第3話
あの時はイルミネーションの季節だった。
冬の港町、その上夜ともなればとても寒かったが、私たちは身を寄せあってそれを眺めた。
「やっぱりロマンチックだよねぇ、イルミネーションって」
「いつか彼氏できたらこういうとこでデートしたい」
かっこいい異性と手を繋いでイルミネーションを仰ぐ。そんな妄想に胸が高鳴らないわけはなかったが、私は言った。
「彼氏できても、この四人でまた見たいな」
三人は口々に同意した。
「いいね。絶対また来よう」
「彼氏できてもこの四人は仲良くしてようね」
「当たり前じゃん」
安堵のため息を吐いたのは誰にも気づかれなかった。イルミネーションに照らされたみんなの横顔があまりに大人びていて、怖くなってしまったのを知られたくはなかった。
もう四人でここに来ることはないだろう。冬に比べれば人影がまばらな赤レンガ倉庫を見て、私は悟った。受験のために私たちが離れ離れになったあの時から、ずっと体のどこかでわかってはいたけど。
きっといつかまた集えると思っていたのに。
徒歩移動でまた痛みだした足で赤レンガ倉庫街の奥、海を見渡せる場所までたどり着いて、一枚の写真を掲げた。過去の私たちの後ろに横たわる横浜ベイブリッジと目の前の景色が重なる。
「最後にここで写真撮ろうよ」
そう言って一人が横浜ベイブリッジを背景にポーズを決める。負けじと二人が続いてポーズをとって、私もその三人の前に少し膝を曲げる形で落ち着いた。
「いいじゃんね、映えるよ」
「けど、暗いよ。うまく撮れるかな」
「まあ任しときぃ」
「もしかしてそのキャラは…」
「自撮りマスター?」
「せやで」
「マスター、もう私腰が痛いです」
結局自撮りマスターは二、三回写真を取り直した。最後の一枚は腰が痛くなってしまった私が立ち上がったので、他の三人の顔がそれぞれ少しずつ欠けていた。私はこの一枚がお気に入りだ。四人の頭がフレームにぎゅうぎゅうに収まっていて、少し窮屈そうな笑い顔が今にも動きだしそうだ。その顔の隙間から、辛うじて横浜ベイブリッジとイルミネーションを映した海が見える。
すう、と鼻から大きく息を吸った。磯の香りがする。私たちの思い出の匂いだ。
私は目を凝らして海を眺めた。振り返らなければ、私の隣には彼女たちが一緒に立っていた。あの時と違って煌びやかなイルミネーションや身を刺すような冬の風はないが、タイムスリップしているような気分だ。今にも彼女たちの声が聞こえてくる。もう少しで誰かが私の肩を叩く。
「何してんの、もう行くよ」
そのまま手を繋いで、私たちは帰路につく。楽しかったヨコハマ小旅行に未練はない。あったとしても、またいつか来ればいいと簡単に諦めてしまえる。
ゴールデンウィークの少し前に、同じクラスだった一人に予定を聞いた。
「今度の日曜?模試があるよ。どうしたの?」
「空いてるよ」と言われたら見せる予定だったヨコハマの観光パンフレットをカバンの中に忍ばせたまま、私は頭を掻いた。そうか、受験生だから忙しいのは当たり前だな、と能天気な自分が恥ずかしくなった。
「なんでもない。またヨコハマ行きたいなって」
「あー、懐かしいね。わかる、行きたい」
ねー、と彼女は笑ってから、心底残念そうな顔をした。
「ごめんね、また誘ってくれたら行くよ」
「あ、いや、こちらこそ頑張ってるのにごめんね。また誘うね」
夏休みなら少しは時間があるだろうと思えば、そううまくはいかなかった。夏のヨコハマ観光特集を組んだ雑誌はゴミ箱に捨てた。
「塾ざんまい。合宿もあってさぁ、だるいんよね」
「あ、そっか」
うんざりした顔が一転、心配そうになって私を見る。
「まだ塾行ってないわけ?それで大丈夫なの?」
「まあ大丈夫とは言えないけど…。それより、塾、頑張ってね」
「サンキュー。そっちこそ頑張んなよ」
大学で新しい生活が始まることを楽しみにしていた姿。それを思い出すたびに私たちの過去が霞むような気がする。受験が終わった時、彼女たちにとって高校生活は既に過去だった。あの目はこれから始まる大学生活しか見ていなかった。
他に行けないほどの友情を築いておいて、新しい友達ができたら捨ててしまうなんて、自分勝手だ。そう罵るほうがよっぽど自分勝手だ。過去にすがりついて前に進めないのは私のくせに。
