夏の終わり
柳佐 凪
負けないためには勝負をしない
「悔しかったら日本一を目指してみろ」
と、父親に言われ、日本一の富士山へ登ることにした。
自宅を出て真っすぐ行った二つ目の角を曲がると、そこに『旅館 富士見』という白い看板を見つけ、とりあえず、今日はこの旅館で一泊することにした。
富士山登頂という大きな目標を前に、まずは相手の全貌を知ることも大切だと思い、富士山が見えるから富士見という名前が付いたであろうこの旅館に泊まることを決めたのだ。
古風というより、古ぼけたその佇まいは、凶悪な伝染病の影響を受けずとも、客がいないことに違和感がない。
受付を終えると、奥から出てきたサハディーという名札を付けた赤茶色の瞳をした不愛想な男に案内されて、富士が見える部屋へと案内された。
こじんまりした居間に、ちゃぶ台とテレビが一つ。20分100円の旧式の奴だ。
旅館という名にふさわしいワクワク感は一切なく、親戚の家を訪れた時に通された応接間を思い出した。
カーテンではなく、障子で閉ざされた窓を早速開いてみると、なんとそこには、富士山が見える――筈だったが、予想に反してビルの壁が目の前に立ちはだかっていた。
サハディーを問い詰めると、つたない日本語で一生懸命に説明してくれた。大げさな身振り手振りの割には、なかなか言葉が出てこない。時折、ウーとか、アーとか唸りながら目を閉じて考える様子に、その気も無いのに難題を課してしまった自責の念が湧いて出た。脳みその隅から隅まで知識を総動員してくれているのが、瞼の上からでもグリグリ動いてるのが分かる眼球が物語っている。
根気よく耳を傾けて、聞き取れたのは、
「そのビルディングの名前は『フジビューホテル』です」
の一言だけだった。
「なるほど、富士山は見えないが、フジは見えるわけか」
なんて、サハディーを苦しめた罪悪感から、納得したポーズをとったものの、やはり悔しくて、さっそく旅館を出た。隣のフジビューホテルからは富士山が見えるに違いない。FUJI VIEW HOTELというからには、見事なマウンテンビューを売りにしているはずだ。
『旅館 富士見』の白い看板の隣には、デカデカと『フジビューホテル』と書かれた緑色の看板があった。全く気が付かないなんて、どんなに近視眼なのだろうと自分を責めた。
ホテルのエントランスへ向かうと、どうも様子がおかしい。明かりが一切ついておらず、曇ったガラスをこすって除くと、ロビーはがらんどうで何もない。
『8月31日もをもって閉店いたします。長らくご愛顧を……』
という張り紙を見つけ、ここにも伝染病の影響が? と思ったが、荒れた様子から、今日本日閉店したばかりとはとても思えなかった。
もう一度、張り紙をよく見ると、日付は今日と同じ日付の8月31日と書かれているが、実は8年前に書かれたもので、ホテルは既に廃墟と化していた。
どうにか富士山を見ようとホテルの裏へ回り込むと、勝手口が少しだけ開いていた。興味をそそられて扉を開くと、地下へ続く階段がある。ひんやりしたカビ臭い空気に恐れを感じたが、自分の情けなさを試されているような気がして、必要のない冒険心に支配され、暗い階段を下りて行った。
地下の扉も少し開いている。小さな木片が挟まっていて、その隙間から、カビ臭さが増した冷たい風がヒュウと音をたてていた。ゆっくりと扉を開いて中を覗き込むと、そこは駐車場になっていて、一台だけ車が停まっている。駐車場の奥には上り坂の先にシャッターがあり、サビて腐った穴から日が差して、かろうじて辺りを見渡せるほどの明かりが不気味な空間を演出していた。
一台だけ取り残された白いセダンにはタイヤは付いておらず、代わりにブロックの台座が置かれている。きっと、近所の悪ガキがタイヤを盗んでいったに違いない。
恐る恐る近づくと、開け放たれたトランクからブルーシートがのぞいている。
廃屋の地下駐車場の
怖いもの見たさに心臓が高鳴る。青いシートに手をかけた瞬間、心拍数が跳ね上がったのを感じつつ、ゆっくりシートを剥がした。
◇
僕にはわかっていた。日本一を目指せと言われて、日本一の富士山を目指したのは、現実から逃げる為だった。負けず嫌いが挫折すると、勝負そのものから逃げるようになる。純粋な向上心を皮肉で隠し、道化を演じてきた。
『日本一を目指せと言われたから、日本一の富士山に登ることにしました』
『その前に、近所の旅館から富士山を見ようと思って宿を取りました』
そう伝えた時の父親の顔を見てやりたい、そんな子供じみた抵抗だったのだ。
しかし、近所から富士山を見る事すら達成できない自分が情けなくて涙が滲んでくる。
きっと、『旅館 富士見』からは、昔は美しい富士山が見えたのだろう。
しかし、隣に大きなホテルが建設され、富士山を奪われた。
細々と旅館経営を続けるうちに、ライバルの『フジビューホテル』は廃業したが、富士山を取り戻すことはできない。美しい富士山が見える大きなホテルには誰も人がいなくなり、富士山を見る人も誰もいなくなってしまった。
廃屋の地下駐車場の廃車のトランクのブルーシートの中身は何もなかった。
僕は、真っすぐに目標に向かえずに、寄り道ばかりして、結局何も手に入れることができない愚か者だ。生きている事自体が間違いなのかもしれない。
これまで、何度もそう思った。なんにでもチャレンジして、どんどんクリアして、大きくなっていく奴と比べて、何と僕は意味のない生をむさぼっているんだろうと。なぜ、誰も僕を殺してくれなかったんだろうと。
自分の力の無さに打ちひしがれて、もと来た階段へ続く扉を開けようとした。
しかし、扉は固く閉ざされて開くことができない。
「しまった! オートロックだったのか? 扉がもうびくともしない……このままここから出られずに、本当に僕はここで死ぬのか」
そう呟いて、鉄の扉に右のこぶしを大きく叩きつけた。
ガーンという大きな音が、閉ざされた空間に響き渡る。
うらめしいその扉を見ると、そこにはこう書かれていた。
『私たちは、日本一のサービスをご提供いたします』
廃業してしまったが、ホテルマンの心は、まだここに残っていた。
「ありがとう、僕は初めて、心の底から生きたいと思ったよ」
僕は、必ずここから出て、細々続く『旅館 富士見』に今度こそ宿泊しようと誓った。
おしまい
夏の終わり 柳佐 凪 @YanagisaNagi
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