彼女に会うのは二度目

岩橋 流葉

彼女に会うのは二度目

 少しだけ、嫌なことがあったので、旅に出ることにした。

 仕事がうまくいかない。すきなバンドが活動休止になる。恋人と別れたのは一年前だから、今回の嫌なことには含まれない。けれど、時々学生時代の友達からもらう、幸せな報告が少し嫌だ。私が恋人とうまくいかなくなった頃から、何故か周りのみんなは次々に幸せになっていき、少し淋しい気持ちになった。

 

 つい先日も、大学の後輩から結婚の報告があった。慕ってくれる後輩がいるのは、嬉しいことだった。祝福する気持ちも、勿論あった。そんな中、一番仲のよかった先輩から突然、彼氏ができました、というすごくどうでもよいメッセージが、私のスマートホンに届いた。

「私が一人になったの知ってんでしょうが」

 画面を見た途端、狭いアパートの自宅で叫んでしまった。その後すぐに、とても惨めな気持ちになった。


 そういうことで、今回の嫌なことには、みんなの幸せが含まれているのである。完全にただの僻みなので、ますます惨めな気持ちになっていった。だから旅に出ることにした。自分でも信じられない理由だったけれど、それが一番の理由だった。ただ漠然と、どこかに行ってみたくなったのだ。

 ふと、寝台列車に乗ってみたいと思って調べてみると、運行している寝台列車は一つだけになっていた。小学生の時に乗った札幌行きの寝台列車が、数年前に廃止されたのは知っていたけれど、まさか残り一つになっていたとは思わなかった。札幌行の寝台列車は、楽しかった家族旅行として、よく覚えている。

 唯一運行している寝台列車は、途中で車両が別れて、二箇所に行く列車だった。一箇所は小学生の時、家族で訪れた地方だった。だからもう一箇所の方に行くことにした。二八年間生きてきて、一度も行きたいと思ったことがない地方だった。一ヶ月先の三連休のあとに、なんとか有給休暇を一日とり、寝台列車の切符を買った。行きの寝台で一泊、現地で二泊、帰りの寝台で一泊の旅程を組み、ホテルを予約した。


 一ヶ月後の当日、仕事が終わった後、会社から東京駅に向かい、エキナカのお店で適当に食事を済ませた。発車時間の二二時近くまで、お店でゆっくりしたかったが、混んできたので気を使って店を出た。やることがなくて、発車の二〇分前にホームに上がってみると、列車はもうホームに着いていた。一眼レフカメラで写真を撮る男性の横で、スマートホンで写真を撮ってみた。少しわくわくしていた。

 列車に乗り込んで、先頭車両二階の個室に入る。インターネットで見たとおりの綺麗な部屋だった。列車は二十二時ちょうどに東京駅を出た。適当に車内を散策し、空いている広い個室を覗いてみたり、何となく狭いロビースペースの椅子に座ってみたりしたが、落ち着かなくて自分の個室に戻った。終着駅には七時過ぎには着いてしまうので、早めに寝ようと思って、車窓が真っ黒い海だけになった頃、布団に入った。


 なかなか寝付けなかった。時折、何かの低い音が聞こえたような気がするだけで、車内は想像以上に静かだ。揺れもほとんど感じない。それなのに寝付けないのは、いつもと違う小さな枕と、少し高ぶった気持ちのせいかしら、と思いながら寝返りをうってみる。しばらくすると、列車の速度が落ちてきた。いっこうに眠気がやってこないので、一度起き上がってみた。列車は海の見えない住宅地を走っていた。人のいない沼津駅に停まったのをみて、もう一度布団に入った。そのあとやっと眠りにつけた。



 翌朝は、六時前に車内放送がはじまり、そのチャイムで目が覚めた。朝日に照らされた初めて見る眼下の瀬戸内海を、ぼんやりと眺めながら身支度をした。七時過ぎに終着駅について、駅の窓口でフリーパスの切符を買った。その切符を使って、二日間あちこち見て歩いた。特に何事もなく、二日間楽しく過ごした。旅行の最後の三日目も、昨日と一昨日と同じように、ただなんとなくあちこちを見て歩いた。人のほとんどいないアーケード街を抜けて、木々に囲まれた城山を登っていって、天守閣の横で、ただなんとなく海を眺めた。小さな島がいくつも見える、狭い海だった。調べてみると、それなりに有名なお城だったのに、平日だからなのか他には誰もいなかった。とんびとめじろは見たけれど、人間に会わなかった。それでも、今回の旅行で、一番好きな場所だった。天気と気温を心地よいと感じたのは、いつ以来だろう。もしかしたら、十代の頃以来かも知れない。


