最後の花火…。

宇佐美真里

最後の花火…。

立秋が過ぎ暦の上では既に秋のはずだ。

だが、ピークは去ったとは云え、気温は一向に下がる気配が見られない。


前日から前もってアイロンでシワを伸ばしておいた浴衣を、幅広のハンガーから外し袖を通す。背中に腕を遣り、きちんと背縫いが背骨に合っているかを確認する。其れが最初のポイントなのだと母は言っていた。独りで着られる様になって何度目の夏になるのだろう。四度…いや、五度目?小学生の頃、母に着せて貰って居たのが懐かしい。

衿先を摘まみ、裾を持ち上げる。姿見に映る踝の白さがやけに目立つ。視線を上げ、姿見の中の自分と目を合わせる。アルバイトのせいで陽に焼けてしまった顔との比較に、思わず苦笑いした。

初めての其の時、"右前"を勘違いしていた私は、其れでは死装束。縁起悪いわよ…と母に言われ、怖くなり鳥肌が立ったことが今も印象深い。そんなことを思い出しながら、左衿を姿見に向かって逆"y"の字に合わせる。裾が合わさり、ようやく白い踝を其の半分ほど隠す。ベッドに放り投げられていた腰紐を手に取り、しっかりと結ぶ。結び目を少し横にずらすと、再び背中へと手を遣ってシワを伸ばして整える。"おはしょり"を整え、息を大きく吸い込みながら胸紐を結び、再度背中のシワを伸ばした。伊達締めを巻き、"文庫結び"に帯を巻くと、其れを其のまま後ろへと崩れぬ様に回転させた。改めて姿見を見ながら、衿元の合わせをもう一度整え直した。うん、悪くない。


ベッドの上の巾着を手にし、自室を出て階段を下りる。玄関で下駄を履いている処に、絆創膏は持ったの?…と母が台所から訊いてきた。昨晩、確認したはずだったけれど、もう一度巾着を覗き込み其の存在を確認する。母にひと言、持った…と返すと其のまま、行ってきます…と玄関の扉を開けた。


***


カラッ、カラッ…と音を立てながら通りを歩いて行く。下駄の音は軽やかだ。ドン!ドンドンッ!…と数回、大きく空砲が鳴った。今年最後となる花火大会の開始を知らせている。

辺りには会場となる河原へと向かう人が溢れていた。河原に近づくにつれ、更に其の数は増していく。河原は既にレジャーシートを敷いた人々で埋まり、足の踏み場もない状態が河沿いの土手にまで及んでいた。警備スタッフが彼方此方で、土手の上には立ち止まらない様に…通路を確保して下さい…とメガフォンを使って叫んでいる。


スマートフォンに通知が届く。何処に居る?もう着いてるよ…と友達からだ。

待ち合わせの鑑賞ポイントを目指し、人混みを抜けて行く。其処での鑑賞も今年で四年目…。今、向かってる…とだけ返信し、先を急ぐ。辺りはいよいよ薄暗くなり、花火開始を待ちわびる人々の熱気が、暑さに輪をかけて感じられた。


ヒューーーーッ!


細く高く長い音に、人々が一斉に顔を上げる。ドン!と低く大きな音が、胸を揺らした。大輪の華が一つ、薄暮に咲く。更に続けてヒュー、ヒュー、と二つ。すぐ其の後を追い、ドン!ドン!と破裂音が立ち、また二つ新たな華が開いた。花火大会は始まった。


待ち合わせの場所…鑑賞ポイントへと急ぐ私。だが其の手前に一ヶ所、私には通過ポイントが在った。少しだけ歩速を緩める。抑々ごった返す人ごみの中、然程速度が上がっていた訳でもない。ゆっくりとした歩みとは裏腹に、辺りをキョロキョロと見回す首の動きは忙しない…。


居た!

