第10話 夜を彷徨う
成り行きで、いきなり住むことになったロイヤルタワー神木。
転校初日を終えた昴は出迎えてくれた水姫を彼女の部屋まで送ってから自分の部屋に帰り着いたのだが、アンジェリカともそこで別れることになった。
アイスはしっかりと受け取って元気に去っていくアンジェリカを見送ったところで、昴は一人に戻った。
部屋の中には、高校生が一人暮らしをするには贅沢すぎるほどの家具や、大型のTVをはじめとする家電製品が揃っていて、おまけにスマートスピーカーで全体を管理しているハイテク仕様だ。
今までの生活と違いすぎて、正直持て余しそうである。
制服から、幽月達が買いそろえておいてくれた服に着替えると、とりあえずひと通り部屋の中を見て回った。
広すぎて寒々しいほどだった。
日が暮れ、その豪華な部屋には、ある意味で不釣り合いに思えるコンビニ弁当で夕食を済ませた後、リビングのソファに腰を下ろしてテレビをつける。
以前も見たことがある番組をやっていて、何の支障もなく内容にもついていけたが、半時間と経たずにチャンネルを変える。
つまらなかったわけではない。
前から見ていた番組だったのだが、それでもチャンネルを変えた。
次は一五分、その次は五分、次はもう秒単位で次々とチャンネルを変えて、映すチャンネルがなくなると、電源を切って立ち上がる。
寝室に入るが、そこには当然のことながら元からの昴の私物などない。
家具だけではなく、服や、財布や、スマホも必要だからと渡されていたが、番号もメールアドレスも元のものとは違っていた。
他人の部屋のようで落ち着かず、部屋の電気をつけたが一歩も入らずに再び電気を消して出た。
用もないのに風呂場やトイレを回り、家の中を徘徊して、ついにはベランダから出て夜景を眺めようとする。
タワーマンションの高層階の夜景といえば、そこに価値を見出す人が多いと聞くこともある。
眼下に広がる街の灯は確かに絶景なのだが、昴はそれを一瞥しただけで部屋の中に引っ込んだ。
息苦しかったのだ。
酸欠ではない。だが、どこにいても、何をしていても、息が詰まる。
(なんだこれ? 僕は、どうしちゃったんだ……?)
気づけば昴は、自分の部屋を、そしてマンションを飛び出して夜の街へと彷徨い出ていた。
今日出会った、誰一人として昴のことを知らなかった。
昼間はまだ明るく、周囲にクラスメイトやアンジェリカがいたおかげで緊張感を保っていたり、気が紛れたりしていた。
だが一人になって気が緩んだ途端、形容しがたい感情が溢れ出したのだ。
マンションから出ても、息苦しさは収まらない。
周囲の街並みは昴にとって馴染み深いものだった。
だが家々も、道も、壁も、あたりに植えられている植物も、全部が昴の見たことがあると思っているのは昴だけで、この世界のこの街を歩いたという事実はない。
ここは、朽木昴がいないはずの場所――ここにとって、この街にとって、この世界にとって、昴はどうしようもなく余所者なのだ。
自分が知っている人や場所にいるのが耐えられず歩き続けていると、いつの間にか繁華街の方に辿り着いていた。
昼間でも昴ぐらいの年齢では立ち入らない雑多な区画。
見たことがない場所であれば、前の世界と比較することもできない――だから少し、落ち着きを取り戻せた。
「僕は、なにやってるんだ……」
こんなところにいたら警察に補導されてしまうかもしれないと、妙に常識的なことに気づいて我に返る。
とりあえず、どう見ても十代にしか見えない昴は変に目立たないようにビルとビルの間に入り込んで薄汚れた壁にもたれかかった。
冷静さが戻ってくると、自分がパニックを起こしかけていたのだと理解できた。
頭の中ではわかったつもりになっていた。
幽月ともその想定で話をしてきたつもりだった。
だが、知っている人間が誰一人自分のことを知らない状況に放り込まれて、ようやく本当の意味で何が起こったのかを理解したのだ。
本当に、自分が元いた世界の人達は消滅したのかもしれない。
それは、およそ昴が知っているありとあらゆる事件や災害とは、比べものにならないほど酷い出来事だろう。
もちろん孤独は感じた。
だが違う。孤独は、元の世界でもずっとつきまとっていた感情だった。
(僕は、学校が居心地いいと感じたりしてた……)
昴は今日、この世界で久々に味わった、「普通」を心地よいと感じてしまった。
別に聖人君子を気取るつもりはない。自分の中にも怒ったり嫉んだり恨んだりといったマイナスの感情はある。
それでも、たとえ元の世界では周りの人間に蟠りを覚えていたとしても、昼間は無自覚だったのだとしても、自分で、この状況で喜びを感じた自分に衝撃を受けたのだ。
そんな昴に、路地のさらに奥の方から投げかけられる声があった――。
『朽木ぃ、朽木じゃないかぁ~。朽木ぃ、す~ば~る~』
昴は弾かれたように立ち上がって、街のネオンの明かりも差し込まない、路地の奥の酷く暗い場所を注視した。
誰かがいる。
わかるのは、背広姿らしい誰かがフラフラと頼りない足取りで姿を見せたことぐらいだ。
(奥は、ちょっと広くなってるのか?)
ビルとビルが歪に接し、その隙間に生じた余白のようなスペースがあるようだった。
男は、そこからこちらに歩み寄ってくる。
(僕のことを、僕を見て、昴と言った?)
