第49話 使命と秤にかけるもの


 彼女との出会いは、冴香さえかが六歳になったばかりの頃だ。


 当時の冴香はミドガルズオルム日本支部の、異界子達を集めて訓練を施す施設で生活していた。


 多くの子ども達が集められ、〈精霊器〉リゾルバーを扱うための訓練を受けさせられていたのだ。


 子ども達は、法律上は戸籍を持っているため、学齢に達すれば訓練施設の隣に併設した学校で一般的な教育を受ける。


 だがそれ以外は朝起きてから夜寝るまで、厳しい訓練が続く。


 子どもに選択権はなかった。


 元々、異界子としての資質は稀人の血統からしか発生しない。


 ミドガルズオルムという組織が成立する以前に発生した〈ワールドエンド〉で偶然こちらの世界に迷い込んだ稀人がいる可能性も、もちろんある。


 だが特異点が人間――つまり稀人である可能性は高くなく、在野に異界子がいる数は決して多くないと言われていた。


 このため因子を持っている子どもはほぼ完全にミドガルズオルムによって追跡、把握されてしまっている。


 因子は持っているだけでなく外部のマナに反応して活性化しなければ〈精霊器〉を扱うことができない。


 これを因子の発現と呼ぶ。


 一生因子を眠らせたまま過ごす者もいれば、因子が発現し、何らかの〈精霊器〉を扱う資質が目覚める者もいる。


 組織は、因子が発現した子どもだけを半ば強制的に収容し訓練を施す


 外部の人間が聞けば、非人道的だと非難する者はいるだろう。


 だが異界子は独特の家意識を持っていることが多かった。


 世界支える使命感に燃える家系、


 異界子の待遇に不満を覚えながらも既に存在する社会構造に抵抗しきれずに従属する家系、


 あるいは、普通とは違う環境に置かれ組織の援助がないと生きられないため、自分の子どもを差し出す条件で様々な助力を得る家もある。


 稀人の血を持つという、狭く、特殊な価値観でガチガチに固められた異様なコミューンを形成していたのだ。


 特に戦闘系〈精霊器〉の訓練を受けるのは保護者がいない天涯孤独の身となった者が多かった。


 冴香も姉が一人いるだけで、両親とは死別している。


 早くから〈精霊器〉への適正を見いだされた冴香は物心つくよりも早くからこの施設で暮らしていた。


 山奥にある施設で、古びた鉄筋コンクリートの味気ない建物がいくつか並ぶ殺風景な場所だったのを覚えている。


 ただそこも霧見沢市と同じく地下深くにユグドラシルの根が存在し、ミドガルズオルムの拠点の一つだった。


〈ワールドエンド〉が起こる前、普通の場所はマナがほとんど存在しないが、ユグドラシルの根がある場所だけはわずかにマナが存在している。


〈ワールドエンド〉後の、むせ返るような濃密なマナとは比べものにならない薄さだが、〈精霊器〉の訓練を積むことぐらいはできたのだ。


 そこでの生活は、厳しいものだった。


 自分達が生きている間に発生するかどうかもわからない〈ワールドエンド〉に備えて、厳しすぎる訓練が強制され、死者が出ることも珍しくはなかった。


 物心つくかどうかの子どもだったが、それでも自分がもう頼るべき人が残されていないことぐらいは理解できていた。


 ここで生きていかなければ野垂れ死ぬしかない。


 法律で保護されるとか、そういう知識はなかった。


 幼い頃の冴香は、自分が役に立たなければ生きていけないという強迫観念と共に育っていたのだ。


 姉は少し年齢が離れており、また冴香とは別の素質を見いだされ、研究部門に引き取られていた。


 姉との連絡は、里心をつけないためか甘えを排除するためか、本当に現代かと疑いたくなるほどだが手書きの手紙を月に一通したためることしか許されなかった。


 あとは来る日も来る日も訓練訓練訓練訓練訓練。


 それだけだった。


 世界はどこまでも乾ききっていて、色はなく、常に絶望と二人三脚で過ごしていた。


 当時の冴香は、お世辞にも優等生とは言えなかった。


