第16話 冴香の目線
彼女は、闇の中を歩いていた。
ビル街の裏路地――表通りの明かりが差し込まない、都会の夜に偶然生じる死角である。
乾いたアスファルトの上は、所々どこかから吹き込んできた埃が積もっている。加えて淀んだ空気が漂う空間。
大人の男でも踏み入るのは気後れしそうな場所だが、まだ十代の少女であるにも関わらず、
特異点である
それに伴う予定外のミーティングと、
清十郎などは「俺、もう寝る」などと言って引き上げてしまったが、冴香は日課となっている夜の巡回へと出かけていたのだ。
レヴェナントは、発生からいくつかの段階を経て強力になっていく。
ミドガルズオルムではその段階をステージⅠからⅤで表現している。
面倒なのは、初期段階のステージⅠやⅡでは発見が難しいことだ。
ステージⅣというかなり発達した段階に入ることで、ようやく離れた場所からでもマナの乱れを〈精霊器〉で感知できるようになる。
離れた、といってもマンション内から街全体を監視できるほどではない。
おかげで、地道に街を歩いてレヴェナントが発生していないかどうかを確認して回らなければならなかった。
ここから朝方までいくつかの巡回ポイントを回ってからマンションに戻り、二時間ほど仮眠を取って登校するというのがいつもの流れだ。
幽月も言っていたが、今はマナの混乱期。
各地に存在する、ユグドラシルの根の近くでレヴェナントが発生する。
連鎖発生しない限り、原発体の発生はごく限られたエリアであるため、こうした少人数に頼るようなやり方がまかり通っているのだ。
多少寝不足にはなるが、一応清十郎と交代で休みの日を設けているので最低限度の体調管理はできていた。
コンディション的な不自由を感じることはある。
だがミドガルズオルムの、特に戦闘要員は常に不足しているので致し方ない。
それに、ずっと、この日に備えてきたのだ。
〈ワールド・エンド〉は、下手をすれば――あるいは上手くすれば、人が生まれてから死ぬまで一度も起こらないこともある。
数年前まではいつ起こるか、本当に起こるかすらわからなかった。
そんなあやふやな未来予想のために、生まれてからこれまでのかなりの時間を費やし訓練を積み重ね、黒瀬冴香という少女にとって大切なものを犠牲にしてきた。
だからこそ、冴香は己の使命を全うすることに全力を注いでいる。
(大丈夫。私はやれる……)
レヴェナントは、マナが暴走した状態にあるため異常なまでに破壊力が強化されている。
それはもはや宿主の肉体を破壊するほどで、生身の冴香が油断してまともに攻撃を食らったらたちまち行動不能になってもおかしくなかった。
死の一撃が、いつ闇の中から飛んでくるかもわからない。
気がつけば、いつの間にか体が強張っていた。
緊張感をやわらげるため、ゆっくりと深く息を吸い込み、大きく吐き出す。
左手で、右腕に装着した〈精霊器〉の起動体に触れる。
これがあれば自分は戦える。
負けはしない。
その思いが自分を奮い立たせてくれていた。
そして次の瞬間、
(これは――っ!?)
ここからさほど遠くない場所で、弱い電気が走るような感覚が弾けた。
装着した〈精霊器〉がレヴェナントの反応をキャッチしたのだ。
無言のまま、冴香は意識を戦闘モードに切り替え走り出す。
二ブロック走った場所――不況で倒産した会社か何かのビルの裏に一人の女が立っていた。
よれよれのスーツは数日は着続けているように見える。
レヴェナント化してからかなり時間が経っているようだ。
時間が経てば経つほどレヴェナントは強力になるため、目の前の相手がステージⅣに達しているのは確実だった。
油断は許されない。
『私、わた、わタた、わTA死のぉぉぉぉぉ―――!』
理性を失い、意味を失った
ぶくぶくと肥大する体に、汚れたスーツが裂けだした。。
自分の体がどうなっているのかまるで頓着せず、レヴェナント化した名も知らない女は冴香に向かって襲いかかってきた。
「抜刀っ!」
滑らかな動作で右腕を撫で上げ〈精霊器〉を起動する。
わずかな発光現象と共に、右手に長大な、野太刀と呼ばれる特に剣身が長い日本刀が顕現する。
これがただの日本刀であればさすがに重量を持て余すだろうが、〈精霊器〉を使用する際には、使用者の体自体にも強化が行われるため不自由はない。
冴香は顕現した長大な剣を肩に担ぐようにして構え、襲いかかってくる敵とのタイミングを計る。
〈精霊器〉で作られた刃はレヴェナントの体を容易く斬り裂くが、宿主にも傷を負わせてしまう以上、可能な限り一撃で仕留めたい。
だからこそ、一撃の攻撃力を重視して、この形を取らせているのだ。
『かかか、カKAかい、かいしゃ、会シャ―――!』
ぎこちない動きだった。
アスリートの体の使い方は全身が連動しており機能美を感じることすらあるが、レヴェナントは全身の使い方があべこべで、ある種の滑稽さすらにじませる動きになる。
訓練を受けたとき、腕だけで剣を振るのではなく、肩、腰、脚と全身を使って振ることで最大の威力を引き出せる。
要は、腕だろうが、脚だろうが、その部分しか使っていないからぎこちない動きになるのだろう。
――だが、早い。
飛躍的に強化されたおかげで、体の使い方を洗練する必要などないのだ。
こうなると逆に動きを読みづらい。
「くっ」
一直線に突っ込んでくるだけの動きを、しかし夜の暗さで視認性が悪いことも手伝って、辛うじて回避するのが精一杯になった。
重量的に不自由は感じない。
ただ、それとは別に、長さのせいで取り回しが難しくなっていることには変わりない。
どうしても、相手のリズムを掴むまで、こうした紙一重での回避が続くことになる。
たった数時間前、朽木昴を襲っていたレヴェナントを出会い頭の一瞬で倒せたのは珍しいケースだと言えるだろう。
レヴェナントが跳躍し、ビルの壁を足場にして角度を変え、そのまま冴香に躍りかかる。
普通の人間の反射神経なら見失ってもおかしくない速度の攻撃だが、
(逆に、ここ――!)