 三十分ほど天守閣の横でぼんやりとしてから、城山を降りた。歩いていると、少し暑さを感じた。今日行くところは、お城以外考えていなかった。十二時を回っていたので、食事のとれそうなお店を探して、人通りの少ないアーケード街に戻った。看板の出ている喫茶店があったので、特に考えもせず入ってみた。少し古めかしいけれど、綺麗なお店だった。パスタが食べたかった。最低でも、週に一回はパスタが食べたいのだ。

 お店に入ると、ドアの上部に付いていた鈴が鳴った。奥から出てきた小柄なおばあさんが席に案内してくれた。メニューを見るとナポリタンがあったので、すぐにナポリタンとアイスティーをたのんだ。すぐに、おばあさんがアイスティーを持ってきてくれた。一緒にテーブルに置かれた小皿に、薄切りのレモンとシルバーのピックがのっている。今年になって初めて、氷の入った飲み物を口にした。冷たい飲み物がおいしい私の嫌いな季節は、だんだんと近づいている。三月も最後の週になっていた。アイスティーはレモンをいれずに飲んだ。


「おまたせしましたー」

 民家が並んでいるだけの窓の外を見ていると、緑色のエプロンをした金髪の女の子が、視界の端に見えた。手にしていたアイスティーを少し端に置いて、パスタが置かれるのを待った。それがどうして、なかなかパスタが置かれない。どうしたのかしら、と思って顔を上げる。よく知っている女の子がお皿を両手で持ったまま、驚いた顔をして立っていた。

「あの時の」

 目が合った彼女がそう言った。

「信じられないわ」

 あまりにも突然のことで、それしか言葉が出てこなかった。

「どうしてー」

 そう言った彼女は、前に会った時とかわらない笑顔をみせる。同じように、私も自然と笑みが、こぼれた気がする。ここ数年で、一番楽しい瞬間のように感じるほど、順当ではない時間。

