第7話 元気になぁれ


 その日の放課後、僕は図書室にいた。

 違うクラスの図書委員が二人とも欠席で、代理を頼まれたのだ。僕らの担任が図書委員担当なので気軽に声をかけれるらしく、代理を任されることは二度目だ。

 ちなみに、代理の代休をもらったことはない。


「今日は雨が降るそうですから、早めに帰りましょうか」


 灰色の空を見上げながら小雪が言った。

 普段天気予報を気にしない僕は、「ふーん」とだけ返事をして読書に耽る。


「健くん、傘持ってきてますか?」

「え? 持ってきてないけど」

「…………そうですか」


 ガックリと肩を落とした小雪が、ため息をついてうなだれる。

 なにか悪いこと言ったかな? だが顧みてすぐに、小雪の言葉と態度の意味に気がついた。


 相合傘だっ!


 巷で評判の、少女漫画の定番のあの!

 相合傘!

 もしかしたら小雪は、僕が傘を持ってくると予想して自分のものは用意してなかったのかもしれない。やがて雨が降って、僕に家まで送ってもらおうと。

 いやいやいや、自分が持ってこいよっ!


「わたしも、持ってきてなくて」


 うん、わかってる。そうだと思った。


「雨が降る前に帰りましょうか」


 先生に無断で早めに図書室を閉め、鍵を事務室に持っていくと早く帰るように促された。


「あんたら、雨雲レーダー見てないの? あと三十分で土砂降りの雨になるよ!」


 テレビに表示される雨雲レーダーを指差しながら、事務室のおば……お姉さんが言った。


「早く帰りな! 傘持ってる?」


 事務室の傘を貸すという申し出を断り、僕と小雪は急いで校舎を出た。

 速足でグラウンドを進み校門へ来たところでピタッと、小雪が立ち止まる。


「健くん、少しだけ……お話してもいいですか?」

「え?」

 

 いま?

 雨降るよ?

 三十分後には土砂降りだよ?


「うん、大丈夫だよ」


 本心は言わない。例え三十分後に土砂降りになったとしても、話を聞いてあげようと努めるのが僕のいいところだよね。

 あれ? でもこのままだと小雪も土砂降りの雨に打たれるよね?

 今日は帰ろうって言ってあげるのが、本当にいい男なんじゃないか?


「わたし、健くんのこと好きですっ!」

「…………んんんっ⁉︎」


 声がくぐもってしまった。

 えっ、なに? 僕を好き? えっ……告白⁉︎


「……返事は、いつでもいいので」


 ふいっと顔を背ける小雪。恥じらう仕草がとてもかわいらしいが、今じゃなくてもよくね? と思う邪念が僕の純粋な恋路を邪魔した。

 だって雨降るよ?

 三十分後には土砂降りの雨が、降るんだよ?


「気持ちだけ伝えたくて、だって健くんには幼なじみの女の子が……な、なんでもないですっ!」


 鞄を振り回して僕の頬をぶっ叩いたあと、小雪は自宅方面へと走り去って行った。

 痛い、異様に……鞄の中なに入れてんの? 痛すぎるんですけど!

 顔を上げると、黒灰色の雲が、ごうごうと空を這いずっていた。

 告白された……えっ、告白されちゃったよ、僕!

 すごくない? モテ期凄くない?

 万歳!


「うぉぉぉお!」


 雄叫びを上げて通学路を駆け抜ける。僕の声に呼応するかのように辺り一面がピカッと光り、雷の音が聞こえた。


「モテ期万歳! モテ期万歳!」


 ザアァァァと降り注ぐ雨。どうせ聞こえないだろうと僕は万歳を繰り返し、道路を走った。

 事務室を出てから十五分も経っていない、天気予報はいつだってあてにならない。


「モテ期、万歳!」


 豪雨の中、雄叫びをあげる僕は正に、中学二年生だった。



「あんた! 傘持って行かなかったの⁉︎」


 自宅に戻った僕を母が引っ張り、身ぐるみを剥がして風呂場へ放り込んだ。

 いくら母親といえど思春期の、中学二年生の裸体を見るってどうなの? モテ期だよ、僕。

 ぷりぷりと怒りながら身体を洗ってバスタブに浸かると、ぶるっと武者震いが起こった。

 その夜、僕は風邪をひいた。



* * * * *



「学校はどう? 行けそう?」

「あ、無理っす」


 ベッドで寝込んでいる僕の傍にいるのはかわいい女の子……ではなく、僕より二十七歳も年上の母だった。

 先っぽがほかほかの体温計の文字表記を見つめ、盛大にため息をつく。


「この熱なら遊びに行く元気もないだろうしね」


 体温計には、[38.9]と表示されている。母さん……なぜあなたは今、学校に行けるかどうかを確認したのか。

 僕が連れて行かれるべき場所は学校ではなく、病院だと思う。


「大人しく寝てなさいよ。前みたいに遊びに行ってたら、晩ご飯抜きだからね!」


 うん、大丈夫。どこにも行けないし、たぶん晩ご飯も食べれない。


「いってらっしゃい」


 その言葉を発するだけで精一杯だった。

 パタンと閉まるドアの音、母が去った後で僕は寝返りを打ち、目を閉じた。


 昨日は何があったっけ?