顔見知りだとでもいうのだろうか。
こっちの世界で知っている者はいない。
例外は今日、学校で出会った教師ぐらいだが、そんな人物が偶然こんな所に居合わせるような偶然は、さすがに考えられない。
しかもその声に心当たりがなかったのだ。
この世界の教師からすれば昴は初対面の相手だが、昴にとっては二年間通った高校の教師なのだから、声ぐらいは覚えているはずだ。
(酔ってる、のか……?)
足取りは相変わらず怪しく、その上『く、くくク、クチ、くちきぃ~』と口調はいよいよ怪しくなっていく。
フラフラと歩く男が、どこからか漏れ届く明かりに一瞬だけ晒される。
その顔を見て、昴はさらに衝撃を受けた。
「中学の時の教頭先生……!?」
教師は教師だった。
だが、それは今日唯一足を運んだ高校ではなく、こちらの世界では行ったことがないはずの――つまりは出会ったことがないはずの、中学校の教員だったのだ。
いよいよわけがわからなくなる。
これは、今更信じられないが、やはり大がかりなドッキリにでもかけられているんじゃないだろうかという可能性が一瞬だけ脳裏をよぎる。
その気が逸れた一瞬を衝くようにして、それまで千鳥足だったのが嘘のような俊敏さで教頭らしい男が昴に襲いかかってきた。
『きキききキキィ~! 貴様が、キサマサマサマ、SAMA~! 喰うぅ、喰う喰う!』
男の手が振り抜かれる。
反射的に、転がるようにしてどうにか避けたが、空を切った男の腕はビルの壁に激突して、そしてぐしゃりと手を砕きながらも豆腐のようにコンクリートの壁を削り取る。
温かい液体が頬を濡らしたが、それが男の血だと気づくには数秒必要だった。
『にげぇるナ~~~ッ!』
正気を失っているが、それにしたところでコンクリートの壁を削るような力が出るとは思えない。
その上、ビリリとシャツが裂ける音で気づく。
目の前の中学教頭だったはずの男の体が、いつの間にか肥大し痩せ形だった男は二回りほど巨大化していた。
(服が破れているってことは、幻じゃない……!?)
昴は後ずさりながらも逃げるに逃げられずにいた。
本当なら脱兎のごとく逃げ出したいところだが、背中を見せた途端に襲われる可能性を前に、動けなくなっていた。
昴には格闘技の経験などないが、そんなものがなくても圧倒的な本能の警鐘が昴を縛っていたのだ。
『かカカ、カかカKA! からだ、体、カラダ、空だ~~~ッ!』
もはや理性があるのかどうか確信が持てないほど意味不明の妄言を連呼しながらも、その手足は、潰れて血をまき散らしている左腕も含め、明確な意思を持って昴を狙い追いかけてくる。
恐怖心に突き動かされ、昴はそれらを避け続ける。
コンクリートの壁を抉り、アスファルトに覆われた地面を砕く。それ以上に手足に深刻なダメージを負いながらも、男は哄笑しながら攻撃をし続けた。
対する昴は、まだ避け続けてはいるものの、衝動に突き動かされた動きは無駄も多く、何より恐怖は体力を吸い取っていった。
「はぁ、はぁ――あっ!?」
いつの間にか体力には限界が来ていて、足がもつれ転倒する。
『あはハはハ~~っ!』
獲物を見定め、化け物が襲いかかってくる。
(――やられるっ!)
喰うと言っていた。
最悪の想像が悪寒を伴って昴の背筋を駆け上がった次の瞬間、ビルの上からそれまでこの場に存在しなかった第三者の影が現れる。
地面に尻餅をつき、化け物を見上げる形になっていた昴はいち早くその影に気づいたのだ。
(落ちてくる――っ!?)
人影だった。
ビルは、八階はあっただろうか。
ここから屋上の縁がどうにか見える程度の高さはある建物だ。その上から、人影が落ちてくる。
身投げ。
投身自殺。
どうしてこのタイミングでそれが起こるかは考えもしなかったが、そんな言葉が思い浮かんだ。
(―――いや、違うっ!?)
飛び降りた人影は、ただ落下にするがままになってはいなかった。
浮遊に身を任せたのはほんの一瞬。
すぐさま体を捻り、すぐ傍を流れ過ぎていくビルの壁を蹴りつける。落下速度は弱まり、体は横に泳ぐ。
反対側のビルが近づき、その壁をさらに蹴って落下の勢いを弱める。
まるでジグザグに空間を劈く雷のような動きで舞い降りてきたそれは、最後の一蹴りで化け物に対して軌道修正し、落下速度と体重とを全て乗せて躍りかかった。
(日本刀……?)
薄く、水色に輝く長大な刃が落下の速度と体重を乗せて振り下ろされる。
その一撃で、化け物の体は両断され、血しぶきをまき散らしながら呆気なく絶命したのだ。
それは、直前までのダイナミックな動きが嘘のように、ふわりと降り立った。
鮮血を浴びた、セーラー服姿の少女である。
赤いリボンで結わえた長い黒髪が、彼女の動きに釣られて揺れた。
(あれ……? 剣が………?)
化け物を斬り捨てた瞬間、手には薄水色に輝く日本刀のような武器を握っていたように見えたのだが、今の彼女は素手である。
自分が自分の目で見たものが本当だったのか、確信が揺らぐ。
そんな混乱状態に陥っている昴に構わず、目の前の少女は耳につけていたレシーバーを操作して何処かへ呼びかけた。
「こちら
その声には、聞き覚えがあった。
カチリ、とスイッチを押して通話を終えた彼女は振り返って昴に鋭い視線を注ぐ。
「……それで、あなたはどうしてこんなところにいるんですか?」
どこかから差し込む、決して陽光にはない妖しさ彩られて浮かび上がったのは、黒瀬冴香の顔だった。
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