第44話 別離


 涼音すずねを巡る騒動の主立った面々が立ち去った倉庫は、ついさっきまで界李かいりがまき散らした爆炎の余熱が嘘のように冷え冷えとしていた。


 涼音がどういう存在なのか、何故つけ狙われるのか、それらが明らかになった。


 相対するミドガルズオルムの人間も、非道なわけではなく彼らは彼らなりの事情を背負って戦っているのだという。


 すばるが涼音を助けるということは、彼らの望みの全てを否定し、何よりこの世界で生きていた梓川涼音の人生を横取りすることに他ならない。


 自分の望みは、もはやエゴである。


 それをどこまで押し通すのか。


 誰かに意見を聞いたなら、おそらく全員がこの世界の安定を願うだろう。誰も昴が生まれた世界の涼音のことなど知らないからだ。


 この世界で今、幼馴染みの涼音の味方をしてやれるのは昴しかいない。


 選ぶのは、昴しかいない。


 世界の全てを敵に回しても涼音を救うのか、それともそうしないのか……。


 どちらにせよ、昴が何かの決断を下さなければ涼音は人知れず、葬り去られてしまうのだ。


 昴自身にもまだ自分がどうするべきかわからない。


 ただ界李や鬼火斗きびとの言動を思い起こせば、彼らの手に涼音を委ねたままにしておくことだけはできなかった。


 そんな昴の前に、巫女服を着崩した妖艶な美女――御子神幽月みこがみ ゆづきが歩み寄ってくる。


 敵意は感じない。


 さりとて友好的なわけでもありはしない。


 以前からそうだったが、幽月は無表情というわけではないのだが、そこから感情を読み取るのがとても難しい。


 鬼火斗などとは違うのだから、いきなり襲われることはないと思うのだが、それでも一応は手の中の〈聖なる泉ミーミル〉に意識を向けながら、幽月の行動を見守った。


「行くのかね?」


 立ち話をするのにちょうどいいぐらいの距離まで近づいてきた幽月は、単刀直入にそう切り出した。


 少しだけ考えたあと、昴は短く「はい」と答える。


 幽月は肯定も否定もせず、次に水姫みずきの方を見た。


「お母様……」


 だが水姫は、母親が何かを言うより先に口を開く。


「長い間、お世話になりました。わたくしは、育てていただいた恩を仇で返すことになってしまいました」


 そう言いながら、体の前で手を重ねて、廃屋同然の倉庫には似つかわしくないほど優美な仕草で一礼をする。


「そうか。……一応、忠告しておくが、これ以上力を振るえば、お前の体は崩れ落ちることになる。それはわかっているな?」


 水姫は無言で頷く。


 昴はさすがに黙ってはいられなかった。


「一緒に来るつもり、なのか?」


 もちろん邪魔にしたわけではない。


 先程の様子を見ればこれ以上は命に関わる事態に陥ることぐらいは素人の昴でもわかる。


 昴を庇ったことで組織内で罰を受ける可能性はあるかもしれないが、これ以上、危険な場所に飛び込むぐらいなら幽月と一緒に安全なマンションに引き返した方がいいかもしれないと、そう思うのは当然だった。


「もちろんです。足手まといになるようでしたらお捨ておき下さい。わたくしは少しでも昴様のお役に立てればそれで満足ですから」


 どうにか、水姫の気持ちを踏みにじらずに、この場に留まってもらう方法はないかと頭を巡らせる。


 そんな昴の目の前で、お気に入りの忍者装束の埃を払い終えたアンジェリカが目を輝かせ、


「では、参りましょう、お館様!」


 と切り出した。


「この先、どのような敵が立ちはだかろうとも、拙者がお館様の道を切り開くでござる、にんにん!」


 と、どこに根拠があるかわからない、謎の自信に満ちあふれた態度で宣言する。その頬は鬼火斗から引っぱたかれたせいで少し腫れていた。


 今はアドレナリンの影響で痛みを自覚できていないのかもしれないが、おそらくひと晩眠ったらものすごく痛むやつである。


 そもそも、九歳の女の子が起きていていい時間でもないだろう。


「いや、さすがにもう――」


「まあ、それは心強いですね」


 どういうつもりなのか、水姫はたおやかな笑みを浮かべていた。


「水姫も、あんなに辛そうにしてたんだから、どこか痛むんじゃないの?」


 昴が問うと「ご心配をおかけしました」と水姫は頷く。


「……さっきみたいな無理はもうしないと約束できる?」


 ミドガルズオルムや〈ワールドエンド〉に関して知らないことは山ほどある。


 もしわからないことにぶつかったとき、それを教えてもらえるだけで充分助かるのだ。


 逆に言うと、彼女のことを思うなら、本当は水姫の同行を断るべきだとわかっていてもそれができないのは、自分一人ではただ喚いて暴れることしかできないだろうとわかっているからだった。


「はい、お約束いたします」


 水姫は爽やかな笑顔であっさりと言い切った。


 しかし今一つ安心できない。もし昴に危険が及んだら、また無茶をするつもりなのではないだろうか。


 ただ、ここで水姫を問いただしている時間はなかった。


「止めないんですか?」


 最後に、幽月に聞く。


 止められれば困るのだが、どうしても聞かずにはいられなかったのだ。


 この世界に来てから、親切にされたことを思い出す。


 最初から底が知れない人だと思っていた。


 だがそれでも、昴が涼音や咲良さくらのためにテーマパークのチケットを頼んだときにはこちらが驚くほど喜んでいた。


 昴に頼られたのが嬉しいと言っていた。


 むしろ昴の方が呆気にとられたほどである。


 あの笑顔に嘘はないと今でも思っている。


 他にも、色々気遣ってもらった。きっと昴が気づいていない部分にはまだまだ幽月の気配りがあったのだろう。


 だから対立することになった今も、昴は幽月を悪く思ってはいなかった。


 止めて欲しいわけではない。


 けれど、彼女の言葉を聞かない内にはこの場を立ち去りがたかったのだ。


 許してもらえると思ったわけではないけれど……。


「朽木君。不幸にして対立することになってしまったが、君がどのような選択をするにせよ、終わったらまた戻ってきてくれると嬉しい」


「僕は、散々あなた方の邪魔をしたのに……?」


 最初は涼音に対する扱いに憤慨した。今でも納得することはできないが、それでも彼らがどうしてそう振る舞わざるを得なかったかは理解できる。


 彼らの立場に立てば、昴はこの世界を維持するために必要不可欠な特異点でありながら、この世界を崩壊させようとする存在すずねを執拗に庇い続ける厄介な存在。


 涼音のことは諦められないし、諦めないが、彼らの気持ちになれば疎まれ憎まれても仕方ないと思っていた。


「それは、僕が稀人だから、閉じ込めて二度と自由にさせないって意味ですか?」


 自分でもあまり信じていない、捻くれた推論を口にする。


 思った通り、幽月は苦笑した。


「そんなつもりはないさ。これまでと変わらず、君を歓待させてもらうよ」


「怒らないんですか?」


「もちろんだとも。立場上、君を応援はできないが、……全力を尽くしたまえ」


「え………?」


 予想外の声をかけられ、昴は言葉に詰まる。


「さ、昴様。参りましょう」


「あ、ちょっと……」


 迷いを断ち切りがたい昴に助け船を出すように、目が見えないはずの水姫が手を引いて歩きはじめた。

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