第35話 片依存
学校が終わってすぐ、該当の公園に向かった。
雨音の中に微かに獣の鳴き声が聞こえて、花壇の草を掻き分けると三十センチ四方のダンボールがあった。
「いた……」
ダンボールの上にプラスチック板があって、それが屋根になって雨を凌いでいる。傘を地面において、両手でダンボールを持ち上げる。僕の髪と一緒に、ダンボール箱も雨に打たれて濡れた。
雨の降りが弱くなって、猫の声がより一層大きく聞こえる。
やめてくれ、鳴かないでくれ。
情が移ると困る、だって君は、悠花の代償になるんだから。
このまま何もしなければ、猫を拾った悠花が犠牲になる。僕がこのダンボールを川にでも投げ込めば、猫の代わりに悠花が助かる。
両方救うという手はあるかもしれない。でも僕はもう疲れた。早く今日を終わらせたい、どうせまた明日はやってくるけれど。
休む間もなく悠花を助ける算段を考えるこの現象は、まるで持久走だ。
一人で、僕はただ、走り続けてる。
ため息を飲み込み踵を返すと、背後にいた女子中学生と目があった。
「健くん、何してるんですか?」
後をつけられていたのか、気が付かなかった。
小雪が差している傘を僕に傾けた。一つの傘に、僕と小雪と猫が入っている。
「猫?」
ダンボールから漏れる鳴き声に気付いた小雪が手を伸ばすが、僕がダンボールを引いたので触れるのは叶わなかった。
その動作が乱暴だったため、小雪がびくっと身体を震わせる。
「その猫、どうするんですか?」
「…………」
答えられないでいると、ダンボールの中の猫が暴れ出した。
にゃぁとくぐもった鳴き声、ガタガタとダンボールの側面に身体を打ち付ける。
「健くん、ダンボール開けて!」
小雪が身を乗り出したので、僕は反射的に身体を引いた。
その拍子に手が滑り、ダンボールが地面に落ちた。ドシャッと箱の潰れる音、蓋が開いて小雪がそれを覗き込んだ。
「やめろっ!」
僕の腕が、小雪の身体を突き飛ばした。地面に尻餅をついた小雪のスカートが土で汚れる。
呆然と僕を見上げる小雪の表情が、哀愁を帯びたものに変わる。
「健くん、最近おかしいですよ……今日だって、図書委員の日だったのに」
「……じゃあ小雪は、なんでここにいるの?」
「変わってもらいました。健くんの様子が変だったから、追いかけなきゃって」
「追いかける? どうして?」
「だって、様子がおかしいから」
「関係ないだろ、小雪にはっ!」
怒声になってしまった。
雨の降りが弱いせいで、互いの息遣いがやけに大きく聞こえる。頬を伝うものが雨か涙かわからないが、小雪の瞳はしっかりと僕を捕らえていた。
「だってわたしは、健くんのことが好きで……返事もまだ、もらってないから」
「返事?」
「一ヶ月前の告白の返事、まだ、もらってないです」
途端、頭に血が上った。
そんなこと……そんなことで!
「そんなことで、僕の邪魔するなよっ!」
「じ、じゃま?」
「それどころじゃないんだよ! 見ればわかるだろ、告白とか返事とか、今それどころじゃないんだよ! 僕は悠花を助けなきゃいけなくて、頭がいっぱいで」
「知ってる、知ってますっ!」
小雪の声が、僕の言葉を遮った。
しとしと降り注ぐ雨。小雪の頬を伝うものはたぶん、雨じゃない。
「健くんが北川さんを好きなのは知ってます、最初から知ってました! だけど健くん、優しくしてくれたから……わたしも、健くんの役に立ちたいと思って」
「役に立つ? じゃあ邪魔するなよ!」
「邪魔なんて……」
「いるだけで邪魔だよ! あぁ、そっか。はっきり言わないとわからないか、告白の返事だったっけ? 好きなわけないだろ、おまえのことなんか! 僕が悠花のこと好きってわかってたなら告白なんかしてくるなよ! 目障りなんだよ、邪魔なんだよ! 僕は悠花を助けなきゃいけないのに、だからこの猫を……」
話題に出たことで猫を一瞥しその途端、僕は言葉を失った。
ダンボールの中には猫とその傍らにお茶のパック、見覚えのあるプラスチックの筆箱が落ちていた。
筆箱……新品を用意したなら、古いやつはどこに置いてきたんだろう?
