第52話 暴露


 彼女の意識は虚無の中を漂っていた。


 どこまでも、どこまでも、どこか深い部分に向かって落ちていく。


 不思議と恐怖心はなかった。


 記憶も、曖昧で、どこから来たのか、どこへ行くのか、何を考えていたのかが曖昧模糊としていて思い出せない。


『――さぁ、涼音すずね


 辛うじて、自分の名前であるということは理解できた。


 とても穏やかな声。


 それは心の中に、染みこんでくるようだった。


『ほら、目を開いて』


 涼音の意識は、呼びかけてくる声に導かれ浮上していく。


 重い目蓋を努力して少しだけ開いていった。


 どこかの、とても広い場所を少し高い位置から見下ろしているようだ。


 けれど、頭の中には靄がかかったような状態で、意識はまだ曖昧だった。


『ほら、あなたの大切な幼馴染みが、あなたを殺しにやって来たわよ――』


 大切な幼馴染み。


 真っ先に頭に浮かぶのはすばるのことだ。


 少し離れた場所に、想像した通りの少年が立っているのが見えて、思わず嬉しさがこみ上げてきた。


 それでさらに少し意識が鮮明になって、『殺しにやって来た』という言葉の意味が浸透していく。


 声が何を言っているのか理解した途端、涼音の意識は反射的に否定していた。


『そんなわけない、昴が、そんなことをするはずがない――』


 声は、相変わらずひどく優しい調子のまま、おっとりと、穏やかに、緩やかに、しかし絶対的に涼音の思いを否定していく。


『するはずがない? どうして? あなたの世界は滅びたの。ここはあなたなんかの居場所じゃないのよ』


 徐々に記憶も明瞭になっていく。


 だがそれは、嬉しいことよりも、悲しいことの方が多かった。


 世界が滅びた、昴自身から聞かされたことだ。


 あの虹色の塵となって全てが滅びた夜から、涼音の身の回りでは記憶とは食い違う事実がいくつも目の前に現れていた。


『そう、この世界ではもう、あなたは邪魔者』


『そんな――!? だって昴は――』


『彼はあなたとは違う。彼はこの世界にとって誰より大切な人。あなたは違うの。あなたは逆。むしろあなたの存在が、一秒ごとにこの世界を壊そうとしているのよ?』


『私――が……?』


 何か、とてつもなく嫌なことを思い出しそうになっていた。


 薄暗い、倉庫。


 涼音は何かを聞かされたような気がする。


『あら、都合の悪いことだけはよく覚えていないのかしら? 都合のいい、身勝手な涼音……』


『ご、ごめんなさい――』


『いえ、いいの。だってどのみちあなたは始末されるのだもの』


『昴は、そんなこと、しない』


『するわ。だって、彼はとても大切にされているの。あなたの大切な幼馴染みは、ようやく居場所を見つけた。……ほら見て、よく見て、よく見るのよ? あんなに仲むつまじい』


