第二章 君の価値は

第11話 理由を求め


 そこは、退廃的という言葉がどこよりも似合う場所だった。


 雑居ビルの地下一階にある、場末のバー――その跡地だ。


 テーブルや椅子は思い思いに倒れ、床には埃やゴミ、割れたガラス瓶の破片などが散乱していた。


 まともに残っているのは床に固定されているカウンターと、同じく固定されているスツール。


 だがスツールも、何者かが面白半分に蹴ったのか、大半が座るには適していない角度に曲がっている。


 とっくの昔に営業などしておらず、もしこの状態でやっていたなら客より先に保健所の人間が大挙して押し寄せるだろう。


 ビル全体を見ても、入っているテナントは一つか二つ、まさに廃屋寸前の寂れた場所だ。


 そんな中、男は唯一無事だったスツールに腰を下ろし、ワインを、ボトルに直接口をつけて飲んでいた。


 ワイン好きが見たら眉を顰めそうな光景だが、そこらで買ってきた安物の酒にロケーションがこれでは、雰囲気にこだわるだけ無駄というものである。


 二十代の青年だが、その背中から若さを感じることはない。


 服装こそ、デニムにカジュアルシャツとラフな格好だが、まるで中年のように疲れ果てた厭世的な雰囲気を漂わせて、男は酒を飲んでいた。


ご主人様マスター、標的を発見しました」


 そこに、この廃墟と言ってもほぼ差し支えはないだろう場所には不釣り合いな、一分の隙もなくスーツを着こなす美女が静かに姿を見せた。


 すらりと背が高く、金色の髪をハーフアップにしている眼鏡姿の女性。


 年齢は、二〇代中頃で、どこかの社長秘書をやっていてもおかしくはない、そんな雰囲気の人物だった。


「ほう? やはりあのくそったれな偽物と一緒か?」


「はい、例の者達が保護していると思われます。残念ながら、居場所や、顔立ちなど詳細なデータは不明ですので、何かが起こらないと誰が〈稀人〉なのかは判然としません」


「ふん。俺の目をもってしても、自分の世界のことは見通せないからな。ちっ、また疼いてきやがる」


「マスター、飲酒はほどほどに」


「わかっている。奴らをぶち殺すまで、俺はくたばるわけにはいかないんだ」


「では、私は引き続き調査を続けます」


「レヴェナントだ。あれの傍に、必ず〈稀人〉は現れる。偽物共も、〈稀人〉の価値を考えれば、ただ隠しておくというわけにもいかんだろうからな」


「本当の価値、ですか……」


「ああ、そいつの存在は、まさに世界をひっくり返しかねないほどの爆弾になるんだからな」


 男は空になったワインのボトルを床に放り投げると、暴力的な笑みを浮かべた。


               ◆◆◆


 そろそろ日付が変わろうという頃、昴の姿はロイヤルタワー神木の一室にあった。


 ただし、自室として宛がわれた4801号室ではなく、一つ下の4701号室――つまり水姫と幽月が暮らしている部屋である。


 他人の部屋を訪ねるには遅すぎる時間だが、家人の二人と昴以外に冴香やアンジェリカ、清十郎までもが集まっていた。


 そして昴は、居心地の悪い思いをしながらソファに座らされている。


「なかなか、意外な行動をしたようだね?」


 沈黙が痛くなってきた頃、幽月が口を開いた。


 相変わらず「間」というか「空気」のようなものが読みづらい女性である。


 普通なら親しくなくても「そろそろしゃべり出しそうだな」と気配を感じるのだが、彼女は実際に行動に出るまでどう動くかまるでわからなかった。


 なのでいつも驚かされるのである。


 直前まで、観察するような鋭い視線を注いでいた幽月が、今はいかにもおかしそうな表情を浮かべていた。


 てっきり怒られると思っていた昴は、拍子抜けして、しばらく幽月に問いかけられているのだと気づかなかった。


「指令、意外のひと言で片づけてもらっては困ります。朽木昴がどうしてあんな時間に外を出歩いていたのか。そして、彼の身辺警護を請け負っているはずの護衛班――担当しているはずの服部がのうのうと自室で眠りこけていたのか、そのあたりをしっかりと問いただすために集まったはずでしょう?」


