第7話 思い出の散歩道
元々通っていた高校に改めて転校するという奇妙な状況に文句を言いながら、早朝の河川敷沿いの道を歩いていた昴だったが、目の前からやってきた人物を見て思わず足を止めた。
現れたのは一人の少女である。
年齢は、昴と同じ。
大型犬――ゴールデンレトリバーの散歩中で、華奢な彼女は半ば引っ張られるようにしてそこを歩いていた。
一歩一歩、その動きに釣られショートボブにした艶やかな黒髪が揺れる。
顔立ちは整っているが、色っぽい、いわゆる「美人」というよりも、ノーブルで中性的な雰囲気をしている。
表情は豊かで、特に目は猫のように印象を変えて飽きない。
友達も多く、男子からもよく声をかけられているはずなのに、昴のような面倒な性格をした幼馴染みも気に掛けてくれる面倒見がいい女の子である。
スウェットの上下というラフな格好で愛犬の散歩をしている少女――梓川涼音が不意に目の前に現れたのだ。
緊張で伏し目がちになりながらも、昴は不審に思われないように再び歩き出した。
目の前からゆっくり近づいてくる少女は、昴の姿が見える距離に近づいても何の反応も見せず、そのまま通り過ぎてしまう。
「はぁ……」
すれ違い終えると、体の底から空気を全部吐き出すような深い息を吐く。
緊張と緩和の落差が激しすぎて、このままこの場で座り込んでしまいそうになっていた。
完全に、他人とすれ違う人間の態度だ。
ガッカリしたような、安心したような、そんな複雑な気持ちになりながら遠ざかっていく少女の後ろ姿を盗み見る。
彼女は、昴が知っている梓川涼音ではないのだ。
昨日は、別人を一緒くたにするような発言をした水姫に腹を立てたというのに、昴自身が戸惑いを覚えるのは理屈が通らない。
そうは思うが、ここまで顔立ちが同じだと、やはり奇妙な気持ちになるのは抑えられなかった。
(そう言えば、二年前まではよくキンタロウの散歩にも一緒に行ったっけ……)
母親が動物アレルギーだったせいで朽木家ではペットが飼えず、代わりに涼音の散歩によくつき合っていたのだ。
キンタロウというのは、ゴールデンレトリバーのゴールデン――つまり金色から来ている。
今思えば安直だが、子どもの頃の涼音と昴が一緒に、真剣に考えてつけた名前だった。
未練がましく、遠ざかっていく涼音の姿を眺め続ける。そんな中、不意にキンタロウがこちらを振り返り、昴と目が合った。
次の瞬間、それまで大人しく真っ直ぐに歩いていたはずのゴールデンレトリバーが、急に方向転換をし飼い主を引きずる勢いで逆走を開始するのである。
「ちょ、な、なになになんなの~~っ!?」
涼音は完全に意表を衝かれたようで、バランスを崩し踏ん張ることもできずに、愛犬に引っ張られ走り出す。
キンタロウは全力で飼い主を引っ張って爆走し続ける。
そういえばこの犬は結構気まぐれで、小学生の頃の涼音など、いいように引っ張り回されることもあった。
だから心配して、昴がよく散歩につき合っていたわけなのだが……。
「ん………?」
そんな懐かしさに浸っていた昴に向かって、不思議なことにキンタロウは一直線に走り寄り――そして、その全身を使って飛びついてきたのだった。
「わぁっ!?」
さすがにその挙動はまるで予想していなかった昴は、その場から一歩も動けず大きなゴールデンレトリバーに押し倒される形で尻餅をついてしまう。
「ご、ごめんなさいっ!!」
キンタロウの体の向こうから、涼音が必死に謝る声がする。
リードを引っ張ってキンタロウを引きはがそうとしているようだが、予想外に強い力でしがみつかれており、なかなかうまくいかない。
その間中、キンタロウの生暖かい舌が昴の顔中をなめ回し続けていた。
◆◆◆
「本当に、本っ当~にごめんなさい!」
幸い、近くに草野球やグラウンドゴルフで使うようなグラウンドがあり、そこの水場で顔を洗う。
背後からやって来た涼音は、可哀想になってくるぐらい必死に謝っていた。
「いつもは大人しい子なんです! 他人に飛びかかったこともなくて、それで私も不注意でした! 本当にごめんなさい!」
別に不機嫌だったわけではなくて、口を開くとキンタロウの唾液が口に入ってきそうだったので喋りたくても喋りたかっただけなのだ。
とりあえず顔を清めハンカチで顔を拭くと、昴はようやく大きく息を吐き出した。
「あ、いや、こっちも別に噛み付かれたわけじゃないし、気にしなくていいよ」
「で、でも、ちょっと手を擦りむいてませんか!? どうしよう!」
見れば、手の端に少しだけ血がにじんでいた。
道路に手を突いたときに小石か何かで切れたのだろうか。指摘されて初めて気づいたぐらいで、痛みはほとんどない。
それでもオタオタと慌てながら謝罪する涼音は、昴が知っている涼音そのままで、少しだけ複雑な気持ちになった。
「まあ、大丈夫だよ。傷口も特に汚れなかったし」
責任感の強い涼音はそれでも納得していないようだった。
「とにかく、もう他の人に飛びかからないように注意してくれたらそれでいいから。……急ぐから、もう行くよ」