「あ、お待たせ、しました」

 彼女が丁寧に、お皿をテーブルに置いた。少し笑いながら。パスタのことを少し忘れていたのは、私も同じだった。とても綺麗な盛りつけのナポリタン。

「あとで、向かいの席、座っていいですか?」

 彼女が小さくない声で訊いてきた。店内を見渡してみる。私たち二人以外には誰もいない。

「いいけれど」

 店の奥の厨房の方だろうか、僅かに物音がする。

「いいのかしら?」

「だいじょうぶです」

 彼女は元気よくそう言って、満面の笑みを浮かべたあと、店の奥へ戻っていった。シルバーの大きなピアスが揺れていた。


 そうして、ナポリタンを食べ終えた私の前の席には、彼女が座っている。緑色のエプロンは外し、かわりに赤いカーディガンを着ていた。

「私のこと、すぐにわかりましたか」

 誰もいない店内で、店員と客が席に座っておしゃべりするという、ちょっと珍しいことになっている。彼女はちゃっかりと、自分の分のアイスコーヒーまで持ってきていた。

「えぇ、すぐにわかったわ」

「うれしいです」

 彼女の目が細くなる。声は、でかい。

「あなたこそ、私のことすぐにわかったの?」

「もちろんです。すぐにわかりました」

 屈託のない笑顔で彼女が言うので、私も少し幸せな気持ちになったのだが、

「ほんと、前に会った時とかわりないですもん」

 と余計なことを付け加えるので、少し不幸せになった。

「そこは、少しかわっていたかったかも」

「え、あ、そうでしたか。ごめんなさい」

「あ、別にいいの。老けたって言われなくてよかったわ。髪型もかえていないしね」

 何かをかえられた憶えはないから、彼女の言ったことは正しい。

「ぜんっぜんっ、老けてなんかないのにー」

 彼女がまた、もとの笑顔に戻る。頬に小さなえくぼできた。

「でも私は髪型も色も、着ているものも違うのに、よくわかりましたね。前に会ったとき、私まだ制服でしたよ。化粧もしてなかったし。五年以上前ですから」

 懐かしそうに、とは逆のように彼女が言った。しみじみ、とは逆のような気持が、私にはある気がする。五年以上前と同じ話し方で、同じ声で(女の子だからそう声は変わらないだろうが)、同じ笑顔を前に、あまり懐かしさを感じない。彼女に前に会った時のことは、はっきりと憶えている。手袋をしていても指先が冷たく、コートを着ていても凍えるほどの寒い冬、静かに雪が降っている日だった。海の見えるこの街とは違う、内陸の山の中の、小さな町の駅のプラットホーム。話したことと、見せてくれた楽譜を。その時、私は大学生だったから、たぶん彼女は五歳ぐらい年下なのだろう。私は先に旅行に行っている家族の後を追って、電車を乗り継いでいるところだった。その乗り継ぎで降りた駅のホームの冷たいベンチに並んで座って、彼女と話をした。黒い髪に雪がついていたのを憶えている。

「おかわり、いりますか?」

 彼女が立ち上がって言う。

「いいのかしら?」

「うん、スペシャルサービス」

 そう言って彼女は、氷だけになったグラスを持って、店の奥の方に戻っていく。このお店は大丈夫なのかしら、と少し思った。もっと心配しなければならないことや、考えなければならないことはたくさんある。それでも自分の嫌なことなんて、仕事がおもしろくないという、働いている人のほとんどが思っていそうなことなのだ。たまたま、そこに少し嫌なことが続いただけで、旅に出るほどのことだったのか、少しわからなくなってきた。少なくとも今は、それほど深刻になっていない、気がする。

 けれど、彼女に会えたから、旅に出たこと自体はよかった。二八年間生きてきて、一度も意識したことのない場所で、彼女に会えるとは思っていなかった。仮に彼女に会っていなくても、楽しい旅行だったと思うほど、予想以上にいいところだった。

「おまたせしました」

 彼女がスペシャルサービスのアイスティーと、アイスコーヒーのおかわりも持ってきた。私は二杯目のアイスティーには、レモンをいれた。彼女はずっと、ブラックで飲んでいた。


 一時間ほど話をして、店を出る。アーケード街は、やっぱり人がいなかった。

「今更ですけど、ナポリタンおいしかったですか?」

「おいしかったわよ」

「よかった。野菜、私が切ったんです」

 野菜は誰が切っても、余程のことがない限り、味は変わらないと思うけど。彼女の仕事は終わったのか、黒いバッグ片手に、一緒に駅まで歩いている。アーケード街を抜けると、日差しが身体に当たり、また少し暑さを感じた。振り返ってお城のある山を見上げたが、小さい天守閣は見えない。




「私、来月から、音楽教室の先生やることになったんですよ」

 駅の近くの古い転車台と扇形庫の横まで歩いてきた時、彼女が珍しく静かに言った。というより静かな声をはじめて聞いた。

「どこの、音楽教室で?」

「松山です。ここからだと、ちょっと遠いので引っ越します」

 彼女が赤いカーディガンを少し捲った。

「目指してた方は、ちっともうまくいかなくて」

 五年ほど前の雪の日の会話は、いまでもすぐに思い出せる。断片的ではなく、口に出した言葉をきちんと覚えている。その駅も、転車台の残る駅だった。小さな駅舎に短いホーム、陸橋と自動改札はなく、踏切のように線路を渡って外に出る形の駅だった。錆び付いた温泉旅館とタクシー会社の看板があった。

