第62話 白の決断


 赤い夜と呼ばれる、破滅に向かう現象が発生する中、学校の体育館で激戦に巻き込まれて大怪我を負った。


 ――そんなすばるの記憶とは真正面から食い違う光景が目の前に広がっていた。


 圧迫感を覚えるほどの、白。


 石膏せっこうの表面のような、ざらついた、しかし神経質なまでに白色の空間に昴はいた。


 地面はしっかりしているが、ここがどこかの屋内だとして、内と外とを区切る壁がどこにあるのか見えない。


 白一色であるために幻惑されているのかもしれないが、少なくとも壁らしきものを感じなかった。


 ここに来た瞬間、目の前に表示されていた『初期設定が完了しました』という文字も、いつの間にか消えてしまっている。


「怪我も、ない……?」


 右手と脇腹に触れる。


 あれだけ暴れ回っていた激痛が嘘のように消えていて、傷もなく、服も破れていない。


「今までの出来事は夢? いや、そんな……」


 これが自分の部屋で当たり前に目覚めただけならともかく、目の前は、先程までの状況とはまた別の意味で異常だった。


 それでも、SF映画で出てきそうなネタだが、現実としか思えないようなリアルな夢を見せる機械にかけられているとか、そういう状況だったらどれだけいいかと思った。


『汝、神器の主たる者――』


 ふいに声がして、昴は反射的に振り返った。


「あ―――」


 思わず声を上げる。


 前にばかり気を取られていたが、昴の背後には一つだけ、「白」ではないものが存在していた。


 それは、巨大な樹だ。


 見上げるほど背が高い。


 枝振りもよく、傘のように昴の頭上を覆っていることも相まって、頂上はここからでは見えないほどだった。


 周りが日陰になっていないのは、光源が太陽ではないからだろうか。


「樹が、呼びかけてきた……?」


 目の前の大樹に話しかけたわけではないが、


『然り。我は創世術の管理者にして、知識の源であるユグドラシルの大樹』


「ユグドラシル……」


 ロイヤルタワー神木の地下に存在する大きな根がその名前で呼ばれていた。


〈精霊器〉リゾルバーを生み出す存在で、ミドガルズオルムが拠点を置く理由らしい。


 同じものが世界各地に点在していると言われていたが、考えてみればあれが「根」である以上は本体の樹木につながっているはずなのだ。


 世界中に点在しているということは、その樹自体がどこにあるのかもっと不思議に思ってもいいはずだが、あのときは状況を理解するだけで手一杯でそこまで考えが及んでいなかった。


 目の前にあるこの大樹が、あの根とつながっているということなのだろうか。


「ここは、なんなんですか? あなたが僕をこんな所に呼んだんですか?」


 樹に質問するのも奇妙な感覚だが、意思疎通できるのであればこの際、背に腹は代えられない。


 夢なのか、それとも実際にどこか別の場所に移動してきたのか、こうしている間にも涼音すずね冴香さえかの〈精霊器〉で消滅しようとしているのだろうか。


 もし後者なら、どんな手段を使っても元の場所に戻らなければならない。


『不安を覚えるにはあたらぬ。現在、この世界の速度は数万分の一に圧縮されているため、ここで焦らずとも、一秒の誤差すら生じておらぬであろうよ』


「つまり、元の場所での一秒は、ここでは数万秒に感じるってこと?」


『然り。汝を招聘せしは、紛れもなく我である。目的は、神器の主である汝と、正しく契約するためである』


 言い回しも前時代的で、意図が伝わりづらい。


 それでも、昴が神器と正式に契約することが目的だということなのだろう。


「ちょっと待った。神器って、〈聖なる泉ミーミル〉のことだろ? あれはもう、僕の思い通りに動いていたじゃないか」


 素直な疑問をぶつけると、


『それは浅慮と言わざるを得ぬ』


「浅いって……」


『汝が使った神器の力は、全体からすればごく一部に過ぎぬ』


「一部って、いや、でも爆発とか武器の攻撃とか、どんな攻撃も通さなかったし――あれが、ごく一部?」


『然り。神器には現時点で解放されているものとは比べものにならないほど大きな力と、大きな可能性が眠っている』


 それが本当なら、最初に〈精霊器〉を与えるつもりで〈聖なる泉〉が出現したときに見せた幽月ゆづき達の驚愕も理解できる。


 今の時点でも他の〈精霊器〉への優位性は確かだが、逆に言えばそれだけだ。少し性能がいい〈精霊器〉――その程度の代物だと思い込んでいた。


『少しずつ力を引き出し、汝の魂に同調させていた』


「あ、じゃあ、初期設定っていうのは、僕にあわせて〈聖なる泉〉は調整されていたってこと?」


 確かに、最初は極度に感情が高ぶらなければ起動すらしなかったものが、体育館に到着した時点では自由に起動できるようになっていた。


 限られた力だと言われても信じられなかったが、あれが内部的に調整され続けていた結果だったなら納得できるところもある。


「ちょ、じゃあ! 僕に合わせて完全に調整が終了したなら、今までよりもっとすごいことができるってこと!? 涼音を救えるの!? 赤い夜を防ぐことはできるの!?」


 どうやるかは想像もできないが、もし涼音が生き延びて、この世界も救えるなら昴は残りの一生を全部使ってでも幽月達に協力していい気持ちになっていた。


 だが、


『残念ながら、答えは否である』


 大樹からの返答は冷酷なものだった。


『人体の複製自体は、あるいは可能であるのかもしれぬ。だが、その行為は新たな〈ワールドエンド〉の引き金となる』


「でも、一度起こったらそのあとは百年とか間は起こらないって……」


『それは自然の時の流れに任せた場合の話である。〈ワールドエンド〉の肝は、同一存在同士が衝突する対消滅――つまり、同じ世界に同じ存在が二つ生じれば、それは即座に対消滅を起こし、一つの反応は連鎖的に広がって世界のバランスを危うくする』