 そもそも学びたいと思ったことはなく、訓練は大人達から失望されないための手段に過ぎなかった。


 生来器用な方ではなかったし、毎日を落第点ギリギリで過ごし、いつ大人達に見捨てられるかだけを恐れながら過ごしていた。


 その日もいつも通り、一人でユグドラシルの根がある地下空洞に向かい、〈精霊器〉の訓練を行っていた。


 その頃の冴香はまだ〈精霊器〉を自在に実体化させることもできなかったため、木剣を手にひたすら素振りを繰り返した。


 体力が尽きる頃には汗だくになっていて、冴香はユグドラシルの根に背中をあずけ地面に座り込む。


「はぁはぁはぁはぁ……」


 荒い息を整える。


 一休みしたら、また素振りを続けるつもりだった。


 この先、自分がどうなっていくか、想像もできない。


 幼い子どもながら、自分の未来を想像するのが怖くて、だから夢中で剣を振り続けていたのだ。


 そんな中、


「あの、お友達に、なりませんか?」


 その単語は知っていたが、自分に向けられたのは初めての経験だった。


 反射的に顔を上げ、最初冴香は、絵本の中に出てくる天使が現れたのではないかと思った。


 小柄な女の子である。


 顔立ちには品があり、クセ一つない艶やかな黒髪が印象的で、自分のように疲れたり汚れたりしておらず向日葵のように明るい笑みを浮かべていた。


 自分と同じなのは年頃だけだ。


 施設内に冴香と近い年頃の子どもはいなかった。


 因子が発現したタイミングだけは早く、そのおかげで期待されていたが、蓋を開けてみれば並以下――冴香が置かれていたのはそんな微妙な立場だった。


 だから、施設内に冴香と親しくする者はほとんどいなかった。


 来年からは学齢に差しかかった子どもが何人か入ってくると聞いていた。


 そんな中の一人だとは予想できたのだが、何故いきなり友達にならなければならないかがまるでわからない。


「な、ならない」


 咄嗟に口から出てきたのは拒絶の言葉である。


 おろしたてのような真っ白いワンピース姿の少女と、汗みずく埃まみれの自分との差があまりにも大きくて、子どもながら恥ずかしい気持ちになったのだ。


「さよなら」


 地面の上に投げ出してあった木剣を慌てて拾い上げ、その場から走り出す。


「あ、待って下さい!」


 断られても特に気を悪くしたり、傷ついた様子もなく、少女はキョトンと不思議そうにしただけで冴香を追いかけはじめる。


「つ、ついてくるな」


「どうしてですか?」


「どうしてもだ!」


 ユグドラシルの根がある地下空洞から、いつもならエレベーターを使うところなのだがこれだけ近いとどうやっても少女と一緒に乗り込むことになる。


 さすがにそれは間が抜けていると思った冴香は、思い切ってエレベーターの横に設けられている非常階段を登りはじめた。


 地下空間自体は樹木で作られた巨大な空間になっているが、そこへと辿り着く垂直のシャフト自体は人工物なので非常階段内は一般的なビルのようになっていた。


 かなりの深さがあるので、ここを歩いて登るのは気が遠くなるが、今は背後から追いかけてくる不可解な少女から逃げることしか考えていなかったのだ。


 しかし、部屋の中で本でも読んでいた方が似合いそうな、一見大人しそうな少女はどこまでも冴香を追いかけてきた。


 既に訓練で疲れていた体にむち打って階段をひたすら登り、地上階に出た後は走って建物の外に出てすぐ目の前にある山の中に踏み込んだ。


 訓練施設周辺の山もミドガルズオルムの私有地で、冴香達訓練生は敷地内であれば自由に動くことを許されていた。


 天然のアスレチックとして、体造りの一環に役立つと考えたのかむしろ山歩きは推奨されていたほどである。


 もちろん、敷地外に出れば厳罰が待っているのだが。


 いずれにしても冴香は、どうして彼女が追いかけてくるのか、同時に自分がどうしてそこまで逃げたがるのかわからずに、混乱してでたらめに走った。