考えてもみなかった、僕は馬鹿だ。
「『僕』が……昨日、『僕』が……」
ここに来たんだ、猫に餌付けした?
なんのために? だってこの猫のせいで、悠花は。昨日のうちに対処してくれていたら、僕が心を痛めることなんてなかった。
『僕』は今日起こることを全て知っててこの場所に来て、猫の命を繋いで悠花との縁を繋ごうとした。
なにしてるんだ、『僕』はいったい……なにがしたいんだ?
「まさか『僕』は、悠花を必要としていない?」
さぁっと血の気がひいた。
そうか、だから、『僕』はなにもしてくれない、悠花を救う手助けをしてくれなかったのだ。
それどころか野鳥を見る会の前日は悠花と喧嘩し、当日の僕の説得が困難になるように仕向けていた。
渡り廊下事故だって、目覚まし時計を早めにセットしてくれてもよかったし、学校帰りのバイクとトラックの事故だって……。
理由はたぶん簡単だ。
高校生世界には香里がいる、『僕』が香里を好きだからもう悠花は必要ない。
悠花が生きていると不都合なんだ、『僕』にとっては。
「あ、あぁっ……ああぁぁぁああ!」
気付いてしまってから、感情全てが叫声として外に出てきた。
びくっと身体を震わせる小雪が、悲痛に歪んだ顔で僕を見上げる。
見るな、みるなみるなみるなみるなみるなっ!
そんな目で僕をみるな、そんな表情を僕に向けるな。
頑張ってるのに、僕はがんばってるのにっ!
こんなに頑張ってる。
僕はよく頑張ってる、それなのにっ!
耐えきれなくなって、地面を蹴って走り出した。
「健くんっ!」
小雪の声が聞こえたが振り返ることなく、僕は雨の中を走った。
どこをどう通って帰ったのかわからない。目を覚ました僕はベッドの上にいて、外の明かりは消えて雨はまだ降り続いていた。
寝巻きに着替えてる、身体もサッパリしてる。母さんがお風呂に入れてくれたのかな?
いやいや、まさか。
じゃあ『僕』がちょっとだけ現れて、制服を脱いでお風呂に入って着替えてベッドに入るまでの動作をやってくれたのか?
「……余計なことするなよ」
手の甲をまぶたに当て、大きくため息をついた。
この世界は、中学二年生は僕が過ごす時間なんだぞ。勝手なことするな……邪魔するなよ。
はぁーと再度ため息を吐き、だけどすぐに起き上がった。
猫はどうなった?
悠花は無事だろうか?
慌てて部屋を飛び出すと、「どうしたの⁉︎」とリビングから母の声が飛んだ。
無視して玄関を開き、裸足のまま飛び出す。
打ち付ける雨も気にせず向かい側の家に入ると、即座にインターホンを押した。
「健です! 悠花いますか? 健です! 悠花!」
ダンダンダンと玄関を叩くと、ガチャリと音がしてドアから顔を覗かせたのは悠花だった。
「健くん? あれ? どうしたの?」
「悠花! 手は? 手の怪我は?」
悠花の手元を見つめるが、包帯は巻かれていなかった。
噛み傷のような痕も見当たらない。
「猫……猫にあった?」
「ネコ?」
「部活の帰りに、公園で! 猫に会わなかった?」
「公園には寄ったけど……猫? には会わなかったよ?」
悠花の言葉に、僕は安堵の息を漏らす。しかしすぐに、悠花が嘘をついている可能性を考慮して彼女の手を握った。
右左、両方の手を確認するがやはり、白くてか細い手や腕には傷一つ付いていない。
よかった、猫には会っていない、噛まれていない。
成功……なのか?
寝起きのせいか、頭がうまく回らなかった。項垂れる僕の顔を、悠花が心配そうに覗き込む。
「健くん、どうしたの?」
「え? あ、いや……よかった」
悠花が生きてて、よかった。
急に来てごめんと別れを告げ、家に戻ると母が雑巾を持ってきて僕の足を拭いた。
「あんた最近、悠花ちゃんに依存しすぎじゃない? 一人立ちしたら?」
なに言ってるんだ、母さん。依存してるのは僕じゃなくて悠花なんだよ。
一人立ちしなきゃいけないのは悠花の方で、だから野鳥を見る会に行くために僕が……。
あれはいつのことだっけ?
結局、悠花はあれからどうなった?
頭が回らなくて、視界が霞んで。
どうやら僕はそのまま、意識を失ったらしい。
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