153、最終節

153、最終節 佐藤壮真

 僕はあの生活の中で、心の底から、あんな非道い世界を、まるで地獄のような世界を具現化したヴィールスを憎んでいた。そして同時に、そのヴィールスに対して激しい興味もを覚えていたのである。もともと医学部志望であった僕は、ヴィールスが一体どういう機構でこの様な悲劇をもたらしたのか、そして、どういう研究の果てに、あるいはどういう目的の道中においてこの様なヴィールスが開発されたのか、どうしても知りたかったのだ。つまり、多くの罪なき高校生の命を奪うことになったあのヴィールスの来歴、人となりを知りたかったのだ。どうして、彼らが死なねばならなかったのかを知る為に。

 しかしその後、僕の欲望の矛先は大きく方向を変えることとなった。その契機は、あの存外長く掛からなかったヴィールス治療の末期、元の生活に戻る為のコミュニケーション的リハビリも兼ねて、我々生き残り七名が語らう機会を与えられた時に遡る。驚くべきことに、皆が皆、あの日々を殆ど憶えていないと言うのだ。その後個別に問い詰めたところ、簑毛と鉄穴は多くのことを憶えているようであったが、しかし、残りの四人に関しては本当に綺麗さっぱり忘れているらしかった。あの、周響子を初めとする仲間達に熱い思いを、拙い口調で一所懸命に語った霊場すらが、その彼女らのことを一切憶えていないのだ。これは、非常にショックであった。そもそも、簑毛と鉄穴の記憶だって、完全とは程遠い状態であり、つまり、あの二ヶ月半の地獄の日々を初日からきっちり憶えているのはこの世でこの僕一人きりということになってしまったのだ。

 そこで僕は思い直した。あのヴィールスについて詳らかに知っている人間は、少なくとも十人くらいは居るだろう。国家の研究であったのだから、もしかするともっと無数の人間があのヴィールスやその研究についての知識を持っているかもしれない。ならば、それについては彼らに任せよう。既に御立派な研究者達が携わっている仕事を今から僕が理解してもしょうがない。寧ろ、僕は僕にしか出来ないことをやるべきだ。つまり、僕のみが知っている、あの世界で起こった数々の出来事、僕はそれについての解明を行いたいと思ったのだ。

 例えば、人食について考えてみると、成る程、言われて見れば人の肉を喰らうと言うのは、あの超飢餓世界において単純にして強力な解決方法だと思われる。事実、同行者の死体を貪ることで生き延びた遭難事故の例は枚挙に暇がない。航空事故然り、海難事故然り、そういう手段で生き延びてきた人間は過去に多く居るのだ。では、何故あの殺し合いにおいては、非常に稀な、おそらく武智らによるそれが唯一となる程の出来事であったのだろうか。これはきっと、死体と遭遇するタイミングのせいである。死体は適当なタイミングによって会場内から排除される手筈となっていたので、最初期はいざ知らず、中盤以降では、無尽蔵に死体が手に入る訳ではなかった。故に、死体と遭遇するのは、つまり、人食の契機を得るのは、誰かを殺した直後のみということになる。これが問題だ。すなわち、死体に出会すのは専ら誰かを殺めた直後であって、ということは、それなりのポイントを得た直後ということになる。自動販売機にいけばまともな食料が数十食分購入出来ると言う状況で、目の前の人体を喰らう気になるだろうか、まずならないだろう。こういう機構によって、あの場でのカニバリズム行為の発生は最小限に抑えられていたのだと思われる。この傾向を打ち破ってまであの武智らが人食に及んだのは、きっと、あの三人の中に果断な選択を厭わない者が一人以上居たのだろう。「今確かにポイントを得たが、結局また枯渇することになるのだ。ならば、このポイントは保存しておいて、目の前の肉を糧にするのが優先であろう。」と、思い当たる果断さ、それを仲間に対して口にする果断さ、そして、実行する果断さ、これら全てを持ち合わせていた人物がきっと居たのだ。僕は、記憶を失う前の簑毛夫妻の話からして、それが竿漕美舟だったのではと睨んでいるが、真相は闇の中である。

 つまり、そう、本来なら飢餓状況において取られるべき忌まわしい選択が、ポイント制という特殊な環境下において抑制されたことや、その抑制を凌駕する程の意志、これはほんの一例だが、こういったものについて研究することは非常に興味深いではないかと僕は思うのだ。これを出来るのは、僕のみだ。ならば、僕がせねばなるまい。そう、この僕が。となれば、既に国の研究者の手許にあるヴィールスに構うために生涯を捧げるべきではない。僕は、僕にしか出来ない仕事、あの殺戮の世界から少しでも多くの知見、心理学的、社会学的あるいは自然科学的知見を汲み出すことをしなければならない。故に僕はこうして、当初の志望とは殆ど関係ない学部において勉学に励んでいるのである。勿論この仕事は容易くない筈で、自然科学や社会科学に基づく多くの切り口、つまり教養が必要だろう。なので僕は貪欲に振る舞い、他学部の授業に忍び込んだり、自分の受けているカリキュラムには全く関係のない筈の書物や文献を図書館で漁ったりしているのだ。


