第17話 抱擁
ミドガルズオルムの所有物だというロイヤルタワー
さっき聞いたばかりの話では、
神聖な拠点を守るための砦であり、ミドガルズオルムの拠点である。
カムフラージュのため下から半分ほどの階には無関係な住人を入居させているが、上半分は組織の関係者しか使っていないそうだ。
だからなのか、それとも高級マンションだから防音は完璧なのか、静まりかえった4801号室のリビングのソファで昴は体を強張らせて座っていた。
解散後、あれこれあって結局、もう午前二時になってしまっている。
「……あの、朽木様」
そう言いながら、バスルームの方へ続く廊下から顔を見せたのは、さすがに少し心細そうにしている水姫であった。
濡れた髪をバスタオルで押さえながら、視線を左右に彷徨わせる。
「あ、うん、ここにいるよ」
相手の目が不自由だったことを思い出して、昴は慌てて声を出した。
「申し訳ありません。お待たせしてしまって」
その場で立ち止まって深々と頭を下げた。
スエットの上下というゆったりした格好で特に肌が露わになっているわけではないが、同年代の女子の部屋着(風呂上り)姿など見慣れていない昴は目のやり場に困る。
同居させる宣言だけでもいい加減持て余していた。
その上、てっきり日を置いて荷物などを運び入れるものだと思っていたのだが、相変わらず唐突な幽月はその日の内に布団と最低限の身の回り品だけを持たせて水姫を昴の部屋に送り込んできたのだ。
元々家族用の部屋なので、場所なら充分有り余っている。
そこに後日、水姫の私物を運び入れる予定になっていた。
レヴェナントとの遭遇で埃っぽくなっていた昴が先に入浴し、その次に水姫が風呂を使って今に至る。
「別に待つぐらい構わないよ。さすがに放っておくのは危ないと思うし」
昴が言うと、水姫は小さく笑みを漏らした。
「いえ、家の間取りは下の部屋とまったく同じですので、小物でも散らかっていない限り不自由はありません」
「それも、事前に練習したからってこと?」
「はい、光を失うことはわかっておりましたので」
そうでないことを願っていたのだが、水姫の目はもう治らないらしい。
「……って、ああ、ごめん座って」
立たせっぱなしにしていたのに気づいて、昴は慌てて水姫をソファへと座らせた。
「はい、ありがとうございます……あの」
「え? な、なに?」
水姫をソファへ案内した昴はそのまま自分が座っていた席に戻ろうとしたのだが、何故か彼女がその袖を引いて引き留めたのだ。
「母が、突然変なことを言い出して、すみません」
本当に母娘なのだろうかというほど水姫は恐縮して謝罪してくる。
「いや、君が謝ることじゃないし。……というか、そもそもこういう話は、女の子の方が嫌がるものじゃないの?」
あの場で水姫が嫌がってくれたら、真面目そうな冴香ぐらいは味方をしてくれたのではないかと思う。
「それを含めて、申し訳ありません。実はこのこと自体は、わたくしから母に提案したのです」
「えっ!?」
意外な告白に、昴は真意を測りかねて思わず聞き返していた。
「その、同じ同居を申し出るにしても、タイミングや言い方があるかと……。あれほど急なお話では朽木様も混乱されるでしょうし」
タイミングの問題じゃないと思うのだけれど、と思ったが、まだ水姫が何か言いたそうにしていたので黙っていた。
「わたくし、色々朽木様に謝りたいことがあって……」
「昨日の話なら、もう夕方謝ってもらっただろ?」
考えてみれば、昴が目覚めてからまだ二日と経っていないことになる。
水姫の謝罪よりも、そのことの方が昴にはショックだった。
「いえ、あの、わたくし、口べたで、全然上手く気持ちが伝えられていなくて、朽木様にも最初誤解させてしまったようでしたので、昨日からずっと謝りたいと思っていたんです」
「伝わってないって、他に何があるの……?」
とりあえず、水姫が袖を離してくれないので、昴は仕方なく膝立ちになって話を聞く体勢を取った。
「わたくし、また怒られてしまうかもしれませんが、朽木様が特異点だとわかってから、ずっと朽木様のことを見ていました」
「え……? あの、風呂とか、トイレとか……」
観察されているとは思ってもいなかった昴は、他人には見られたくないあれこれを思い浮かべて血の気が引く思いをした。
「あ、あの! さすがに、プライベートなお時間はちゃんと外すようにしていましたので! あと、もちろんお着替えや、お手洗いの際なども、見ていませんっ!」
水姫が何を想像したのか真っ赤になって否定するが、昴としては盛大に胸を撫で下ろしたい気分である。