 木の根をまたぎ、藪をくぐり、倒木を飛び越える。


 追跡者を振り切れるようにあえて斜面や深い藪の中を選んで突き進む。


 昼間でも深い山の中は薄暗く、慣れている冴香であっても何度もつまずき転んだ。泥だらけになりながらも、大きな岩の影に隠れて息を潜める。


 名前も知らない少女の姿はない。


 さすがにまけただろうと思うと同時に、でたらめに追いかけてきて、山の中で迷子になったりしないだろうかと心配もしていた。


(どうしよう……。迷子になってないか見に行った方がいいのかな?)


 そんな子どもらしい心配りを台無しにするように、


「ここにいたんですね!」


 と声を弾ませた少女が現れたのだ。


「なんで私のあとをついてくるの!?」


 少女が迷子にならずによかったと思う反面、心配が無駄になったことで癇癪を起こして言葉がつい強くなる。


 それでも少女は笑みを崩さず、


「えっと、鬼ごっこじゃなかったんですか?」


 とようやく自分が勘違いをしていたことに気づいたらしく、恥ずかしそうにしていた。


 なんという世間知らずな女の子だろうと冴香は子どもながらに呆気にとられた。


 また逃げようかとも思ったのだが、追いかけてきた少女は真っ白な服を泥だらけにして、冴香と一緒の汗みずくになって、途中で転んだのか手や膝も泥だらけで、それでも面白そうに笑っている。


 その姿を見て、冴香も思わず笑ってしまっていた。


 笑ったのは、おそらくこの施設に来てから初めてのことだっただろう。


 ずっと何かに追い詰められていた。


 研究職に適正があった姉と引き離されたことは、頭では理解できていたが、それでも捨てられたような不安が常につきまとっていた。


 周囲の大人は厳しく、冴香が失敗をする度に失望の表情を浮かべる。


 失望できる回数は有限で、いつか終わりの日が訪れることを、幼いながら肌で感じ取っていつも怯えていた。


 きっともっと幼い頃には笑うこともあったのだろうが、冴香の記憶に在る中で、一番初めて笑ったのがこの時だったのである。


 いや、笑ったといっても、本当に上手く笑えていたかどうかはわからない。


 ただ冴香としては、笑ったつもりだった。


 きっと不格好が笑顔だっただろうが、気持ちだけは伝わったのか、女の子はパッと表情を明るくする。


「わたくし、みこがみみずき、です。お友達になりませんか?」


 どうして自分が逃げたのか、そのときの冴香にはわからなかった。


 ただ、水姫みずきが、ただの上品なお嬢様ではなく自分のきれいな服が汚れるのも構わないような行動力を持っていたのが単純に意外だったのだろう。


 予想通り、水姫は訓練施設に仲間入りすることになった。


 きっかけは妙な追いかけっこだったが、少しずつ二人は仲良くなり、冴香は笑うということを思い出すようになった。


 余裕が出てきたおかげなのか訓練の結果も上向き、絶望と不安に押しつぶされそうになっていた冴香は文字通り水姫の無邪気な友情によって救われたのだと思っていた。


 冴香は、密かに水姫のことを恩人だと思っていた。


 数年後、また別の理由で引き離されるまで、二人の交友は続いた。


 思えばこれまで生きてきた中で、一番心が安らいだ日々だったように思う。


 他の世界を犠牲にした以上、犠牲を無駄にしないために他の何を差し置いても世界の安定のために尽くすと決めていた。


 当然、差し置くべきものの中には水姫との思い出も入っている。


 このまま身を低くし、気配を消したまま体育館に赴き、そして速やかにレヴェナントである梓川涼音あずさがわ すずねを始末する。


 それが冴香の役割だ。


 わかっている。


 これは身勝手で、最低の裏切りで――それでも、あの日の向日葵のように明るい笑顔を苦痛で歪めながらも戦おうとする姿を見たならば、立ち上がらずにはいられなかったのだ。

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