 と言う訳で、僕は本日も講義の後に大学図書館へ来ているのである。今日は過保護な母親が送ってきた宅配便の到着を待たねばならないので、ここではなく自室で勉強をしようと企み、それらしい本を摑んでから帰宅すべくエレヴェーターホールに向かったのだ。

 しかし、あと十数歩で僕がその前に到達するというタイミングで、下りのエレヴェーターの戸が閉まり始めた。駆け寄ればどうにか間に合ったろうが、手中の貴重そうな本がそれを憚らせ、僕は心の中で肩を竦めつつ、寧ろ歩みを緩める。次を待てば良かろう、と。しかし、いざ扉が閉まりきろうとした瞬間、一人の女性が駈け込んできてボタンを押し、そのエレヴェーターをこじ開けた。なんだ、彼女がああして飛び込んできて時間を稼いでくれることが分かっていれば、自分も少し急ぐことで充分間に合ったろうにと、口惜しがる僕の目に、しかし、信じられないものが飛び込んできたのである。エレヴェーターへの突入に成功した彼女が、こちらに振り向くと、その顔は確かに、鉄穴凛子だった。真正面に居た訳でもなかった僕の間抜けな顔は、彼女に認められることもなく、そのまま戸は閉まり、彼女が下階へ運ばれていく。

 全く知らなかった。彼女も、この大学に居たのか。僕は、急いで階段を駈け降りれば鉄穴を捕まえられるだろうかと思い、そうしかけたが、しかし、ここが静寂を愛す世界、図書館であることを思い出し、三歩進んだところで足を止める。そして考えた。彼女との再会がこの様な形でなければ、僕は躊躇わずに声を出し、寄っていくことで自分の存在を彼女に知らしめただろう。そうすれば彼女もまさか逃げはしないだろうから、僕と鉄穴との邂逅は達成されることになった筈だ。しかし、実際はそうではなかった。この場所が僕に課す、紳士然とした振舞を求める強力な重圧が、僕と彼女との接触を許さなかったのだ。

 そうして一人きりとなった僕は思った。これは、一種の天啓ではなかろうか。僕と、かつての生き残りは接触すべきでないという、何者かの思し召し。僕が達成すべきである仕事の為に、〝今〟の彼らに興味を持つな、〝今〟の彼らから影響を受けるなという託宣ではないだろうか。そうでなければ、この様な奇蹟、まるで、僕だけが彼女に気が付いて、しかも声を掛けることが出来ないという結果を与えるために取り計られたとしか考えられない、この様な場所、時機、互いの位置関係が、達成される筈がないではないか。そのうちのどれが多少ずれていても、僕と彼女が互いに気が付かないか、それともしっかり再会を果たすかの、いずれにせよもっとはっきりとした結果となった筈で、この様な、煮え切らない事態にはならなかった筈なのだ。故に僕は、ここに大いなる者の采配を感じざるを得ず、つまり、天啓の内容を確信せざるも、また、得ないのだ。

 前もって欲張りな何者かが操作していたらしく、先程鉄穴が乗り込んだのとは別のエレヴェーターが突然開いた。僕はそこに今度こそ急いで駈け込んで、一人きりの孤独な鉄箱の中、ボタンを押して一階へと向かう。そこへ辿り着くまでの短い間ではあるが、誰かが侵入してくることもない限り、僕は外の世界から隔絶されて、この見た目にも物理的にも冷たい厨子の中に閉じこめられる訳である。この即席の孤独は、より、先程の僕の霊感を鞏固なものとした。やはり僕は、生き残りの彼らに接触すべきでないのだろう。

 そして僕はこの確信によって強か励まされるのでもあった。何故なら、もしも、僕が今なそうとしている仕事、あの悲劇から出来る限り多くのことを汲み出して人類の叡知に加えんとする企みが、無意味であるのならば、神なるものは、かのうな天啓をわざわざもたらさないであろうから。その大いなる何者かは、命運と言う形によって僕に指示を与えることで、僕が取り掛かりつつある仕事の重要性を間接的に保証してくれているのだ。なんと、有り難いのだろう。もう、恐れるものは何もない。

 扉が開いた。エレヴェーター近くに設置された新聞コーナーから、香しいインキの香りが漂ってくる。僕は、それを搔くようにして大いなる一歩を踏み出した。


(了)

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七角柱の走馬燈は少々毀たれても止まらない 敗綱 喑嘩 @Iridescent_Null

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