 代わりにというわけではないのだろうが、冴香が口を開く。


 昨日、今日とほとんど喋らなかった冴香だが、見た目通り生真面目で自分にも他人にも厳しい性格をしているらしい。


 隣でアンジェリカが小さな体をさらに縮こませる。


 昴の居心地が悪いのも、この集まりの目的がアンジェリカの不手際を追及するためらしいと感じているからだ。


「面目次第も、ござりませぬ」


 昼間は無邪気に振る舞っていたアンジェリカが、酷く気落ちして項垂れてしまっている。


 確かに高校生が一度帰宅してから出歩くには遅い時間だった。


 だが、そもそも突発的な行動だった上に、昴からしてみれば「出歩くな」と言われたわけでもなかったので、そこまで問題があるとは思っていなかった。


 その上、自分が叱責されるならまだしも(むろん、弁解ぐらいはしただろうが)、自分ではなくアンジェリカが責められるとなると非常に心苦しい。


「あの、冴香さんもそのへんで……」


 アンジェリカが落ち込んでいる気配を感じるのか、水姫が取りなそうとするが、冴香は納得していないようだった。


「無断で外出したのは確かに悪かったかもしれないけれど、でもどうして外出してはいけなかったのか、それはおそらくさっき見たもののせいなんだろうけど……」


 ついさっき、自分が直面した信じられない光景を思い出す。


「僕が見たあれはなんだったのか、説明してもらえませんか?」


 まだ説明しなければならないことは残っていると言っていた。


 おそらくそこに行き違いが生じた原因があるのだろうと感じたのだが、思った通りらしく、幽月は昴の意見を受け入れて頷いた。


「冴香、君の苛立ちももっともだが、稀人殿が言っていることの方が道理が通っている。我々は彼に対して充分な説明を行っていない。むろん、一度に説明してはかえって混乱させるという考えがあったからだが、説明されなければ注意するもしないもない――確かにその通りさ」


「しかし――」


「――もう一つだけ言わせてもらうなら、確かに抜け出した僕も迂闊だったけれど、こんな小さな子に徹夜で見張れと言うのはさすがに無理でしょ?」


 まだ言い募ろうとする冴香を牽制するように、昴はアンジェリカを庇う。


「お、お館様ぁ」


 昴に弁護してもらったのが嬉しかったのか、アンジェリカは涙で顔をぐしゃぐしゃにしている。


 冴香は素直に納得できない様子だが、そこで清十郎が我慢しきれず吹き出した。


「確かに、少年の言う通りだわ。こんなちんちくりんに無理させようっていうのがそもそも間違い! 違いない!」


 陽気な声だったが、その声が上がった途端、部屋の中にアルコールの匂いが漂うのを感じた。


「不破さん、まさか巡回中に飲酒ですか!?」


 同じことを感じたのか、冴香が改めて眉間に皺を寄せる。


「まぁまぁ、そう堅いことを言うなよぉ。これも巡回。立派な巡回だぞ? オフェンスが二枚しかいないんだ。いくら隠密行動を得意としてたって、お前じゃ酒場の中まではカバーできまい? だから俺が、酒場をハシゴしてお前が回れない場所を回ってやってんじゃんかよ?」


「む――」


 一理あると思ったのか、冴香は不機嫌そうにしながらも黙った。


 勝機と思ったのか、清十郎はさらなる言葉の追撃を行う。


「だいたいだな。お前、盛り場を毛嫌いしてっけど、知ってるか? ああいう、理性や自制心が薄れる場所だからこそ、レヴェナント共が尻尾を見せやすいんだぞ」


 不服な様子を隠そうともしないが、それでも反論はできないようだ。


 昴はというと、先程から彼らの間で飛び交っている「巡回」や「レヴェナント」といった聞き慣れない単語に気を取られていた。


 そこへ――、


「――で、馴染みのホステスとは充分楽しめたのかね?」


「ええ、そりゃもう、楽しかったですよ~。なかなか離してくれなくてですね。おかげで、一軒で予算を使いきっちまいました。いや、モテる男は辛――」


 またもやスルリと差し込まれた幽月の言葉で、清十郎はあっさりと口を滑らせる。


「あ」と呟いて慌てて口を閉じるが、遅すぎる。


「不破さん。不破さんの方こそ、理性や自制心がずいぶんと目減りしておられる模様。――次の日曜日、よろしければ私と真剣にて訓練していただけますでしょうか?」


 氷のように冷たい視線で清十郎を射る。


 軽薄な青年は「やぶ蛇やぶ蛇」と肩をすくめるだけで、その強烈な軽蔑の視線を受け流していた。


「とにかく、稀人殿。昨日は説明しきれなかったいくつかを改めて説明させていただきたい。少々遅い時間だが、今日のようなすれ違いを起こさないため、もうしばらく我慢してもらいたい」


 責任を感じなければならないことなのかどうかは、実は自分でもわかっていなかった。


 ただ、この世界で「開放感」を覚えた後ろめたさを払拭するためには、今は知らないことも含めて自分が何に巻き込まれているかに、正面から向き合った方がいい気がしていた。


「一日ぐらい寝不足でも、大丈夫です。僕に聞くべき話があるのなら、今、教えて下さい。……あと、どういう意味かわかりませんが、その稀人っていうのは止めて下さい」


「承知した。では、朽木君……これからはそう呼ばせてもらうとしようか」


 悠然と構えていた幽月は、昴の返答を聞いて満足そうに頷いた。

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