第6話 初登校
幽月が言った通り、真新しいタワーマンションには昴のための部屋が用意されており、必要と思われる家具や、昴のための服までもが揃えられていた。
だが、たった一日で自分の身に起こった出来事の、あまりのめまぐるしさに疲れ切っていた昴は、その部屋をゆっくりと見て回ることもせず、早々にベッドに入って眠りに就いたのである。
――そして翌日。
まだ朝の六時という早すぎる時間に、昴はマンションを出ていた。
今、歩いているのは、住宅街を出たところから続く河川敷沿いの道である。
別に、幽月達と顔を合わせたくないために散歩をしているわけではない。というよりも、こうして歩いていること自体、幽月の指示に従おうとしているからなのだ。
結局、学校に通ってもらう、という彼女の方針を受け入れることにした。
しばらく世話になる以上、幽月の意向を無視するわけにはいかないだろう。
ただ、さすがに次の日からいきなり登校することになるとは想像もしていなかったのだが。
まるで昴が仕方なくでも幽月の提案を呑むのがわかっていたかのように、既に様々な準備が終わっていたのである。
しかも、今の昴は学校の制服なのだが、通い慣れた市立霧見沢高等学校の、着慣れた、しかし真新しい制服だった。
つまり、何の理由があるのかはわからないが、昴は一年以上通っていた自分の高校に、改めて「転校」することになってしまったのだ。
「なんでこんな慌ただしいんだ? というか、なんでわざわざ元の学校なんだ?」
あまりの用意周到さに、昴は歩きながらブツブツと文句を言う。
『お館様も御苦労が絶えませんな。拙者、ご同情申し上げまする』
どこからか聞こえてくるのは、例によって『魔法のような力』で姿を消しているアンジェリカである。
本気で身辺警護を任されたらしく、声が聞こえてくる方向からすると、昴のすぐ後ろを歩いているらしい。
(労働基準法というか、児童福祉法? ……いや、そういう問題じゃないのかもしれないけれど、これからずっとこの調子なのか……?)
『しかしながらお館様――』
「いや、あの、そのお館様っていうのはなんなのさ?」
河川敷沿いの道で、しかも朝の六時であるため人の姿は決して多くない。
それでも朝の散歩をする人がいてもおかしくはないので、念のため小声で問いかける。
姿は見えないままだが、アンジェリカが首を傾げたような気配が伝わってきた。
『もちろん、朽木昴様は拙者の命尽きるその瞬間まで、我が忠誠を尽くす主人と決めましたが故、お館様はお館様と呼ばなければならないのでござる。にんにん』
色々突っ込みたいところだが、この幼女は、かなり間違った知識ではあるが忍者にかぶれている。
幸か不幸かそれっぽい能力を有していて、さらにはおそらくは幽月あたりの指示なのだろうが、昴を主と定めてしまったらしい。
こう、色々声に出して突っ込みたい!
実際のところ、身辺警護というのは体のいい見張り役なのだろうと理解していた。
いまだに幽月の目的はわからないが、少なくとも何か理由があって昴を手元に置いていることだけは確かだろうからだ。
もちろん、いい気はしない。
ただ、さすがにこの幼女に面と向かっては言えないので、結局は実害はないだろうと受け入れることにしたのだが。
『しかしながら、拙者の思い違いでなければ、お館様はかなり早く家を出ておられるのではござらんか?』
「ん? どうしてそう思うのさ?」
『それは当然、周辺にお館様と同じ制服を着たご学友の姿が見えませぬ故。人通りが少ないのは、護衛としてはやりやすいのでござるが……』
「はぁ……。それはね、あの幽月っていう人の指示なんだよ」
アンジェリカに言われて、昴は改めて溜息をついた。
転校するにあたり、いくつか手続きが残っているらしく、今日の始業に間に合うためにはかなり早めに出かけることになってしまったのだ。
『ははぁ、大変でござるなぁ』
「何を他人事のように。君の親分だろうが」
昴を主人と言うが、そんなものは単なるごっこ遊びに違いない。
そう思った昴だったが、姿の見えないアンジェリカはそのひと言で絶句したようだった。
『な、な、なんたる誤解! 拙者の忠誠は御身にのみ捧げられたものでござるよ! 何なら幽月殿の首級を上げてくることすらやり遂げてみせるでござるよ、にんにん!』
その「にんにん」が信憑性をぶち壊しにしているんだがな、と喉元まで出かかっていたが、大人げないので我慢した。
「わかったわかった。君の忠誠心は信じるよ」
『よかったでござるよ!』
「しかし、忠誠心はともかく、君ぐらいの歳ならむしろ僕よりもそっちの方が学校に通わないといけないんじゃないか?」
アンジェリカの家族構成はよくわからないが、考えてみればこんなところでこんなことをしているのは明らかに不自然だ。
(この子はハーフみたいだけれど、どこの国でも義務教育ぐらいはあるだろうし……)
そう思ったのだが、
『拙者でござるか? 拙者、スキップ制度にて、既に大学を卒業しているでござるよ?』
などと言われてしまった。
「ぼ、僕より高学歴っ!?」
『ふっふっふ、お館様も、勉学でわからぬことがある時は、ぜひ拙者をお頼り下され! お役に立ってみせるでござるよ、にんにん』
(だから、「にんにん」てつけると、途端に胡散臭くなるんだってば!)