冴香は襲いかかってくるレヴェナントに向き直ると、肩に担ぐようにして構えていた〈精霊器〉――
人が呼吸するように、周囲から温かな粒子を吸い込んだ氷雨は淡く水色に発光しはじめる。
やや腰を落としながら、肩に担いでいた長大な太刀を振りかぶり、足運びと全身の捻りを加えて一気に振り抜いた。
狙いは直前まで冴香の頭があった場所。
つまりは、レヴェナントが飛びかかってくるだろうポイントを先読みして斬撃を繰り出したのだ。
『い、ぎゃAあァあAあアアアぁぁぁっ!?』
耳を劈く断末魔と鮮血をまき散らしながら、それは滅んだ。
肥大していたレヴェナント部分の体は、まき散らした鮮血もろとも、再びマナの粒子に分解され跡形もなく消え去る。
後には、ズタズタになったスーツ姿の、若い女性がアスファルトの上に残されるだけだった。
事情を知らない人間が見たら、女性にとって酷い事件が起こったと誤解されてしまいそうだ。
「こちら
耳に装着していた通信機を操作して、事後処理専門の部署を呼び出す。
安全のため朽木昴は限られた人間しか接触していないが、ミドガルズオルムはそれなりの規模の人員をユグドラシルの根、周辺に配置している。
『一晩で二体? それは……異例ですね』
通信オペレーターは困惑した声を上げる。
日課だから巡回には出ていたが、実際にレヴェナントと遭遇する可能性はほとんどないと思っていた。
大気中に漂っているマナには、本来敵意が存在しない。
それが人体で言う所の癌のように、異常な変質と組織化を果たした結果としてレヴェナントが生まれる。
その発生頻度は決して高くない。
先人が残した情報では、数日に一体程度だと言われていた。
それが一晩に二体だ。
「いえ、こればかりは可能性の問題ですから、ないとは言い切れないでしょう。それよりもいつも通り、後処理をお願いします。損害なし。建築物への損害もありません。被害者一。こちらは協力病院への保護と偽装工作をお願いします」
レヴェナントをはじめとする、〈ワールド・エンド〉にまつわる全ては一般人には秘匿されなければならない。
そのために、レヴェナント化した宿主や巻き込まれた人間は様々な方法で偽装工作が成される。
今回の場合は、レヴェナント化した間の出来事を覚えているかどうかを確認した上で、彼女が元の生活に戻れるように手回しをする。
暴漢に襲われたなど、不名誉な噂が立たないように、たとえば突発的な交通事故で数日間意識不明のまま病院に運び込まれていた、など適当な状況を作り出してくれるだろう。
『了解しました。
今夜の担当者は女性で、落ち着いた声で労われると冴香も疲労を自覚する。
「そうですね。ではそのようにお願いします」
01――一度引き上げた不破が本当にもう一度出てきてくれるかについては、はなはだ不安だったが、彼女の言葉に甘えることにした。
通信を終え、冴香は最低限の警戒心は残したまま〈精霊器〉を解除する。
オペレーターにはあり得ない話ではないと言ったが、実のところかなり異質なものを感じてもいた。
〈ワールド・エンド〉が発生してから数日――朽木昴は昨日目覚めたばかりなので、まだ一日しか経っていないと思っているようだが、既に状況は動き出している。
一晩で二体処理したのは初めてである。ただそこまでいかなくとも、〈ワールド・エンド〉発生直後から、レヴェナントの発生頻度が事前の情報よりもかなり高い。
「何かが、起こっているというの………?」
今のところはどうにか処理し切れているはずだが、最悪の場合、どこかで既にコロニーが発生している可能性があるかもしれない。
(どこかに、こういう廃ビルにでも息を潜めているレヴェナントがいるんだろうか……)
そんな理性的な行動を取れるレヴェナントがいるという話は聞いたことがない。
――が、もし組織が補足できていないレヴェナントがいれば、レヴェナントがレヴェナントを呼んで、爆発的に増えてしまう。
その最悪の事態を想像して、冴香は小さく身震いした。
それでももう、歴史の中で身を潜め眠っていただけの蛇――ミドガルズオルムは動き出してしまった。
時計の針は戻せない。
あとは破滅を回避するために、全力を尽くすことしかできないのである。
「異質といえば、まさか〈
護身用に持たせる目的で〈精霊器〉の授与を行えば、朽木昴が呼び寄せたのはほとんど伝説上の存在だった〈聖なる泉〉だった。
さすがに尾ひれがつきすぎているとは思っていたが、一つで世界を覆すことができるとまで言われている代物だ。
どれほど強力な性能を持っているか想像もできないが、やはりもったいなく感じてしまう。
「アレを自由に使いこなせれば、もっと………。いえ、私は私のすべきことをするだけ。大丈夫。私は、大丈夫だから……姉さん」
ここにいない誰かに聞かせるために紡がれた言葉は闇に溶けて消える。
冴香は、事後処理のスタッフが到着するまで意識を失ったままの女性を見守った後、その場を立ち去るのだった。
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