「……わたくしが見ていたのは、朽木様がどうお過ごしかで、あの、ずっと独りで同年代のご学友だろうと、大人だろうと、距離を取って暮らしておられて……」
昨日、水姫が踏み込んだ、昴にはあまり踏み込まれたくない領域の話だ。
ただ今は、目覚めたばかりのときよりも少し落ち着いているので、さすがに怒らずに水姫の話を聞き続けた。
水姫は真剣その物の表情でまっすぐに昴の方を向いていた。
「朽木様は、お辛いことがあって、なのに周囲は心無いことを言う人がたくさんいて、普通ならもっと怒ったり、憎んだりしてもおかしくないはずなのに、あなたは誰かを攻撃するのではなく、自分が寂しい思いをしても誰も傷つけないように振る舞われているように見えました」
いつから、どんな風に見ていたのかはわからないが、水姫は必死に自分が感じた気持ちを伝えようとしていた。
言われてはじめて他にどんな方法があったのかを考えてみる。
たとえば教育委員会に訴えて、せめて事なかれ主義の教師だけでもどうにかしてもらうとか、思い切って転校するとか。
色々方法はあっただろうし、趣味ではないが、うまくクラスのカースト順位が高めの奴に取り入って、くだらないことを言ったりちょっかいをかけてくる奴を黙らせる方法もあるかもしれない。
だが結局、色々面倒になってしまったのだ。
「わたくしは、ただ見ているだけしかできなくて、とてももどかしくて……。でも朽木様はとてもお優しい方なのだと思いました」
「は………?」
思いがけない評価に、昴はポカンと口を開けてしまった。
「いや、単に面倒くさがりなだけだと思うけど……?」
妥当な感想を口にすると、水姫が即座に否定する。
「いいえ! 違います! だって、本当でしたら、もっと自分が快適に過ごす環境を守るために反撃することだってできたはずです。わたくし——は無理ですが……」
おっとりしている水姫にはさすがに反撃は無理だろう。
しかし、自説を曲げたくないためか、水姫は次に自分の母親を持ち出した。
「母なら……、そうです! 母なら心無い言動をした中から比較的有力な人間をピックアップして、使っても支障が無い範囲でお金を使って、たとえば探偵か何かを雇って——弱みを握りましょう!」
そのトンデモ発想は、さすがに昴の中にはなかった。
「その上で、朽木様に手を出したらヒドい目に遭う、ということを知らしめれば、きっと……」
と、そこで、昴が絶句している気配を察したのか、水姫は赤面して押し黙ってしまった。
やっぱり、母娘かもしれないと認識を改めながら昴は苦笑する。
「お、お笑いにならなくてもいいではありませんか!」
すると気配が伝わったのか水姫が頬を膨らませた。
「いや、まぁ、本当に面倒だっただけなんだよ」
「……でも、朽木様がじっと他人を遠ざけていらっしゃったのは、反撃することで誰かを傷つけたくなかったからではないのですか?」
「あんまり、自覚はない、かな……」
素直に言うと、水姫はふっと表情をやわらげて「だから、優しいのです」と言った。
自分が優しいかどうかはわからないが、過大な評価をされているようでむず痒くなる。
「買いかぶりだと思うけれど、それより、君が謝りたいコトっていうのは今の話とどういう関係があるのさ?」
改めて問うと、水姫は居住まいを正して頷いた。
「マナのこと、〈ワールド・エンド〉の仕組みのことを聞いて、辛そうにされていたように感じました……」
昴は返答に困る。
確かに、自分の世界が様々な現象を引き起こすエネルギーの状態にまで分解されて、周囲を漂っていると言われれば、色々と思うことはある。
ただそれは、マナが云々ではなく、〈ワールド・エンド〉にまつわる全てに、常に感じ続けていることだった。
無言を肯定と捉えたのか、水姫はそのまま話を続ける。
「わたくしは、この世界にとって必要なことだったと思っていますし、朽木様に生き続けていただくためにも必要だったとは思うのですが、ですがわたくしがこちらの世界に引き込んだことで、あなたはこれからも辛い思いをされてしまうのではないかと、そう思ったのです……」
昴は、しばらく考えて、少しだけ本音を漏らすことにした。
「辛い思いかどうかはわからないけれど、不安はあるかな。……まだ僕が知らないことがあるような気がする。僕は、知らない間に何かに利用されて、別の誰かが傷つくような——あ、いや、これはその、優しいとかじゃなくて、単に面倒なだけなんだけれど……」
昴が慌てて言葉を取り繕うと、今度は水姫が小さく笑った。
