが、ないと言えば嘘になるけど。
「言っとくけど香里ちゃん、あなたも当事者だからね?」
「え?」
「健はね、あなたを好きになっちゃったの」
「わたしを? えっ?」
「あぁー、えーっと、健というか中学二年生の健がね。タイムリープした先、高校世界で香里ちゃんと出会って好きになって……諦めてもいいよ、もういいよって言われて、諦めてしまったって話してた」
ズクっ、と胸が痛むと同時、香里も僕と同じような表情を見せた。
さっきの言葉だ。
疲れて、もういいかと諦めようとした僕に、香里は「もう諦めてもいい」と言ってくれた、「頑張っった、だからもういいよ」と。
美波先輩が現れなければ僕は、香里の言葉に、どう返事していただろう?
「そんな……わたし、わたしは……」
「香里ちゃんが悪いわけじゃないよ。好きな男にかけるものとしては申し分ない言葉だったと思う。問題なのは……」
美波先輩が僕に視線を向け、つられて香里も僕を見た。
責めるような視線と、心配そうな不安そうな目、二つの双眸が僕を捉える。
「完走しなさい、健。これはあんたの試練よ」
美波先輩が言った。
情けなく涙を浮かべる男に。
一キロ五分の持久走すら満足に走り切れない僕にとってそれは、重い言葉だった。
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