 つまり、一定期間経って互いの世界が引き合う、という現象は起こらずとも同一存在が衝突すれば、それだけで世界が滅びるということだ。


 だからこそ、特異点――こちらの世界に存在しないものを取り込む必要があるということなのだろう。


「じゃあ! 〈聖なる泉〉と正式に契約したって何もできないじゃないか!」


 涼音をこちらの世界の涼音の体にこのまま定着させるのも選べない。


 誰かが指摘していたように、こちらの世界の涼音の人生を奪うことになる。


 このまま世界が滅びるのを静観することもできない。


 もちろん、涼音一人を犠牲にしてなかったことにすることなど絶対にできない。


『汝の願いと、契約を今という瞬間に迎えたことに因果関係はない』


 つまり、涼音を助けるために起こった奇跡ではないということだ。


 これでは、ぬか喜びもいいところである。


『今後、真に世界を覆すこともできる神器として〈聖なる泉〉は機能していく』


 昴の気持ちを顧みることもなく、大樹は事務的に説明を続けた。


『だが、新たに獲得する力をすべて放棄すれば、あるいは汝の望みの妥協点ぐらいは作れるやもしれぬ』


 妥協点、という表現に思わず首を傾げる。


 涼音を助けられるか否か、答えは二つしかないはずだ。


『今後、汝は我を含む、世界のすべての知識を自由に閲覧し、世界に漂うマナを利用してあらゆる創世術を行使できる。〈精霊器〉のように限定的な能力ではなく、思うままに奇跡を起こす、文字通り神に等しい権能を得ることになる。これらをすべて放棄し、神器の座に汝が生存を願う少女を座らせる』


「つまり、〈聖なる泉〉に涼音を飲み込むということ? 妥協点っていうのは涼音は外には出られないけれど、僕とは会話できるってこと?」


『概ね、肯定する。だが、会話は不可能である。彼女の精神活動は完全に休止し、神器の座で眠りに就く』


「それじゃあ、死んでるのと変わりないじゃないか! たとえば……、そうだ、何でもできるっていうなら、このあたりに幻の街みたいなのを作って、その中で暮らすとか……」


 独りきりで取り残されることになるのも充分残酷だが、完全に停止すると言われれば、もう少しできることはないかと食い下がりたくなる。


『不可能である。ごく基本的な、現在も行使できる程度の能力は残ると推測されるものの、この世界を改変して彼女の精神を活動させるような機能がそもそも残されない』


「そういう空間を作るための機能を全部涼音と入れ替えるからってこと……」


『肯定である。残されるのは基礎能力と、座にマナを溜め込む能力のみ。権能を絞り込むため、おそらくほぼ無限にマナを蓄積することが可能となるだろうが、混乱期を乗り切るのが今よりも困難になることだけは確実である。唯一、汝の理想に近づく可能性を提示するなら、いつの日か、自力でこの空間に世界を創造することができたなら、眠りについている少女を汝の希望通り、この世界で自由にすることができるやもしれぬ』


「世界を、創る……?」


『然り。ただ、我にはその道筋を提示することはできぬ。本当に可能かどうかも断言できぬ。〈聖なる泉〉の力は失われぬ。失われるのはあくまで制御を司る座、のみ』


 だから、妥協点なのだ。


 文字通り、〈聖なる泉〉は神様のような力を発揮できる。


 それを諦めれば、この場で即座に涼音が消滅するようなことは避けられる。


 その後、彼女をどういう形でかはわからないが、眠りから目覚めさせることができるかどうかは昴にかかっているということだ。


『時間はある。熟慮されたし』


 数万分の一の時間しか断たないこの世界なら、悩みたいだけ悩むことも許されるだろう、だが、


「そんなの、迷うはずもないだろ! その座っていう場所に涼音を眠らせてくれ!」


『神のごとき力、惜しくはないと申すか?』


「当たり前だ!」


 即答する昴に、大樹は少しだけ笑ったような気がした。


 樹が笑うのかどうかはわからないが、空気が柔らかくなったような気がしたのだ。


『承知した。ならばこれからは、〈聖なる泉〉の全能性が汝を助けることはできなくなる。様々な困難が降りかかることが予期される故、ゆめゆめ警戒を緩めぬよう、心に留め置かれたし』


「わ、わかった……」


 困難がどんなものなのかはわからない。


 界李のように世界を滅ぼす還元主義者がまた現れるのか、もっと恐ろしいレヴェナントが現れるのか。


 あるいは、それらの困難を切り抜けるためにこそ〈聖なる泉〉が用意されていたのかもしれない。


 その万能の権能を、昴は手放そうとしているのである。


 一時的な感情に流されたわけではなく、そういったマイナスがあることは理解した上で、せめてそれを背負おうと決心したのだ。


 そして、いつの日か涼音を眠りから解き放つ。


 今の昴に選べる最上の結末はそれしかなかったのである。


『神器との契約は中断。魂魄の召喚と座への定着を開始する』


 大樹が宣言すると、強い静電気に晒されたように、ちりちりと皮膚の表面が引っ張られるような感覚が生じ、そして頭上から緑色の光に包まれた一人の少女がゆっくりと舞い降りてくるのだった。

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