しかし、そんな嘘をつくようにも見えなかったので、本当なのかもしれない。
昨日から非常識な出来事尽くめだったせいで、この程度の非常識では動じなくなっていたということもあるだろう。
「そうか。大卒か。凄いな……。僕なんて、学校に行くのが苦痛で苦痛で仕方ないんだけどな……」
『本当でござるか!? 勉強、素晴らしく楽しいではござらんか! わからないことがわかった瞬間の快感。難解な数式を解いた結果、ピタリと一致する数字。もはや法悦でござるよ』
しばし言葉を失う。
さっきまでも変な子どもだと思っていたが、今ではもはや別の生き物のように思えてきた。
『しかし、お館様はどうしてそこまで学校が嫌いなのでござるか? 頭が悪いんでござるか?』
「あのな、本当に頭が悪かったら、すごい傷つくぞそのセリフ!」
『はっ!? ついうっかりと本音が漏れてしまったでござるよ、にんにん。テヘッ』
「色々混ざりすぎだろ!」
さすがに突っ込んだ。
「頭が悪かったからじゃなくて、まぁ、特別よくもなかったけれど……。急に大金が入ってきてさ。色々変なのが寄ってきたからだよ――って、僕はこんな子どもにナニ言ってんだか」
頭が悪かったからじゃないと説明したかっただけだが、余計なことを口走りそうになって昴は苦笑した。
両親と妹の事故で多額の保険金や賠償金が入った。
昴からすれば、家族が消えてお金しか残らなかったことを喜ぶはずもない。
だが、周囲は無責任なもので、冗談なのだろうが無神経に「奢ってくれ」とか「金持ちじゃん」とか馬鹿馬鹿しい冷やかしをする奴が出てきた。
見ず知らずの人間に金を貸してくれとねだられたこともある。
そういう厄介事を避けるためにできるだけ毅然としていたら、今度は気取ってるだの家族を失っても平然としているだの、勝手なコトを言い出す人間が出てきた。
運が悪いことに、学校の教職員も事なかれ主義のサラリーマン教師が多く、孤立は深まるばかりだったのだ。
もうそのあたりで、昴は完全に周囲への期待を捨てた。
だから昴は、学校を――特に高校を楽しいと思ったことなどなかった。
そんな中で、一切態度を変えずに、堂々と接してくれたのが涼音だけだったのだ。
『拙者は子どもではござらん! お館様の忍びでござる~』
子どもと言われたことが気に入らなかったのか、そんなアンジェリカの抗議で我に返る。
「あ~、はいはい、わかったわかった」
かなり投げやりな対応だったはずだが、「わかった」と言ったことで一応満足したのか、アンジェリカは話題を戻す。
『ふぅむ。しかし、そうであるか……。拙者は、ただただ居心地がよかった覚えしかなかったのでござるよ、にんにん』
「それは、スキップして大学を卒業するぐらいなら、頭がいいからじゃないのか?」
『そんなに褒められると照れるでござるよ! キャンパスでも、拙者はみんなのマスコットでござったから、愛されキャラでござるよ』
珍獣扱いだったんじゃないだろうかとも思うが、それは言わないでおいた。
あるいは、現役年齢の学生からすれば、文字通り段飛ばしで追い抜いていく幼女を見て、複雑な気持ちを抱えた人もいたのではないだろうか。
あるいは、もっとストレートに恨んでいる人間もいたかもしれない。
これももちろん指摘するつもりはない。
他人からの悪意など、気づかずにすむのなら気づかない方がいいに決まっているからだ。
――と、河川敷沿いの道の向こう側から近づいてくる人影が見えて、慌てて口をつぐむ。
このままでは一人でブツブツ言っている危ない人になる。さすがにそれは勘弁願いたい。
黙ってやり過ごそうと思っていた昴だったが、相手が視界に入ったところで思わず立ち止まってしまうのだった。
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