第18話 一夜明け
あまりに唐突な展開で、
朝食を食べる元気はなかった。
冷蔵庫に小さいパックの野菜ジュースが一つあったので、それだけを持って家を出ることにする。
時間は、遅刻するほどではないが、あまり余裕たっぷりというわけでもない。
「昴様、行ってらっしゃいませ」
見送って欲しいと欲しいと言ったわけではないのだが、水姫はわざわざ起き出してきてくれた。
少なくともリビングで喋っていた時間までは起きていたのだから、昴と同じく寝不足には違いないのだが、すっかり身支度を終えている。
昴なら、学校に行かなければならないという事情でもなければ、きっと昼間で眠り惚けていただろう。
そんな自分と比べると、水姫は偉いなと変な感心をしてしまっていた。
「……えっと、昼の間、一人で大丈夫そう?」
「はい、わたくしのことでしたらご心配なく。何かあったら誰かが来てくれる手はずになっておりますので」
「じゃあ、行ってくる」
もう少し、今後の生活について細かい話し合いをしたいところだが、登校時間が迫っているので帰るまではお預けだ。
とりあえず、なるようになるしかないと開き直る。
誰かに見送られて出かけるなど、二年ぶりのことになる。少しばかり、くすぐったかった。
昴は部屋の外へと出ると、そこには昨日と同じく、
「おはようございます、お館様!」
と、もう見慣れてしまった感がある忍者姿のアンジェリカが跪いていた。
「あ~、おはよう」
昴はまるで力が入らない声で辛うじてそう返すと、手にした野菜ジュースのパックにストローを突き刺して、チュウチュウと吸いながら歩き出す。
「お館様、寝不足でいらっしゃいますか?」
「あ~、さすがにな~、昨日はな~、一睡もできなかった……」
寝ようと思ったが、水姫が一つ屋根の下で眠っていると思うと、十代の健全な少年としては心中穏やかではなかったのだ。
「なるほど! 夕べはオタノシミだったのですねっ!」
「ぶっ――!?」
底抜けに無邪気な声でそう断言されて、昴は思い切りジュースを吹き出していた。
「い、いかがなさいました!?」
「お、おおお、お前っ! 意味がわかって言ってるのか!」
「い、意味? 意味でござるか? 意味ならむろん、存じ上げているでござるよ、にんにん!」
信じられない発言に、昴は目を丸くした。
「トランプでござるか? それともオセロ? はたまたモノポリーでござるか? 拙者ももう少し早い時間なら仲間に入れて欲しかったでござる!」
完全な早とちりである。
寝不足のせいで元から底に近かった気力が、さらに削られていった。
「はぁ……。そりゃそうだよな……」
鞄からポケットティッシュを取り出して、カーペットにこぼれたジュースを拭おうと試みる。
毛足が長い、おそらくは高価な品なのが災いして、完全に吸収してしまっていた。
「あ~、もう、クリーニングしてもらわないとダメじゃないか、これ……?」
無駄だと思いながらもティッシュでカーペットをこすりっていると、まだ〈精霊器〉で透明化していないアンジェリカは首を傾げた。
「お、お館様がそのようなことをされずともよいのですぞ!」
「いや、まあ、僕がこぼしたわけだし……」
中世の貴族ではないのだから、自分の不始末ぐらい自分でどうにかしたい。
一連の出来事が自分のせいだと思ったのか、アンジェリカは次第に申し訳なさそうな表情になっていった。
「拙者、変なことを申し上げたのでしょうか? 実は、拙者も今一つよくわかっておらず、ただ
色々とつながった。
あのヘラヘラと軽薄に笑う清十郎のイタズラだったということだ。
「よし! あの人に弁償させよう」
そうと決まれば無駄な努力はとっとと放棄するに限る。
昴は即決して立ち上がると、アンジェリカを伴って再び歩き出した。
「しかしお館様、めでたいことでございます! にんにん」
「……………ん?」