 離れた場所で、困惑したような視線を向ける昴。


 その昴に寄り添うようにして、病院で見かけたきれいな女の子が立っている。


 二人で身を寄せ合って、立っている。


『あの少女が、あなたの幼馴染みの恋人よ。幸せそうではない? だって、この世界で朽木昴はやっと居場所を見つけて、あんなに素敵な女の子が恋人になったのだもの』


『あの子が、恋人……?』


 初めて見たとき、とても魅力的な女の子だと思った。


 そういう関係ではないのかと勘ぐった。


 不安と、他人の仲を勘ぐる行為の醜さで、涼音の胸の中にとても薄暗い気持ちが広がっていたのを思い出す。


『そう、とっても仲むつまじい、幸せな恋人達。なのにあなたはその居場所を壊すしかできないんだもの、それは殺しに来るのも当然だわ』


『そんな――』


 そんなことはない。


 声は、とても優しくて、穏やかで、押し流されそうになってしまうけれど、昴がそんなことをするはずがない。


 その弱々しい望みに縋るようにして、自分を支えようとした。


 声は、そんな微かな望みを見抜くように嘲笑し、涼音の心を抉っていく。


『知っているのよ? あなたの気持ち。どうせなら、彼にも聞いてもらいましょうよ』


 そして最悪の言葉が紡がれていく……。


               ◆◆◆


 声は、まるで嬲るように涼音に語りかけていた。


「僕がそんなことをするはずがないだろっ!」


 昴が力の限り絶叫する。


 なのに、涼音にはまるで届く様子がない。


「彼女はあの肉に半ば埋没している。よく見ろ! 耳元も完全に覆われていて、君の声も届かないんだ!」


 冷静に状況を分析する冴香は昴を宥めようとする。


「でも、だったらなんであの女だけが――?」


 さっきから、アイリが涼音に囁きかける声と、そして涼音がそれに応える声が、不思議なほど明瞭に聞こえ続けていた。


「きっと、このためにあの女は〈精霊器〉リゾルバーを使っているのだと思う」


「普通なら声が届かない涼音と、自分だけが意思疎通できるように?」


 加えて、心に直接届く声だという〈精霊器〉の効果なのか、普通に考えたら取り合うはずのないようなでたらめだというのに、涼音の動揺がこちらまで伝わってきた。


『どうせなら、彼にも聞いてもらいましょうよ?』


『イヤ、イヤだ、言わないで!』


 アイリは構わず言葉を重ねる。


『明るく、誰にでも優しく、成績も優秀で、クラスの人気者。他の人にそうするように心配しているフリをして、実は特別な気持ちを胸に抱きながら動いていたのよね?』


『だめ、言わないで、聞かないで……!』


『幼馴染みの昴のことが、とってもと~っても、大好きなんだもの。大好きな彼のことがとっても大切で、でも拒絶されてしまったら怖いから、言えずにいたんだもの。……ねぇ、朽木昴クン、よかったわね。こんな素敵な女の子から愛の告白よ。あぁ、でもありがた迷惑だったかしら? だって、今はもっとお淑やかで清楚で、あなたの言うことなら何でも聞いてくれる恋人ができてしまったんだから』


 その瞬間、涼音の方から言葉にできない感情が強烈な波になって押し寄せる。


 秘密を無理矢理暴かれ、想いを他人の手で勝手に晒され、嬲られる。


 羞恥心と、絶望感と、心を抉る痛みが涼音の中で荒れ狂っていた。


 ただの幼馴染み、ただの同級生、そうした関係よりは強い想いを感じてはいた。だがそれを恋愛感情だと考えるほど、昴は自惚れが強くなかった。


 だから、ただただ意外で、本当なら嬉しいはずだというのにこんな場面でこんな形で聞かされたおかげで困惑しか覚えない。


『ほら、彼も迷惑そう。無様よね。醜いわ』


『ごめんなさい、ごめんなさい』


 まるで幼子のように、嘆き悲しむ気持ちがあふれ出てくる。


『昴に知られちゃった、迷惑だって言われたらどうしよう』


 会話の内容だけではなく、どんな仕組みなのかわからないが、涼音の心の声までもが勝手に暴露されていく。


 とても繊細で、とても弱々しく、普段の快活な彼女からは想像もできないような剥き出しの気持ち。


 ほんの数日先に生まれたからとお姉さんぶったり、何かにつけて昴の世話を焼こうとしてみせたり、いつも笑顔を絶やさなかったり、そういう彼女にいつも力づけられてきた。


 在りし日の、くすぐったくも温かい日常を思い出す。


 あるいは、もう少し二人で時間を積み重ねれば自然と結実したかもしれない想い。


 それが他人の手で無遠慮に暴かれ、なおかつ酷いでたらめを加えて踏みにじっている。


 そんな非道な真似をしておきながら、アイリは酷薄な笑みを浮かべるだけだった。


 ひと言、アイリが言っていることなど全部嘘だと言ってやりたかった。


 だというのに、マナで作られた虚構の肉が涼音にまとわりついて昴の声を遮り続ける。


 涼音の心が追い詰められ、悲しい気持ちが溢れ出し続けていた。


「アンタ達は、なにがしたいんだっ!」


 昴は激怒していた。


 涼音の気持ちがどうかよりも、彼女が言い出せずにいた想いを無理矢理引きずり出して笑いものにするような所業が許せない。


 何より、涼音が悲しんでいることが、許せなかった。


「うふふ、そちらも盛り上がっているわね」


 アイリが、ここで初めて肉声を発した。


「何の目的があるかは知らないが、ずいぶん卑劣だな!」


 冴香さえかも怒りを露わにし、水姫みずきも言葉にはしないが昴の肩に添えた手に力がこもる。


「拙者にはよくわからんでござるが、とにかく嫌がっているでござる!」


 アンジェリカの率直な物言いに、アイリは苦笑を浮かべた。


「残念だけれど、別に幼稚な嫌がらせがしたいわけじゃない。ほら、感じないかしら? この子を追い詰めれば追い詰めるほど、赤いマナの濃度が高まっていく」


 言われて慌てて周囲を見れば、涼音に気を取られていた隙に、さらに周囲の空気は変異し、体育館の鉄骨や窓、柱、あらゆる場所に赤い肉が現れ脈動していた。


 まるで生き物の体内に飲み込まれたような閉塞感と不快感がのしかかる。


 それでも、その異様な状況に対する恐怖に倍する怒りが、昴を突き動かしていた。


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