第48話 傍観者
地上五〇階のタワーマンション、その屋上ともなれば強風が吹くことも珍しくはないが、その夜の風は異質だった。
湿度はそれほどでもないというのに、粘り気がある。
重く圧迫するようで、体の弱い人間ならそれだけでも辛くなるだろう。
〈ワールドエンド〉を経た混乱期はマナの密度が高まり、原初の世界に近づく。
それに加えて今夜の空気は、様々なものが負の方向に押しやられ酷く淀んでいた。
空を見上げれば、血のように紅い光が覆い尽くし地上を照らしている。
皆既日食が起こった瞬間のように、昼でもない夜でもない曖昧な明るさ。
文字通り、正常と異常とが混在する世界へと変化しつつあった。
これだけ赤いマナの濃度が濃くなれば、普通の人間はほぼ残らずなり損ないへと変態してしまっただろう。
「このままでは世界の破滅……。全ての選択はあの少年に託された、か……。いや、最初から我々に選択する権利などないのかもしれんな」
先刻、決裂したばかりの少年の顔を思い浮かべる。
繊細で、少年らしく生真面目な性格のように感じた。
自分なりに現実を受け止め、この世界での生き方を模索しようとしてくれていたように思う。
だが状況は、よってたかって彼を裏切り追い詰めつつある。
彼の幼馴染みの少女がレヴェナントであったこと。
それもどうやらかなり特殊な個体であること。
なによりも、ミドガルズオルムに因縁深い
全てが幽月にとって想定外の事態だった。
「私は、私にできることをまっとうするのみ、か……」
夜空の様子を確認すると、幽月は踵を返してマンションの中へと引き返すのだった。
◆◆◆
市立霧見沢高等学校の職員と来客用の駐車場では、異形と化したなり損ない達が訪れた少年達に容赦なく襲いかかっていた。
駐車場とそれ以外のスペースは生け垣によって区切られている。
その影に身を潜めて状況を見守っている一人の少女がいた。
水姫の推察通り、
冴香は
普通のフェンスでは無味乾燥だからと、生徒の情操教育も兼ねて校内のあちらこちらにこうした植物が植えられている。
葉と葉の密度が高いおかげでおそらく駐車場から冴香の姿を見ることはできない。
昴達は今、驚くほどの数のレヴェナント――なり損ない達に囲まれ、一方的に攻撃に晒され続けていた。
攻撃向きの〈精霊器〉を持たない彼らは反撃の手段が乏しいのだから防戦一方になるのは致し方ない。
むしろ素人の昴がたった一人であの攻撃を凌ぎきっている事実に感心すらする。
――しかし、防いでいるだけでは切り抜けることはできない。
思った通り、さらに集まってくるなり損ない達に昴は徐々に押されはじめていた。
「鵺堂界李まで!?」
昴達を出迎えたのか、標的の一人がこんなところに姿を見せている。
素早く周囲の状況を整理した冴香は、しかし逡巡していた。
ここで昴達を助けに入るのは簡単だ。昴の能力を考えれば、純粋な戦闘系〈精霊器〉を扱う人間と共闘すればその効果は最大限に引き出されるだろう。
倉庫での界李との戦い。
彼は完全な素人のはず。
相手の攻撃を防ぐ〈
(そもそも、あそこでアドリブに出た不破さんもどうかしているが……)
一歩間違えたら無防備に、倉庫の壁をぶち抜く爆発を食らっていたのだ。想像しただけでゾッとする。
清十郎の無茶は一旦脇に置くとしても、どれだけの数のなり損ないであろうと昴のアシストがあれば切り抜けられるはずだ。
だが、それでは根本的な問題解決にならないのは明らかである。
何故なら冴香と昴とでは最終的な目的が正反対だからだ。
ミドガルズオルムの使命を果たすのであれば、ここは彼らがまごついている間に冴香は前進するべきである。
界李がこの場にいる以上、さらわれた涼音の元にはアイリと呼ばれていた女が一人いるのみ。
倉庫では不意を突かれたが、彼女の〈精霊器〉があの翼なのだとすれば、アンジェリカと同じく索敵型の分類されるはず。
ならば冴香一人でも充分に対処できる。
昴の防御力を信じればなおのこと、単独で先行し、レヴェナントの涼音を始末する。
おそらく昴は激怒するだろう。
悲嘆に暮れるかもしれない。
対人関係の機微にはまるで疎い冴香だが、昴がこの世界にやって来てからの時間で少しは彼も心を許すようになってくれていた気がする。
その信頼関係――というには淡い兆しのようなものを台無しにしても、この世界が守れるならそれを成し遂げなければならない。
クラスメイトとは親しくならないようにしていた冴香だが、それでも涼音は話しかけてくれていた。
彼女が善人であることは疑いがない。
冴香が知っている涼音はこちらの世界の涼音で、あちらの世界の昴の幼馴染みであった涼音とは別の人間だが、だがレヴェナントの涼音も同じように善良なのは感じている。
罪がない。
落ち度があったわけでもない。
ただ〈ワールドエンド〉が起こったがために全ての未来を奪われた可哀想な少女だ。
だがそれでも冴香は彼女を斬らなければならない。
だから――、
(すまない、朽木昴。私を憎んでくれてもいい。彼女を斬った後、君に八つ裂きにされるのだとしても構わない)
ギリ、と噛みしめた唇から血の味がする。
それでも、立ち去ろうとした冴香の耳が、駐車場の中心にいる
「――わたくしの命程度、安いものなのです」
それを聞いて、冴香はギクリと立ち止まった。
瞬時に、倉庫で見せたあれをもう一度やるつもりなのだと察した。
昴をこちらの世界に迎えるため、一度はマナに近い状態まで自分の体を分解して向こうの世界へ渡り、昴をこちらへとサルベージした。
そのような無茶を行ったため、水姫の体は一度緩めたネジのように脆くなった。
物理的な話ではなく、マナに触れると彼女の体がマナの状態を思い出しそこへと回帰しようとする――つまり体が崩壊しはじめるのだ。
周囲のマナを従わせる絶対的な力を手に入れたが、それも彼女が自分の体をあえてほんのわずかに崩壊させ、自分の体から放散されたマナを介することで可能になった現象である。
彼女がそれを行えば、この程度のなり損ないをどうにかすることなど造作もない。だが彼女の命は失われる。
それでも、彼女は朽木昴のためであれば容易く自分の命を投げ出すだろう。
子どもの頃から、冴香は水姫のことをよく知っていた。
御子神水姫は、黒瀬冴香にとって幼馴染みで、唯一の親友と呼べる少女だった。
頭では、理解している。
水姫は本当にやってしまうだろうこと。
それでも、水姫の命一つを見捨ててでも、この世界を救うことの方が重要なはずだった。
何より、この世界は、昴の世界に生きていた無数の命を犠牲にした上に成り立っている。
だからこそ、個人の感傷を差し挟む余地などどこにもない。
(だから、動け私の足。動いてくれ!)
あり得ないほどかき乱された気持ちを代弁するように、冴香の足はその場から釘付けになったように動かなくなってしまっていたのだ。
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