よっ!と元気よく例年通りに肩を叩こうとするが、次の瞬間上げていた腕を宙で止めた。彼の腕は、隣に寄り添う浴衣の女の子の肩に回されていた。

私の腕が止まったのは、其の肩に回されていた腕に…ではない。

去年と同じ子なんだ…。


地元の花火大会。私が独りで浴衣を着てみようと挑戦したのは、今から五年前、中学二年の此の花火大会だった。当時、初めて出来た"彼氏"と一緒に観に行く其れの為に、ずっと其れまで母に着せられていた浴衣を、自分独りで着ることに挑戦した。初めて独りで着た浴衣を、初めての彼氏は褒めてくれた。だが、夏が終わり、秋が過ぎ、冬になる頃…クリスマス前には、何となく自然に別れていた二人…。其の後、会えば話し、笑い、ふざけはしたけれど、二人が"つきあっていた"と云う事実には、以来ずっと互いに触れることもなかった。あれは所謂"つきあう"と云うのとは違っていたのかもしれない…。少なくとも彼にとっては…。

翌年の花火大会に、クラス替えで隣のクラスになった彼は、同じクラスの女の子と来ていた。高校生になった更に翌年には、恐らく同じ学校の女の子と。そして去年はまた、別の子と手を繋いでいた。毎年、互いに、よっ!と声を掛け合い、その都度彼は、"彼女"を私に紹介した。毎年違う女の子…。


でも…今年は…去年紹介された"彼女"が、また彼の隣に寄り添っていた。

続いてるんだ…。


ヒューーッ!ヒューーッ!ヒューーーーッ!ドン!ドン!ドーンッ!

立て続けに三発の花火が打ち上がり、真っ黒な空に華を咲かす。

次の瞬間、パラパラパラ…と其の華は色取り取りの花弁を、長い尾を引いて散らしていく…。


ヒューーーーッ!ドン!

出遅れたようにして、また一つ華が咲く。見上げる私の頭上で散る華弁…。

色取り取りの華弁が夜空に滲む…。

あれ?ふいに視界に滲んだ華火に、私は動揺した。

ヒューーッ!ヒューーーーッ!ドン!ドン!二発上がったはずの華が、朧げに一つになって目に映る。


私は巾着からスマートフォンを取り出すと、ごめん…具合悪い…帰る…と友達に送り、来た道を引き返した。連続して上げられる華を、人混みは揃って見上げている。其の中を縫う様にして、私は俯き気味に歩いて行く。スマートフォンが何度か、友達からの着信を知らせたが、私は其れに答えなかった。


カラッ、カラッ…と鳴る下駄の音が寂し気に辺りに響く。あれだけ通りに居た人混みも今はもう疎らだ。ドン!ドンドンッ!ドドドドドドン!と連発で空に華が上がり、遠くで人々の喚声が聞こえていた。


玄関を中に入ると、あら…早いわね…と、母が言った。どうかしたの?と尋ねるが、別に…と素っ気なく私は答え、二階の自室へと階段を上がって行った。階下で母は、黙って其れを見送っていた。

手にしていた巾着をベッドの上に放り投げ、其のまま私もベッドにうつ伏せに倒れ込んだ…。まだドンドン…と花火の上がる音が小さく聞こえている。


***


トントン…。扉がノックされる音がした。

扉の向こう側で母が、線香花火が出て来たんだけど、一緒にやらない?…と言った。頬を濡らしていた涙を私は浴衣の袖で拭い、何も答えずに扉を開けた。母も何も訊こうとはしない。二人して無言のまま階段を下りて行く。猫の額ほどに狭い庭にサンダルで下りると、しゃがみ込む。はい…と母が線香花火を一本差し出した。ありがと…と小さく答え、マッチを擦って火を点ける。


チリチリチリ…と赤い火玉を中心に、火花が勢いよく散り始める。火玉を落とさぬように、じっと堪える。目の前にしゃがみ込む母も、やはり黙ったまま、手元の火玉をじっと見つめていた。散っていた火花はやがて小さくなり、静かに落ちるのを堪えている…。


やがて、ぷっくらと丸く大きくなった火玉はポトリ…と呆気なく庭に落ちた。

あ…と思わず私は声を出す。落ちちゃったね…母が呟いた。


「うん。終わっちゃった…」

庭に落ちた火玉がゆっくりと、其の明るさを弱めて行くのを見つめながら、私は頷いた。


何時しか、夜空に響いていた花火の音も途絶えている。

辺りには何匹か、弱々しく蝉が鳴いている。其れに交じって秋の虫の声が、控えめに自分たちの存在をアピールしていることに気付いた。

暑さの続く中、なかなか気付くこともなかったけれど、季節は次へと確実に移ろうとしていた。



-了-

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