第9話 彼女の熱意


 奇妙な転校初日を終えた昴は、いくつか買い物を済ませてから帰宅した。


 帰宅した、と言うにはまだ違和感がある。


 敷地の入り口に到着したところで、昴は立ち止まって思わず目の前にそびえ立つタワーマンションを見上げてしまっていた。


 地上五〇階建て。


 アイボリーを基調とした、落ち着いた外壁の巨塔が空に向かってそびえ立っている。


 このあたりには高層建築物が少なかったので、余計に目立つのだ。


「ここに住む、んだよな……」


 生まれ育ったのは一戸建てなので、普通に恵まれている方だとは思うが、さすがに高級マンションは勝手が違っていて、入り口からして身構えるほど凝った造りになっていた。


 入り口脇にはマンションの名前が書かれたプレートが埋め込まれていて、「ロイヤルタワー神木かみき」とある。


 このあたりは学校名が示す通り霧見沢市で、その下の地名にも「神木」という名は心当たりがない。


 会社かオーナーの名前なのかもしれないが、いずれにしてもマンションの名前すら今初めて認識した始末である。


『お館様! さぁ、急ぎ部屋まで戻りましょう! このような場所で無防備になっておられては、いつ外敵に襲われるともわかりません故! にんにん!』


 学校が終わり、校門から出たところで再び合流したアンジェリカが、姿を消したまま昴を急かす。


「こんな街中で何に襲われるんだよ。というか、急ぎたい理由はこっちだろ?」


 そう言いながら、昴は右手にぶら下げたビニール袋を軽く持ち上げる。


 中には、途中で寄り道をして買ってきたいくつかの食料品と、アイスクリームが入っているのだ。


『そそそ、そのようなことは、そのようなことはございませんですじゃ!』


 返答に窮しすぎてキャラがぶれまくっている。


「わかったわかった。食べ過ぎるんじゃないぞ」


『拙者、子どもではござりませんぞ! お館様の護衛も務まる、立派な忍びにござるよ、にんにん!』


(そこは、立派なレディだ、とかそういうワードが出てこないのか)