 美波先輩に絡まれたのは一昨日のことだ。香里に告白されたのは先週の土曜。昨日は小雪に告白を……あれ? それ、昨日の出来事だっけ?

 随分前のような……。


 いや違う、昨日だ。


 僕は中学二年生で、中二病を患って……いや、患っているのは喘息だろ? そのせいでいつも持久走を免除されて。

 高校ではそんな言い訳通用しなかったけど途中でぶっ倒れたら、流石に先生も『もういい』っていってくれて。


 あれ? なんかおかしいな、違和感……今、何がおかしかった?


 朦朧とする意識の中、不思議な記憶が蘇った。

 三月、桜が咲き始めた頃。

 制服の胸元に花をつけた生徒たちがわっと涙を流していて、その中に小雪の姿もある。他に漏れなく、彼女の胸元には卒業生であることを示すピンク色の造花。

 僕の胸にも同じ花。


 悠花……ゆうかは?


 卒業生の中に悠花の姿はなくて。

 必死に探すけど、見つからなかった。


 あれ、おかしいな。

 悠花はどこにいるんだろう。


 あれ、おかしいな。

 悠花がいるわけないだろう。


 記憶が、思考が交錯する。

 変だ……僕は今、何の夢を見てる?

 夢? 現?

 これは、どっちの出来事だ?



 目を開けると汗が大量に吹き出していて、息の荒さが自分でもわかった。

 喘息は克服した、だから今のこれはそれじゃない。

 精神的な動機だ。


 カーテンを開けて、向かい側の家の二階の窓を見る。レースのカーテンは閉まったままで、人のいる気配はなかった。

 再びベッドに寝転と、どっと眠気が襲った。


 夢現を漂っているとき、昔のことを思い出した。


 風邪をひいた時は、学校を休んだ時はいつも、悠花が来てくれた。それは絶縁してからも同じで、それだけは絶対変わらなくて。

 母さんも、その時だけは許してくれて。

 中学生になってからも、僕が学校を休むと放課後必ず、悠花が訪ねてきた。


『元気になぁれ、元気になぁれ』


 そう言って枕元で囁く声がときに煩く、だけど嬉しくて。

 一度だけ、涙を流した。

 気付かないふりをしてくれたのか、本当に気が付いていなかったのか。悠花は僕の額に手を当てて、『元気になぁれ』とおまじないをかけてくれた。

 そのおかげで、僕はすぐに回復することができて。悠花がいたから、立ち上がれたわけで。

 だから今、今回の風邪は、完治するまでに何日かかるのだろう?



* * * * *



「元気になぁれ」


 優しい声にはっとして、僕は起き上がった。カーテンは閉まったまま、外の光が微かに差し込む薄暗い部屋。

 ベッドの傍に、悠花がいた。


「おはよう、健くん」

「…………おはよう」


 時計の針は六時を回っていた。

 制服姿の悠花がベッドの横、床に膝だちした状態で僕を見つめる。


「長い夢を、見ていた気がするんだ」


 僕の言葉に、悠花は微笑んだまま首を傾げる。


「中学を卒業した僕は相変わらずで、持久走も完走できない情けない男なのに身の丈に合わないモテ期に浮かれて……」


 話の途中で、悠花の手のひらが僕の手の甲に重なった。悠花の顔にはいつも通り、笑みが咲いていた。

 小さくて綺麗な、笑顔の花。


「今の健くんはね、とってもかっこいいよ」

「かっこいいわけないじゃん。持久走も途中で投げ出すようなずるい男なのに」

「いつか出来るようになるよ」


 悠花の手のひらが僕の熱を解かす。

 心地いい、小さな手だった。


「今は無理でもいつか、完走できるよ。神様はね、乗り越えれると思ってその人に試練を与えるんだよ」

「試練?」

「健くんは大丈夫、絶対に乗り越えれる。走り切れるよ、持久走」

「……なんだろう、責任重大な感じがする」


 はぁーっと息を吐き出し、気付いたら涙が頬を伝っていた。

 悠花がそっと、僕のおでこに手を当てた。ゆっくり、ゆっくりと手のひらを動かしていく。


「飛んでけ、とーんでいけっ」

「なに? 飛んでいけ?」

「健くんの中のもやもやした気持ちが、自分がダメだという気持ちが飛んでいけって、おまじない」

「……うん」


 ありがとうと返したつもりだが、うまく言葉にできなかったと思う。

 外は雨が降っていた。ザアァっと地面に水の粒が降り注ぐ音、水滴が屋根を伝う音。

 その中で聞こえた悠花の声は、世界のどんな音よりも綺麗だった。


「元気になぁれ、元気になぁれ……おやすみなさい、健くん」

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