たっぷり数秒考え込んで、昴は首を傾げる。
アンジェリカが何を言っているのかまるで理解できない。寝不足のせいもあって、頭が働かない。
「めでたいって、何が?」
このまま一人で考えていても答えが出そうにないので仕方なく聞き返すと、今度はアンジェリカは不思議そうな顔をした。
「何が、と仰いましても……。お館様の部屋に、昨夜から水姫殿が同居されたのでござりましょう?」
「うん。……え? めでたい、のかそれ」
「当然でございます! お館様のご成婚、これ以上にめでたいことがありましょうか! にんにん!」
「ちょっと待って、待ちましょう! 僕とあの子が結婚? 誰がそんなことを言ったのさ」
またぞろ清十郎か、悪ノリが過ぎる
しかしアンジェリカはこともなげに、
「男女七歳にして席を同じゅうせず、と申しますからな! お館様と水姫殿のご年齢であれば結婚されるが必定でござるよ、にんにん!」
「ぶっ飛びすぎだろ! というか、一七歳で結婚するのはいいのかよ!」
「忍びの世界では一五で元服、つまり成人を迎えます故、結婚するぐらい当たり前でござる」
「待て待て待て! えっとだな、僕とあの子は別に結婚するわけじゃなくて、昨日もだな――そう、昨日はモノポリーの練習をしてたんだ!」
「そうなのでござるか?」
純朴な子どもを騙すようで気が引けるが、さすがに結婚するとかしないとか、誤解もいいところなのでそれだけは否定しておかないとまずい。
「そう、モノポリーは奥が深いだろ? ほら、部活とかでもさ、みんなで合宿をしたりするだろ? あれと同じなんだよ!」
「なるほど! お館様は熱心でござるな! これは拙者の早とちり。失礼つかまつったでござる、にんにん」
「い、いや、わかってくれたら、いいんだヨ」
良心が痛む。
そもそも、昴が水姫に対して抱いている感情は、恋愛感情ではないと思う。
たぶん水姫もそうだろう。
昨日の水姫の言葉には救われた思いがしたし、気持ちが軽くもなった。その感謝はあるが、それとこれとは違うはずだ。
二人の間にあるのは男女の感情ではなく、もっと家族のような感情なのではないだろうかと、そう思っていた。
ただ、とはいえ水姫は女の子であるのは確かなので、このまま二人きりで生活を続けるのは難しいのも事実なのだが……。
そこでふと、昴は天啓のように全ての問題が解決する提案を思いついたのである。
「そうだ! アンジェリカも僕の部屋に越してこよう!」
「せ、拙者もお館様の本宅に住まわせていただけるのでござるか!?」
あれだけ昴を「主人」として慕ってくれているのだから、色よい反応を見せてくれるのではと期待したが、思った通り目を輝かせて提案に食いついてきている。
「あ、でも、アンジェリカはあのマンションに家族で住んでいるのか?」
それだと家族と引き離すことになるので申し訳ない。
そもそも彼女の両親が何をしている人間かも知らない。ミドガルズオルムの組織内で働いたりしているのだろうか。
「いいえ、でござる。拙者、家族はイギリスに残ったままで単身渡来してきたでござる。今は同じ護衛班の女性とルームシェアしてるでござるよ、にんにん」
あっけらかんと言い放つ。
九歳の女の子が家族から離れ、異国の地で暮らしをしているという状況は、かなり異質だ。
逞しいのか、それとも面倒を見ている人がよほど親切なのか、アンジェリカが無理をしている様子はない。
だが、もし共同生活が実現するならそのあたりの事情も折を見て幽月に聞いておいた方がいいだろう。
そんなことを考えながら、昴は改めて学校に向かって歩きはじめる。
◆◆◆
転校生活二日目は、特に問題なく進んでいた。
昴としては身の置き所がなく落ち着かないのだが、その不自然さは単なる転校直後の不安定な様子と映ったようで、周囲の人間から不審に見られた様子はなかった。