「でも、いつまでもアルバイト生活ってわけにはいかないんでね。就職しなきゃと思って」

 それが、少し不本意なのは、最近のことを知らなくても、話の流れで理解は出来た。

「えらいと思うわ。きちんと現実をみれるのって」

 自分が大した意志もなく働いているせいか、気の利いた言葉はでてこない。彼女は返事をしなかった。少し目にかゆみを感じた。


「前に会ったとき、話したと思うんですけど」

 駅が近くなり、人の往来が見えてくると、彼女が再び話し始める。声が、いつもの状態に戻っていた。語尾の上がりかたや伸びかたが。

「私、結局そういう記憶しかないんです」

「記憶?」

 思わず聞き返した。少し理解に苦しむ日本語だった。

「うん、記憶。あれおかしいかな。将来のことなのに、記憶って」

 先のことを記憶と表現されては、誰だって理解できないと思う。けれど

「そうですよ。記憶、です。そうでありたいと思った記憶。おかしいかな。うん」

 などと言いながら、私が何かを言う前に、彼女は記憶という言葉の使い方に、納得してしまっていた。お願いだから、もう少し説明して、と思う。

「でも最近は、いずれそうなればいいかな、って思うんです。完全に諦めさえしなければ、きっとね」

 そう言って将来のことを語る彼女は、前に会った時と変わっていない気がした。何故だか少し安心する。何となく、彼女の言いたいこともわかった気がした。

 ゆっくり歩いたつもりだったのに、駅に着くと発車時刻までは、まだ二十分もあった。彼女の住まいは駅の近くだと、そこで初めてきかされた。一緒に駅に向かって歩いていたから、てっきり電車に乗るものだと思っていたのに。その上、わざわざ見送りの為に、改札の中まできてくれた。


 日陰に立っていると、彼女がかばんからたばこを取り出す。

「たばこ、すうの?」

「やめようとは思ってるんですけどねー」

 そう言って細いたばこを咥えて火をつける。少し上に向かってゆっくり煙を吐く。

「もてなしいしっ」

 彼女はそう言って笑った。何度か煙を吸っては吐き、を繰り返していくと、だんだんとたばこが短くなっていく。人がたばこを吸うのを、きちんと見るのは、はじめてかもしれない。案外、いい香りだった。

 彼女がたばこを吸い終え、ホームの端にある吸殻いれにたばこを捨てると、それを合図にするかのように、二両だけの特急列車がゆっくりとホームに入ってくる。


「またいつか、きてくださいね」

 別れ際、彼女が手を振った。笑うと閉じたように見える目がかわいい。大きな丸いピアスが、彼女の振る手に合わせるように揺れている。発車ベルが鳴る。

「またね」

 私もそれだけ言って、列車に乗り込んだ。私が乗るのを待っていたかのように、列車の扉がすぐに閉まる。またいつか、ここに来たとしても、その時彼女はここにはいないのだろう。




 席について、列車がスピードをあげていくと、ディーゼル車独特の響きを体に感じる。車窓はすぐに、山林だけになる。

 彼女のことを、よく知っている女の子だと思ったのは、なぜだろう。

 そんな疑問が、ふと浮かぶ。

 名前も知らない彼女のことを、私はずっと憶えていた。たった一度、何年も前に駅で話しかけられて、会話をしただけなのに。彼女の言ったとおり、髪型も服も違っていたし、メイクもしていた。声だけではわからなかったけれど、顔を見てすぐに、あの時の彼女だとわかったのだ。

 特急列車を乗り継いで、寝台列車に乗った後も、彼女のことを考えていた。きちんとした理由が、みつからない。だが、同じように不思議なのは、彼女もまた、私を覚えていたということなのだ。


 どれほど考えても、理由はみつからなかった。最近は、私が彼女のことを覚えていたから、彼女も私を覚えていた、という騙し絵のような答えで無理やり自分を納得させている。彼女が夢を実現させる頃には、私のことは忘れてしまうかもしれない、と思ったこともあるけれど、私が彼女を覚えていれば、きっと彼女も私のことを覚えていてくれるだろう、と少し願望と確信の混じった思いを持っている。私が好きだった彼女は、堂々と将来の夢を語る黒髪の高校生から、金髪でピアスをした、たばこを吸う女性に更新された。見た目は随分変わっても、彼女のことは好きだった。髪色もピアスも似合っていたし、メイクも素敵だった。たばこを吸っているのも素敵だったけど、本人がやめたいと思っていたから、次に会う時までにはやめられているといいなぁ、と思う。

 



 彼女に再会して一年ほど経った頃、会社の都合で勤務先が変わった。新しい上司と新卒の後輩と仲良くなれたからか、そんなに悪くない職場だと感じている。

 今日もまた、会社に向かって人混みを歩きながら、彼女のことを考えていた。彼女のように、未来について話してみたい。子供の頃は普通にできたことを、また少しだけできるように。

 そうやって歩きながら彼女のことを考えていると、自然と歩みは早くなるのだった。それに気づけたことが、心地よい。

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