第26話 頭、撫でてください


 テーマパークでの午後の予定が決まったことでご機嫌だった咲良さくらは、しかし勢いよく立ち上がると同時に悲鳴を上げた。


 すばるは弾かれたように振り向く。


 視線の先では、咲良の細くて白い脚が根元まであらわになってしまっていた。


 見れば、ベンチの隙間に咲良のスカートが引っかかっていた。それに気づかず勢いよく立ち上がった彼女のスカートがすとんと落ちてしまったのだ。


 幸いにして、上は裾がだぼっと長いTシャツを着ていたので下着までは見えない。


 昴は慌てて目を逸らすのが精一杯。対して涼音すずねは素早く動き、咲良の腰に抱きつくようにして危ない部分を覆い隠してくれた。


 メインの通りからは離れているので人通りは少なく、今の咲良のハプニングに気づいた人はいなかったようだ。


 そもそも、来園者はそれぞれ楽しんでいて、あちらこちらで子どもの甲高い叫声が上がっているので、多少毛色が違っていても咲良の悲鳴ぐらいは埋もれてしまったのだろう。


「怪我、しなかった?」


 驚きから立ち直った昴が最初に心配したのは咲良が怪我をしたのではないかということだったのだが、そそくさとスカートを直した咲良は真っ赤になって顔を上げた。


「み、見た!? お兄ちゃん、今の見た!?」


 羞恥心と怒りが一緒くたになった真っ赤な顔で、咲良は昴を問い詰めてくる。


「え? あ、いや、僕はなにも。ほら、ジュース飲んでたから、手元見てたら悲鳴が聞こえて、顔を上げたらほら、えっと、梓川が隠してた、よな?」


 昴がしどろもどろになりながら助けを求めると、涼音は苦笑しながら、そうそう、と頷いてくれた。


「ほ、本当に? 本当に本当の本当?」


 半信半疑の様子で咲良は確認する。


 妹のパンツを見たところでどうということはないはずだが、こちらの世界では厳密には妹ではないので複雑である。


「見てない見てない。とにかく、怪我はないんだね?」


 昴が重ねて問うと、ようやく咲良は「うん」と頷いた。


 スカートを直し終えた咲良は「もう、やだ」と頬を膨らませてベンチから離れる。


 昴は入れ替わりに咲良が座っていた部分を覗き込む。


 本来はベンチの木材を束ねるための金具が、裏の部分でめくれ上がっていた。その突起に咲良のスカートが引っかかったようだ。


「ん? ここのベンチ、取り替えたんじゃなかったのか?」


 ベンチの裏でめくれ上がっていた金具は鋭く、ヘタをすれば怪我をしただろう。


 昴と涼音の家族が遊びに来たときも、涼音がはしゃいで同じように金具に引っかかってふくらはぎを切ってしまったのだ。


 施設側は丁寧に謝ってくれて、すぐにベンチは取り替えると言っていたのだが――と、そこまで考えたところで、それが向こうの世界の出来事だったことを思い出す。


 おそらく、昴がいないこちらの世界では涼音が怪我をした事件が発生していない。


 それ故に、運営会社がベンチを取り替えないまま時間が過ぎていた――のかもしれない。


 となると、あまり余計なことを言わない方がいいだろうと思い直し、昴は「あとでスタッフの人に教えてあげないとな」などと適当に誤魔化して立ち上がる。


 すると、涼音と目が合った。


 彼女は、何故か心ここにあらずといった様子でじっと昴を見ているのだ。


「ど、どうしたの?」


 昴が聞くと、涼音は「ううん」と首を横に振る。別のことを考えていて、偶然目が合っただけだろうか。


 だとすれば自意識過剰もいいところだと少し恥ずかしくなった。


「私、ちょっとお手洗いに行きたいから、ついでにスタッフの人に伝えておくわね」


「あ、頼める?」


 ただそうなると、まだ恥ずかしそうに押し黙っている咲良のケアをするのは昴の役目になってしまうのだが……。


 涼音が立ち去って気まずい沈黙が流れていると、


「……せっかく朽木先輩が連れてきてくれたのに、こんな馬鹿みたいな失敗して」


 いつものごっこ遊びもなりを潜めてシュンとしてしまっている。


 そこまで思いつめなくてもいいと思うのだが、やはり多感な女の子として、あの手の失敗は気まずくなるぐらい恥ずかしいのだろうか。


 どんな言葉をかけるのが正解なのかわからなかったが、


「僕はお兄ちゃんなんだから、そんなことぐらいで気を悪くしたりしないだろ?」


 そう言って、つい咲良の頭をぽんぽんと、本当の妹にするように撫でてやると、彼女は真っ赤になりながら満面の笑みを浮かべてくれた。


「うん! ……でも不思議。朽木先輩、本当に私のお兄ちゃんみたい」


「え? そ、そうかな?」


「だって、別に苗字が同じだからって誰でもお兄ちゃんなんて言わないですよ。朽木先輩はなんでかそう呼ぶのが正しいような気がして……」