それがいいことなのか悪いことなのかわからないままだったが、レヴェナントといい、ミドガルズオルムと言い、何より水姫やアンジェリカとの同居と言い、昴の許容量を超える難題が次々と降りかかってくる。
(さすがに、もう限界だ………)
午前中の授業では、どうにか居眠りせずに乗り切ったが、昼休みは食事をせずに昼寝でもしていたい気分である。
「
教室から出ようとした昴に声をかけてきたのは
「特に、どうするかは考えてなかったけど」
と答えた。
「じゃあ、よかったら私達と一緒に食べない?」
「私、達……?」
前の世界で、昴は悪い意味で浮いた存在だったし、そんな自分と一緒にいると涼音に迷惑をかけると思っていた。
だから距離を置いていたのだが、そういえば学校での涼音の交友関係についてはあまり詳しくなかったのを思い出す。
「女の子ばかりのところに一人で加わるのはちょっと……。声をかけてくれたのは、嬉しいけど」
昴が素直な感想を口にすると、涼音は言葉が足りなかったことに気づいて「違うの」と弁解する。
「私、生徒会に入っていて、最近そっちの人達と一緒にお昼をすることが多いの。といっても、生徒会委員じゃないとダメとかそういう堅苦しい感じじゃなくて、みんな適当に友達を誘って集まる感じ。で、もちろん男子もいるからどうかなって思って」
そう説明してから、昴の狼狽えぶりが面白かったのか「さすがに女の子ばかりのところに誘うわけないじゃない」とおかしそうに笑っていた。
確かに涼音は一年生の頃から生徒会に入っていたのは覚えていたが、そんな風に生徒会の人間同士で昼を食べているとは思わなかった。
向こうにいた頃の昴はといえば、学校ではできるだけ雑音をシャットアウトするように心がけていたし、涼音も余計なことは一切話さなかったからだ。
「ね、ダメかな?」
昴が迷っていると思ったのか、涼音が顔を覗き込むようにして聞いてくる。
「ダメ、じゃないけど……」
昔から、昴に何かをねだるとき涼音は決まって昴の顔を覗き込むようにしてそう聞いてきたのだ。
懐かしさや気恥ずかしさと、ほんの少しだけ喪失の痛みが蘇って、昴は断れなくなってしまっていた。
アンジェリカは、昨日と同じく屋上で待機していて、今日は行きがけにコンビニで昼食を買って持たせてあるから昴が行ってやらなくても問題はないだろう。
「ほんと? よかった! じゃあ席が埋まる前に急いで行こう!」
言うが早いか、涼音は昴の肩に手を置いて、背中から押すようにして急がせる。
比較的誰とでもすぐに親しくなれる性格の涼音だが、さすがに大胆すぎて、教室に残っていた他の生徒達も「ぽかん」とした表情でこちらを見守っていた。
「ちょ、梓川、強引すぎるって」
さっさとクラスメイト達の視界から消えた方がいいと判断して、学食に続く階段まで来たところで昴は涼音から離れて窘める。
「……え? あ、そうか、そうだよね」
昴が指摘して、ようやく涼音もやりすぎに気づいたのか、自分でも自分の行動に驚いたような表情になってしまっていた。
「ごめん、気を悪くした? なんか、朽木君って、親しみやすいっていうか……。つい、親しくしちゃうって言うか。そういうこと、言われない?」
「むしろ、取っつきにくいって言われることの方が多いよ。別に、気を悪くしたわけじゃないけど」
昔から、どちらかと言えば引っ込み思案の昴と、朗らかな涼音は、一緒にいるといいコンビだなどと言われたこともあった。
昔の気分を思い出して苦笑しかける自分を戒める。
目の前の涼音は、昴の知っている涼音と瓜二つだが、違う人間なのだ。混同するのはよくない。
「びっくりさせてごめんね。これからは気をつけます。とにかく、今は食堂に急ぎましょ」
昴は促されるまま涼音と連れ立って食堂に向かうのだった。
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