急ぐという言葉で、ようやく涼音は昴が自分の高校と同じ制服を着ていることに気づいたようだった。
「あれ? ウチの学校の人?」
「……あ、ああ。今日から。転校生。……君も同じ学校なの?」
知っているが、会話として不自然なので、あえてそう言った。
「あ、そうか! 私は制服じゃないものね。私、梓川涼音。二年よ」
「朽木昴。僕も、二年だよ」
「へぇ、朽木君、か……。このあたりに親戚がいたりしない? 私の幼馴染みにも朽木って女の子がいるんだけれど……」
「いや、親戚はいないよ」
「そうなの? おじさんに少し似てるかなって思ったから……。あ、ごめんなさい、勝手なことばかり言ったりして」
「別にいいよ。じゃあ、今度こそ本当に」
「また学校で会えたらよろしくね」
「うん、まあ、よろしく」
曖昧に言葉を濁しながら昴は立ち去っていく。
ある程度距離が開いたところで、昴は大きく溜息を吐いた。
「はぁ~。疲れた。滅茶苦茶、疲れた。……もう帰りたい」
別に緊張する必要もないはずなのだが、下手なことを言って不審がられたくないという気持ちが働いて、いつの間にかガチガチに緊張してしまっていた。
それはともかく、と昴は本当に近くにいるかどうか半信半疑だったが、他人から聞こえない程度の声で話しかけた。
「………護衛役、とか?」
昴が指摘すると、すぐ近くで息を呑む気配があった。
どうやらアンジェリカは近くには控えていたらしい。
「せせせ、拙者! 拙者、あの恐るべき怪物だけは、ダメなのでござるっ!」
「こら、声! 声! 声がデカい!」
幸いにして涼音はとっくに遠ざかっており、他にも人はいなかったが、アンジェリカは手で口を押さえたようだった。
「恐るべき怪物って、犬のこと? 可愛いだろ、ゴールデンレトリバー」
指摘すると、アンジェリカは「ふひぎゃぁ」と形容しがたい声を漏らした。
『拙者、幼少のみぎり、あの恐るべき魔物に桃のような尻を囓られました故、どうしてもあの化物だけは、ダメなのでござる~~っ!』
今度は声を抑えていたが、苦手だという感情は充分伝わってきた。
『しかしながら、確かに身辺警護を請け負っておきながら、お館様の危機を座視した罪は万死に値しまする! こうなれば、この場でこの腹掻っ捌いて果てるしかござらん! にんにん!』
本気か冗談かわからないが、とにかく強烈に責任を感じていることだけは確かなようなので、止めることにした。
「まぁ、いいから。僕も別に大怪我したわけじゃないし」
『ほ、本当でござるか!? お館様は、何とお優しく、寛大であられることか! このアンジェリカ、これよりさらに忠心に励む所存でござる! にんにん!』
お前、本当は馬鹿にしていないかと問いただしたくなるのだが、ぐっとこらえて昴は再び歩き出す。
「そう言えば、何でキンタロウのヤツは僕に飛びかかってきたりしたんだろう。涼音が言っていた通り、無闇に人に飛びかかるようなヤツじゃないんだが……」
べろべろと顔をなめ回したり、思い出してみると尻尾もちぎれるんじゃないかと思うぐらい激しく振っていた。
あれは大好きな相手に会ったときの反応だ。
もしかして、あのキンタロウは昴のことを覚えているんじゃないだろうかと、それにどんな意味があるのかわからない希望を抱きかける。
『おそらくでござるが、海外の論文で、あの忌まわしき獣は人間の感情を見抜くのではないかという研究があったでござる』
意味がわからない話である。
『たとえば複数の紙コップを逆さにしてその中の一つにビー玉を入れて探させる遊びがあるでござろう?』
昴は頷く。
『飼い主がどこのコップにビー玉が入っているかを知っている場合と知らない場合とで、的中率が明らかに違うそうなのでござるよ、にんにん』
「というと……?」
『つまりあのケダモノは、飼い主が「右に入っているぞ、当てて欲しいな」という感情を読み取って当たりのコップを選択している可能性があるということでござる。まったく、人の顔色ばかり窺うなど、卑しい限りでござるな! にんにん!』
「ほうほう」
『であるからして、あの魔物は、お館様を覚えていたわけではなく、お館様が「あいつを知っている、懐かしい」と思って見ていた感情を読み取って、「俺、このぐらい懐いていた――はず」と思って振る舞った可能性があるのではないかと思うのでござる!』
「ややこしい!」
『ふみゅぅ、でござる』
しかし、嫌いだ嫌いだと言っていたはずなのに、犬を使った研究にここまで詳しいのは、やはり知識欲が強いからだろうか。
この先、テストで困った時には教えてもらおうかなとか、この幼女に頭を下げるのはちょっとプライドが許さないかも、とか、そんなどうでもいいことを考えながら駅へと向かう。
気がつけば、張り詰めていた気持ちが、いつの間にか少しだけ楽になっていたような、そんな気がしていた。
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