 確かにいきなり「お兄ちゃん」と呼ばれるのは驚きもした。


 向こうの世界で本当に兄妹だったから昴にはあまり違和感はなかったが、普通に考えれば、おかしな話である。


「あ、変な女の子だって思ったんじゃないですか!?」


「そ、そんなことはないって」


 別の世界で兄妹だったことが、何か関係しているのだろうか。


 昴にはわからないが、懐かしい気持ちがこみ上げてくるのをどうにか顔に出さないように努力していた。


「でも自分でも不思議なんです。頭を撫でられたら嬉しいっていうか、落ち着くっていうか……。あ、もっと撫でてください!」


「さすがに恥ずかしい」


「え~、いいじゃないですか、お兄ちゃん!」


 どこまで本気なのかわからないが、完全に翻弄されてしまっていた。


 たったそれだけのやり取りで、戻ってきた涼音が「どうしたの?」というぐらい咲良の機嫌は直った。


 その後、三人は残り全部のアトラクションを制覇し、帰宅することとなったのである。


               ◆◆◆


 テーマパーク巡りは、とりあえず大成功だった。


 二人も喜んでくれたようだったが、昴も久しぶりに難しいことは考えずに頭の中を空っぽにできた気がした。


 電車を乗り継いで自分の街に戻った頃には西の空はすっかり茜色に染まっていた。


 先に咲良を送り届けることにした三人は朽木家へと向かう。


 つい数日前まで寝起きしていたはずの自分の家は、もう昴を迎え入れてくれる場所ではなくなった。


 その事実には苦い気持ちが込み上げるが、咲良が「また明日!」と元気よく手を振って見送ってくれるのを見ると、苦笑しながら手を振り返して踵を返した。


「じゃあ、次は私の家ね」


 と言っても、歩いて数分程度の距離しかない。


 そんな疑問に感じたのが顔に出てしまったのか、涼音は頬を膨らませて拗ねる。


「やっぱり、可愛い後輩じゃないと優しくしてもらえないのかしら? 私も呼び方変えようかな。昴お兄ちゃん!」


 あれれぇ、と笑いながらだったが拗ねたような物言いをする涼音は、やはり反則的に魅力的だった。


「勘弁してよ。というか、咲良ちゃんにも、ちゃんと注意するように言っておかないと、万が一学校でアレが出たらどんな騒ぎになるか分かったもんじゃない」


 冴香曰く、「転校生の朽木が、同じ苗字なのをいいことに、後輩美少女(他人)にお兄ちゃんと呼ばせている」という噂が立っているらしい。


 今はまだ噂の域を出ていないから実害はないが、もし万が一、学校内で咲良の「お兄ちゃん」が炸裂してしまった暁には、昴の学校生活は――。


 想像しただけで、ぶわわ、と冷や汗が出てきてしまった。


 万難を排して、そんな事態に陥ることだけは防がなければならない。


「あははは、咲良って可愛いから人気もあるしね。大変だね、お・に・い・ちゃ・ん」


 一頻り笑った後、「さ、私の家までエスコートお願いね」と涼音は先に立って歩き出す。


 距離が離れるのを見計らっていたのか、それまで大人しくしていたアンジェリカが耳元で囁く。


『お、お館様、大変恐縮なのですが、あの女性にょしょうの家に接近するという状況になるのでしょうか?』


「えっと、まあ、そうかな」


 異様に警戒している様子を訝しみながら答えると、アンジェリカが息を飲んだ気配がした。


『護衛として大変、大変、お恥ずかしながら……』


 声からは必死さがにじみ出ている。


 何事かと昴自身も身構えかけたが、先日の出来事を思い出した。


「あ、キンタロウ? 犬が怖いから近づきたくないとか?」


 昴が指摘するとどうやら図星だったようで、姿は見えないままだが、ずざざ、と飛び退って土下座をするような気配があった。


『拙者、犬だけは苦手でござりまする! あやつらは、〈精霊器〉リゾルバーを使っていても匂いで拙者を探し当て、ベロベロと舐めまくる悪魔の獣! 拙者は、拙者は……』


 気配だけだが、任務に対する責任感と犬への嫌悪感で板挟みになって泣きそうな声になっていた。


「……まぁ、ここなら繁華街と違って大丈夫だろう。住宅街から大通りに出るあたりで待っていてくれよ」


『よ、よろしいのでござりますか!?』


「苦手なものは誰にでもあるし、気にしないでいいよ」


 昴が気楽に答えると、どこかで鼻をかむ音がした。


 ティッシュペーパーでも使っているようだが何も見えない。アンジェリカの〈精霊器〉は手に持った物体まで透明化するらしい。


 どうでもいいことに感心しながら、昴はアンジェリカと別れて涼音の後を追いかける。

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