スカリフィケーション・ラヴァ―
寅田大愛
第1話
あたしは彼のライターで最後の蝋燭(キャンドル)に火を灯す。銀色のちゃちなライター。親指が焦げそうだ。全部で二十個目の。あたしのお気に入り。アロマキャンドルの割には大きめで、大好きな桃の匂いがするやつの。おい、桃の匂いが部屋中に充満して窒息しそうなんだよって、暗がりのなかから彼があたしに文句を言う。あたしは彼に言い返す。いいじゃん、別に。桃源郷だよ。ここはあたしたちの理想郷なんだよ。だから桃の匂いがいっぱいに広がってるの。
彼は不機嫌な声になって言う。トウゲンキョウ? なんだ、それ。知らねえな。おまえ、ときどきわけわかんねえこと言うよな。
あたしは黙って、掌を蝋燭にかざして、あたしのお気に入りのふわふわのブランケットに包まっていながらも寒さに震えながら両手を火傷するほど近づける。熱を肌に強く強く焼きつけたいのだ。そういうとこ、あたしって変態っぽいなと思う。ここにはエアコンもヒーターも暖炉なんかもありもしないから、吐く息が白い。あたしたちはお金持ちじゃない。窓の外は強い雨で、当分やみそうにない。狭くて、まるでこの世の終わりみたいな、うす暗い部屋のあちこちに橙色の炎の揺らぐ蝋燭をちりばめて、あたしたちの唯一の光源にする。蝋燭の火は好き。あたしの彼がぼんやりとした橙色にゆらゆら照らされていると、原始時代の洞窟に棲む獣みたいに見えるから。それって、すごく色っぽいことなんじゃないかって、あたしは思う。猛獣みたいな彼と一緒にいるんだって、考えるだけでもどきどきしてしまう。暗いところであたしをじっと見つめる彼の眼が好き。思わず瞼の上にキスしたくなる。でも彼はキスが上手だから、あたしがすると、下手くそ、って言って、いつも笑う。
あたしが考えごとしてると、ふらっとそばに寄ってきて、顔を覗きこんできて、さみしそうだなって、言う。あたしがうなずくと、彼は、来いよ、って言って両腕を広げて、あたしを抱きしめてくれる。彼の肌の表面も、冷たい。でも煙草と香水と体臭が混じった彼の匂いは、すごく安心する。彼のためならなんでもしようって、できるはずだって、あたしはそのとき確信する。
今日は雨だから、一緒に家にいようよって彼に言って、ふたりで部屋にこもって絵を描いてたんだった。けだるい雨音と暗さは、創造に向いてる。窓の外で降り続ける雨の音は、あたしたちのことを噂する、世間体ばかり気にする愚かな人たちのひそひそ声に似ていた。でもあたしたちはここにいれば安全ってことを知ってる。
あたしは彼の絵が好き。線の強弱がたまらなく繊細で、硝子細工みたいに冷たくて、脆い。
なに描いた? って、あたしが覗きこむと、彼は今まで描いていたスケッチブックをあたしに見せてくれた。鉛筆の頭をかじりながら、彼は説明してくれた。
――深海魚だよ。この街が、深い海の底になって、住民はみんな深海魚で、とも喰いするんだ。他に食べ物がないからな。真っ暗な街の廃墟に潜んでいて、互いを恐れながら怯えながら暮らしてる。おれはおまえを守って、おれたちは最後の最後まで生き残る。深海魚になった人間の血は、きっと絶望の味がするんだろうな。街で犠牲になった奴の黄色い絶望の血が、泡と一緒に、天国の太陽目指して昇っていくんだ。届かないラブレターみたいに、泡は楽園を恋い焦がれて、虚しく消えていく。そんなイメージだよ。
そんなの、センチっぽい。ってあたしが笑って言うと、彼は、ぎゅっと唇を結んだ。それは、平凡、ってことかよ?
うっかり怒らせたみたいで、あたしは慌てた。違うよ、って言っても、機嫌を直してくれなかった。しまった。地雷を踏んでしまった。平凡である、という言葉は彼にとっては禁忌だった。
彼はジーンズのポケットから、小さいナイフをとり出して、自分の手のひらに、勢いよくナイフで一閃して傷つけた。スケッチブックの上に、ぱたぱたっと赤い血が落ちた。深くはないけど、躊躇いもなかった。
どうしてそんなことするの? ってあたしは思わず聞いた。大きい声が出た。
どうしてもこうしてもあるかよ。おれがしたいんだから、黙ってろよ。彼は言った。
手のひらから零れるように血が出て、スケッチブックは真っ赤に染まった。深海魚の暗いスケッチが違う絵になる。彼は顔を歪めて、明らかに痛がっていた。リストカットをする癖が、彼はいまだに治っていない。むしろ年々ひどくなっているような気がする。
本当は、あたしをナイフで傷つけたかったのかな。あたしが、彼を怒らせたから。だけど、彼はあたしじゃなくて、自分に怒りを向けたんだ。そう思うと、泣きそうになった。
ねえ。あたしは彼の掌に、自分の手を重ねて、そっと、言った。
痛い? だったら――代わりに、あたしの身体に、ナイフで傷、つけてもいいよ。
彼は視線だけあたしに向けて、考えているようだった。彼の長い睫毛が息をするたびゆっくり上下してる。
あたしは自分の言葉を自分の耳で聞いてしばらくして、はっとして、耳を疑った。いまどうして自分がそんなこと言ったのか、全然わからなかった。だって口が勝手に言ったんだもん。理由なんて、ないよ。彼が狂ったことするときは、今のあたしみたいな気持ちに似てるのかな。あたしがしたいって言うんだから、どうしてもこうしてもないよ、なんてね。
彼はナイフの刃をゆっくり舌で舐めて、言った。おれはおまえの皮膚をナイフで裂いて、おまえの身体に、おれのものだっていう、一生消えない印をつけてぇよ。
あたしの身体が、勝手に震え出した。
彼はナイフを革のケースに入れてポケットにおさめて、あたしを強く抱きしめた。耳元でくすくす笑っている。
ほらな。いま、おまえの身体の奥の魂に、忘れられない傷が、できたろ。それは、おれがつけてやったんだ。おまえの柔らかい魂の表面に、赤い血がぷつぷつ溢れて雫のように今にも滴りそうに傷口から浮かび上がってんだろうよ。そんなに震えるなよ。かわいいやつだな、おまえは。
あたしを放して、彼は頭をなでてくれた。おれは異常者だけど、おまえも相当頭おかしいよな。彼は言った。あたしもそう言われてみれば、そうかもしれない、と思った。
本当は、怖かったんだ。あたしは認めたくないけど、本当は、痛いのは嫌だった。でも、ただ彼に優しくされたかった。
怖かった、とつぶやくと、彼はごめんな、と言ってくれた。暖かい声だった。
だんだんぬくもりの蘇ってきた自分の腕で身体を抱くと、ため息が漏れた。胸にじん、と熱い想いが溢れてちらちら光っている。彼が好き。愛してる。もうどうしようもないくらいに。彼になら、あたしは殺されてもいい。きっとあたしは、たとえ彼が世界でいちばん異常者でも、永遠に彼から離れられないのだ。それだけは、もう、わかっている。
スカリフィケーション・ラヴァ― 寅田大愛 @lovelove48torata
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