「——だから、優しいとか、そういうんじゃなくて、やっぱり不安は不安だな」
戦わなくていいと言われた。
しかし、とテーブルの上に置いた手帳の形をした
昴のものは特に〈
幽月達が色めきだっていた以上、よほどのアイテムなのだろう。
この世界にマナを引き寄せるアンカーだとも言っていた。
自分が思いも寄らぬところで誰かに利用されるような不安はつきまとうのだ。
と、そこで、水姫は昴の両手を自分の両手で包み込んだ。
「わたくしが、守ります」
その言葉の意味を図りかねる。
「わたくしとて、組織にとっては枝葉。知らないこともたくさんあります。……ですが、わたくしは、向こうの世界での朽木様のお姿を拝見して、この世界で幸せになって欲しいと思ったのです」
それは、昨日も言っていた言葉だった。
「ずっと朽木様の様子を見ていて、そう思いました。あなたは、幸せになってもいいと思うのです」
自分が幸せかどうかということについては、考えたこともなかった。
というよりも、全てを諦めていたと言った方がいいだろう。
いずれにしても、水姫からはよほど不幸せそうに見えていたらしい。
ただ彼女が、自分のことを熱心に見続けてくれたことだけは伝わってくる。
この二年間、ずっと人と関わらないように生きてきた昴にとっては、新鮮な言葉だったのだ。
「ですから、今後もし、誰かがあなたを害するなら、わたくしが守ります——」
彼女は目が不自由で、何かがあったときに、たとえば数時間前にレヴェナントと遭遇したときに冴香がしてくれたように、戦うことができるとは思えない。
だというのに、水姫の言葉はどこまでも真剣だった。
「わたくしには、わたくしにしかできないことがあります。どのような災厄からでも、全てをかければあなたをお守りできます。もしあなたが不幸になるのなら、わたくしは常にあなたの前に立って守ります」
それは、とても神聖な誓いのように感じられる。
だが同時に、とても不吉な宣言のようにも聞こえたのだ。
「……よくわからないけれど、気持ちはありがたく受け取っておく。無理はしてほしくないけど」
「はい! 無理はしません」
昴が「受け取っておく」と言っただけで、水姫は「やっとお伝えできました」と嬉しそうに微笑んだ。
きっと昨日も、本人が言う通りに口べたで、気持ちだけが先行していたせいですれ違ってしまったのだろうが、本当はずっと真剣に昴のことを考えてくれていたのだろう。
そう思うと、急に申し訳なくなってくる。
ただ、そういう理屈でいきなり「同居」という突拍子もない手段を思いつくあたり、やっぱり水姫は世間知らずなのだと改めて実感する。
もちろん、現実的に色々問題はあるだろうし、早めに対処するつもりだが、とにかく今晩ひと晩は、水姫の真摯な想いを裏切らないためにも、彼女を傷つけるような振る舞いをするまいと密かに誓った。
幸い部屋も別なのだから、理性を失わずにすむだろう。水姫の話を聞き終えたところで昴は立ち上がった。
「とにかく、今日はもう寝るよ。明日も学校はあるし」
「そ、そうでした! こちらこそ、長々とお引き留めをして申し訳ありませんでした……」
「いいよ。一々遠慮してたら大変だし……。あ、そうだ、遠慮で思い出したけど一つだけ。僕の呼び方。朽木様とか、そんな大袈裟な呼び方はやめて欲しい」
「大袈裟、でしたでしょうか……。でもそう仰るのでしたら……。では、昴様とお呼びしますね」
「え………?」
普通に、様付けをやめて欲しかっただけなのだが、まさか名字から下の名前にスライドするとは思っていなかった。
昴が戸惑っていると、その気配を察したのか水姫が表情を曇らせる。
「あの、また何か不手際がありましたでしょうか……?」
不安そうな声で問われると、今夜は何回も謝らせてしまっているので、昴としては「いや、全然大丈夫!」と答えるしかなかった。
(やっぱり変わっているというか、不器用というか……。ゆっくりと直してもらうようにしよう)
同年代の同居人(異性)に様付けで呼ばせているとか時代錯誤もいいところだが、焦って色々注文をつけると、水姫を恐縮させてしまいそうだ。
とりあえず、明日のことも考えて少しでも眠っておきたかった昴は、そのまま水姫を伴いリビングを後にする。
それぞれの部屋に別れて就寝となったのだが、当然のことながらというべきか、やはりその夜、昴は結局一睡もできなかったのだった。
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