 苦笑しながらも、昴は予め手渡されていた住人用のセキュリティカードで自動ドアのロックを解除して中に足を踏み入れる。


 エントランスは、一流ホテルのロビーだと言われても信じてしまいそうな、贅沢な応接スペースになっていた。


 高そうな壺や絵画が飾られていて、防犯カメラぐらいはあるのだろうが、警備員もいない。


 こんな所に高価そうな美術品を置いていて盗まれたりしないのだろうかと変な心配をするほどだった。


「朽木様で、いらっしゃいますか?」


 不意に声をかけられ、ロビーの端に置かれている応接セットの方に目をやる。


 革張りの、やたら高そうなソファに腰を下ろしていた一人の少女が目についた。


「君は、水姫とか言ったっけ……」


 昨日、目覚めた昴と抱き合うようにして意識を失っていた少女だ。


 幽月の話が本当であれば、昴をこの世界に「救出」してきたのが彼女であるらしい。


 加えて、救出には魔法のような「力」を行使しなければならず、その反動で視力を失ってしまったという。


 確かに彼女の言葉は迂闊だったが、それでも姿形が同じであればどちらでもよく、昴が大切にしている思い出などくだらない、などと直接言ったわけではないのだ。


 今では、目覚めたばかりで混乱していたため、つい感情的になってしまったと少し反省していて、何となくキマリが悪かった。


 対して、水姫の方はといえば、昴が返事をしてくれたことに安堵した様子を見せる。


「はい、水姫です。名前を覚えていただき、ありがとうござい――きゃっ!?」


 立ち上がって、こちらに歩いてこようとした水姫が、目の前にあった予備の椅子に引っかかって派手に転んだ。


「ちょ、おい、大丈夫か!?」


 昴はビニール袋を床に置いて慌てて助け起こすために駆け寄った。


「す、すみません……」


 ほっそりとした手を握って引き起こすと、昴を探すように虚空に視線を彷徨わせながら水姫は謝意を述べる。


「いや、いいけど……。変なことを聞くけど、なんていうか、本当に昨日から見えなくなったのか? 病院とか行った?」


 彼女は素顔のままで、少なくとも包帯を巻くなどの治療の跡は見られない。


「はい。目が見えなくなったのは、母も申し上げていた通り、儀式を終えてからです。病院は、そういう性質のものではないので……」


 病院に行っていないのはさすがによくないのではないかと異論を挟みかけた昴を遮るように、水姫は言葉をつなぐ。


「無様を晒してしまって申し訳ありません。もう少し練習すれば部屋の外でもつまずかずに歩けるようになると思います」


 水姫は先程までのオドオドした様子が嘘のようにキッパリと頷いた。


 これ以上は、他人の昴が踏み込むわけにもいかず、仕方なく引き下がる。


「そういうことじゃないんだけど……。スカート、埃がついてるけれど、僕が払っても?」


 昨日とは違うデザインだが、やはり純白の、どこかのお嬢様のようにも見える清楚なワンピースを着ていた。


 床は充分掃除が行き届いているように見えるが、やはり白い生地だと少し汚れてしまっている。


「す、すみません。朽木様の手が汚れてしまいますので……」


 そんなの気にしなくてもいいのだけれど、と思ったところで便利な相手に気づいた。


「じゃあ、アンジェリカ、彼女のスカートをちょっとはたいてやってよ」


 そう声をかけると、「承知つかまつった、にんにん!」とアンジェリカが姿を現して水姫に走り寄る。


「あ、アンジー? ありがとうございます」


「主命なれば、お気遣い無用でござる!」


 そう言うが、忍び装束のアンジェリカは嬉しそうに笑っていた。


 アンジーというのはアンジェリカの愛称だろう。二人はそれだけ親しい間柄ということになるだろうか。


 それはそうと、水姫の「訓練する時間がなかった」という言葉にひっかかりを覚えた。


「訓練する予定だったってことは、君はその、自分の目が見えなくなるとわかっていたということ……?」


 昴が問いかけると、水姫はこともなげに頷く。


「はい。詳しい説明はまた追々されることになるかと思いますが、わたくし共が用いている技にとって、眼は内と外とを結ぶ――異なる世界の境界と考えられます。そこから転じて、朽木様の世界を覗き込んだり、もっと強く干渉して朽木様をこちらに引っ張り込んだりすることができたのです」


 何となく表現しようとしていることはわかるのだが、やはりその「技」とやらについては情報が足りなかった。


 追々、と言っているのだから、「技」について追及することは諦めてそもそもの疑問点を口にする。


「……まだ慣れないのに、どうしてこんなところに?」


 そういうと、水姫は「あっ」と口元を押さえる。


「朽木様、お帰りなさいませ」


 姿勢を正すと、礼儀正しく腰を折って深々とお辞儀をする。


 昴はたっぷり数秒考え込むと、そこでようやく水姫が自分を出迎えてくれたのだと悟って「え、あ、いや、どうも……」と酷くぎこちない返事をした。


「その、昨日は、大変失礼をいたしました。わたくし、混乱されている朽木様に酷い物言いをしてしまい……」


 放って置いたらこの場で土下座でもするんじゃないかというほど神妙な様子で謝罪をする水姫に、昴の方が慌てふためく。


「いや、こっちこそ、ちょっと感情的になりすぎた……」


 昴がそう言うと、途端に水姫の表情に安堵の色が広がる。


 実際には幽月が止めてくれたのだが、水姫の様子からすると、あのあとで幽月から窘められるぐらいはしたのだろう。


「ありがとうございます。ただ、わたくし共が朽木様がこちらの世界で心安らかにお過ごしいただきたいと思っている、その気持ちだけはもう一度お伝えさせて下さい」


 水姫は手探りで昴の居場所を探し当て、その手を取り、両手で強く握りしめる。


 痛くはないが、まるでその力が強いほど気持ちが伝わると信じているかのように、華奢な彼女からは想像できない力強さだった。


 学校に転入する手続きでも感じたが、どうしてそこまで昴を特別扱いするのか、


 どうしてそこまで昴に入れ込むのか、


 ここで聞いておいた方がいいのだろうかと思うのだが、そこへ、


「お館様っ! 一大事! 一大事にございます!」


 慌てふためくアンジェリカの声がロビー一杯に響き渡った。


「ど、どうした!?」


 昴は慌てて振り返る。


 昴の手を握ったままだった水姫の手からも緊張感が伝わってきた。


「アイスが! アイスが溶けそうでござる!」


 瞬間、ロビーの床に座り込みそうになるほどの脱力感に襲われる。


 同時に、自分のことについてこの場で聞こうという意気込みもどこかへと抜けてしまった。


「……まぁ、こういうことらしいから、僕は自分の部屋に戻るよ。君も、部屋まで送っていこうか。昨日の部屋なんだろ?」


 昴に用意された部屋はこのマンションの四八階。4801号室である。


 昨日、昴が目覚めた部屋――おそらくは幽月と水姫が暮らしている部屋はその一つ下の四七階にあった。


 位置関係もちょうど昴が宛がわれた部屋の真下。4701号室である。間取りもまったく同じであるらしい。


 これから、水姫は目が不自由なままずっと暮らすのだろうか。


 それともしばらくすれば視力は回復するのだろうか。


 さっきと同じで、そこまで立ち入ったことを聞くことはためらわれたが、とりあえずこの場に残して部屋に引き上げるという選択肢はなかった。


 対して水姫は何か言いたそうにしていたが、すぐに切り替えて「では、お言葉に甘えさせていただきます」と昴の手を取ってきた。


 先程とは違って添えるような、柔らかな触れ方だが、自然とカップルが腕を組むような格好になってしまって気恥ずかしい。


 一瞬、体勢を変えてもらおうかとも思ったが、足下で「アイス、アイス」と喚いている幼女もいるので、とっとと水姫を送り届けた方が早いと判断してエレベーターホールに向かって歩き出した。

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