死ぬまでこのまま海を眺めていようか。そうしたら誰もいない背後を見ることはないから。潮風の幻が、ヨコハマの幻がゆらゆら立ち上がって騒ぎ出す。このままいれば本当に誰かの声が聞こえてきそうな気がする。そのうち肩を誰かが叩く。それから優しくこう言う。
「おねえさん、一人?」
「…え?」
反射的に振り向くと、そこにいたのは知らない男性だけだった。「違う、あなたじゃない!」と叫んでしまいたいのを我慢して、私は質問を返す。
「えっと、ナンパですか」
男性は一瞬呆気にとられた顔をしていたが、突然笑い出した。
「ナンパですかって聞き返しちゃうんですか」
よく見ると見覚えがある。知り合いかと焦り、必死に彼を思い出そうとしていると、彼が言った。
「間違いじゃなければ、さっき観覧車で会いませんでしたか」
それでもなお思い出せない。
「ほら、おねえさんがゴンドラから降りたときにすれ違ったんですけど」
「あ、もしかして最前列にいたカップルの…」
男性は頷く。一緒にいた女性が見当たらないので、全くわからなかった。
「あの、彼女さんは?」
「別れました」
「別れた?」
今度は私が呆気にとられた顔をする番だ。ヨコハマまでデートに来て、別れるカップルがいるだなんて思いもしなかった。
「まあ、振ったのかな」
しかも男性が振ったらしい。ヨコハマまで連れてきて振るなんて、残酷なことをする人がいるものだ。そう思うと、捻くれたことを言ってしまう。
「振った直後にナンパですか」
しかし、男性はそれを軽く受け流す。
「勘弁してください。まずナンパじゃないし」
大学生になってからそういう機会が増えたので、知らない男性に話しかけられた時に警戒する癖がついてしまっていた。自意識過剰すぎたかな、と少し恥ずかしくなる。「なんかすいません」と謝られるのも腹立たしい。
男性がおもむろに切り出した。
「それで、おねえさん、何してるんですか」
「海を見てます」
私がとぼけると、男性は苦笑した。
「そうじゃなくて、一人でヨコハマを回ってる理由を聞いてるんすよ。安心してください、本当にナンパじゃないから。ただ、ちょっと…」
「ちょっと?」
「気になって」
「ナンパの常套句じゃないですか」
彼が笑い、ツッコミを入れた私も笑う。場の空気は和んだが、私は頑なに自分の話をすることを拒んだ。私たちの思い出と、その緩やかな崩壊は見ず知らずの人にするような話ではない。
少しの沈黙を挟むと、男性がため息をついた。そして、立ち去るかと思いきや、口を開く。
「俺、彼女と別れたって言ったじゃないすか」
「ヨコハマデートをして振ったんですよね」
「言葉に棘があるように感じますけど、誤解ですって」
私は海から視線を外さない。空の色が濃くなるのに対して、水面が騒がしいくらいにきらめく。もうすぐ日が沈む。
「ヨコハマデートは最後の思い出作りに、って二人で考えたものなんです」
足元を見ると、微かではあるが、コンクリートに波が打ち付けているのがわかる。目を凝らせば、生きているのかわからないクラゲのような物体が漂っているのも見える。男性は私が一つも返事を返さないのにも関わらず、話し続けた。
「最初はマジで好きだったんです。女の子としてラブ。けど、いつの間にかそうじゃなくなって、最近気づいたんすけど、この気持ちは友達に対する好きと変わんないなって。それで、別れて欲しいって言いました」
「彼女さん、それで頷いたんですか」
「いやぁ、頷かないです。泣かれました」
そうでしょうね、と言いたいのを堪える。私がその彼女の立場なら、身勝手な言い分に怒り狂うだろう。男性は私の考えを察したらしく、弁解口調で続けた。
「俺なりに頑張って考えましたよ。俺はもうあいつのことを女の子として好きじゃない。でもあいつは、多分そういう意味で好きでいてくれるでしょ?俺が嘘ついてまで関係続けるべきなのか、それとも俺なんかとすぐに別れて新しい相手を探しに行くほうがいいのか、めちゃめちゃ考えました」
「それで、結局正直に話して別れたんですか」
「そうです。嘘をつきたくなかったし、やっぱり別れたほうが彼女のためかと思ったので」
「そうですか」と私は頷いただけで、男性もそれ以上話さなかった。目をつむると潮風が胸の奥まで侵食してくる感覚がわかる。日没とともに訪れる夜のヒンヤリとしたどこかよそよそしい風も混ざっている。ヨコハマの夜の匂いを私は今まで知らなかった。イルミネーションのために日没後もヨコハマに留まったが、あの時はこんな寂しい匂いはしなかった。
知らない男性と私だけで海を眺めている。それを意識すると、ふと、自分のことを話す気になった。
「すごく仲良い友達がいたんです。その四人でここに来ました」
胡麻団子を食べたこと、観覧車に乗ったこと、ここでイルミネーションを見たこと。そしてそれを一人でなぞったこと。最後に、もうみんなでここに来ることはないだろうとわかったこと。
「多分、私もあの四人のことを想ってヨコハマに来ることはこれからありません。私たちの歴史はここでおしまい。悔しいけど、きっとそれが普通なんです」
私がそう締めくくると、男性は海を眺めたまま、「そうですよね」と言った。
「そういうものですよね」
「そういうものなんでしょう」
二人で曖昧な相槌を打ちあって、相手に合わせて笑う。なるほど、と私は思った。彼が私に声をかけた理由がわかった気がした。一人で四人分の足跡を踏む私に同じような雰囲気を感じたのだ。
「おねえさん、俺、思うんですけど、やっぱり嘘ついてまで関係続けたほうがよかったかもしれません」
「私も、わかっていたなら崩壊を阻止しようとするべきだったかもしれないです」
「そうかもですよね」
「そうかもです」
お互いやんわり同意したが、男性は続けた。
「でも、それって過去に囚われたままになって、一生前に進めないのと同じじゃないかとも思うんです」
「相手を縛ることにもなりかねませんし」
私もそれに乗じて先ほどまでとは真反対の意見を述べる。男性は首を傾げたまま頷いた。
波打つ水音が耳に心地よい。それは不規則とはいえ、永遠に全く同じように続いていくものだ。クラゲも波と時の流れに身を任せて、そこにあるがままに存在し続ける。潮風も、たった今沈んだ太陽も、遠くで回る観覧車、胡麻団子を売る店主、その全てがただただ流れていく。私は運命論者とは違うが、私を含めたこの世の全てが運命に似たなにか波のようなものに流されていくような気がする。誰もそれには抗えない。
私たちの友情が流されてしまったなら、それはもうどうしようもないことだ。神様の操る波の圧倒的な力の前に、過去というあるべき姿になっただけだ。私がいくらヨコハマを回っても、それは元には戻らない。足元の塩水がもう二度と同じ形にならないのと同じように、クラゲが少しずつ移動するのと同じように、いつの間にか過去とは全く違うものになってしまう。
男性が干された布団のように欄干にもたれて、言った。
「ちょっと教えてほしいんですけど、女の子から見て、俺みたいな彼氏ってどうですか」
顔は悪くないようだけど、と傲慢な意見を持ったが、彼が聞いているのはそんなことではないだろう。
「どう、とは?」
「本当に彼女のこと好きだったんです。付き合い始めたときは毎日楽しくて、それこそ輝くような毎日で。でも、それって永遠に続かなかったんですよね。俺があいつを好きじゃなくなったから」
日が沈んでしまうと、あたりは一気に暗くなってしまった。もう私の足元にクラゲがいるのかはわからない。見えないのに見続けるのは虚しいので、顔をあげると、ベイブリッジが輝いていた。同時に、背後から赤レンガ倉庫をライトアップするオレンジ色の光が押し寄せてきた。
「勝手に好きじゃなくなって、別れてくれって、俺、相当悪い男じゃないですか」
私は意地悪に笑って、答えた。
「私なら刺しちゃうかも」
それに応えて、男性は「えー」と大袈裟に驚いて、私に向かってまた弁解を始めた。
「でも、俺、本気で愛したんですよ。浮気とかも絶対しなかったし、あいつが喜ぶこと必死で考えて毎日過ごしてたんですよ」
私は男性が気の毒になって、「大丈夫です、わかりますよ」と言った。
「俺、悪くないですかね」
泣き出しそうな声がして、その直後、波音に違う音が一粒混ざったような気がした。
「悪くないですよ。本気で彼女さんのこと大事にしたんでしょう。それをわかっているから彼女さんも別れたんじゃないかと、思いますけどね」
彼を許す言葉は、案外するりと口から溢れた。それが最初から答えだと知っていたかのようだった。
「そう思いますか」
「思うだけですけど」
隣に泣いている人がいると、妙に落ちついてきてしまう。今日一日抱えてきた空虚を全て吐き出したような気持ちになって、男性に聞かせるでもなく、私は海に向かって話しだした。
「誰にもわかりません。そういうものなんです、きっと。人間の情なんてこの世の何よりも脆く、流されやすいんですよ。私たちにはどうすることもできません。私から離れていく心を捕まえておくこともできなければ、誰かから離れてしまいそうな自分の心を押しとどめておくこともできないんです」
最後の方はだんだん声が大きくなって、目頭が熱くなってきた。
「もう私たちは前に進んでしまった。もうあの頃には戻れない。戻りたいのに、一生あの気持ちに巡り会うことはないんですよ」
言い終わって、私が一息つくと、干された布団がボソリ、と呟いた。
「でも、変わるからこそ、その瞬間が愛しいんでしょうね」
「結果論じゃないですか」
「いいんですよ、そんなの。今からでも、彼女との思い出が価値を増した気がします」
そう言われて、もう一度幻たちが立ち上がる。彼女たちは今はないイルミネーションを指差して歩きながら、騒いでいる。
「そう言われれば、確かに、そう思えるかもしれないですね」
幻の私が不思議そうに振り向いて、私の方を見た。まだピアスが空いていなくて、アイラインが下手で、スニーカーを履いている私だ。彼女に「精一杯楽しんで」と言いたくなった。
男性が立ち上がって、深呼吸をした。呼吸のしにくい体勢だったから、少し苦しそうだ。
「もう一つ教えてほしいんすけど、別れた彼女と友達に戻るってアリですか」
言われてから、その質問のための深呼吸だったのだと気づく。きっと誰かにその質問をぶつけたくて仕方がなかったのだろうけど、誰とも付き合ったことのない私に聞かれても困る。しかし、答えてあげられるのは私しかいないので、ありったけの想像力を働かせてみる。
「女の子として言わせてもらうと、サイテーだと思いますね。最悪、刺します」
「おねえさん、結構重いね」
「過去の友達のことを想ってヨコハマに来るくらいですからね」
軽口を叩きながら残念そうな顔をする男性に同情したわけではないが、一呼吸置いて続けた。
「でも、いいんじゃないかと、思いますね」
「そう思いますか」
「思うだけですけど」
「それ、随分都合がいいですね」
「本人じゃないのでこれくらいしか言えないですよ」
「それもそうか」
暗闇にベイブリッジが浮かんでいるように見える、となんとなく言うと、男性が頷いた。暗いので、水面が固い地面のようにも見える。今ならあの橋まで走っていけそうだ。潮の香りに包まれて、堂々進んでいく。橋に辿りついたら、振り返っって、ヨコハマの夜景をこの目いっぱいに映して、別れを告げたい。もう一人でヨコハマには来ない。次に来るとしたら、かっこいい彼氏とのデートだ。
話したいことを話し終えたらしい男性が「じゃ、俺は行きます」と言って歩きだした。私は特別なことは言わずに歩きだす彼の背中を目で追ったが、ふと、彼の名前を知らないことに気がついた。
「なんか儚いですね。とても大事な話をしたのに、私たちはお互いの名前も知らないなんて。本当に実在した人だったのか、あなたが見えなくなった瞬間に疑ってしまいそうです」
聞こえなくてもいいと思って発した言葉を、男性はしっかりと受け取って立ち止まった。
「俺もそう思います。けど、名前はお互い言わないでおきませんか。今は、それくらいが心地いいから」
私もそれに賛同した。名前を知らないからといって、彼を忘れる理由にはならない。名前以上を知っていても、いつか忘れてしまう人もいるけど。
男性が去ってから、私は海に背を向けて赤レンガ倉庫のライトアップを眺めていた。彼の話を反芻しているうちに、別れた彼女と友達に戻るというのは良いアイデアに思えてきた。彼らの恋愛はもう終わってしまったが、それは彼らが全くの無関係になるのとは違う。それは私たちも同じだ。
目を閉じて、あの三人との再会の場面を想像する。彼女らは、私のピアスやアイライン、ヒールのことを好き勝手に言ってから、なんの罪悪感もなしに私のことをこう言う。
「懐かしい」
私はそれを当たり前のこととして受け取る。それから、新しくできた友達と行ったヨコハマより遠い場所への旅行の思い出を四人で語り合う。
なんだ、十分楽しそうじゃない。
あの頃と同じように赤レンガ倉庫から横浜駅まで歩いて帰ろうと思っていたが、ヒールを履いた足が限界だと抗議するので、やめた。しかし、残念な気持ちは起こらない。私には、もう過去の足跡をなぞる理由がないから。
名もなき… K.A @asahi-0301
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