夕立の追憶
狐
夕立の追憶
縁側に腰掛けると、大きな入道雲がよく見えた。土の匂いと、少しだけ涼やかな風が流れる。夏の朝である。
昨日からひ孫が遊びにきていた。庭で蝉の抜け殻を集めるのが楽しいらしく、きゃっきゃと奇声をあげていた。付けっぱなしのテレビからは、天気予報が垂れ流されている。
「関東や東海は、南岸を通過する低気圧や湿った空気の影響で雨の降りやすい天気です。各地とも一時的にザッと降り方が強まる恐れがあるため、お出かけの際は大きい傘をお持ちください」
蝉の鳴き声が耳の中で大きくうねる。
「夏だからかねぇ」
古い記憶が匂い立った。
*
じっと見ていたら目があった。顔を上げたその人は、豊頰の美少年だった。
「国文解釈の問題、どうも釈然としなくて」
彼は少し困ったような顔でそう告げる。初対面であることを感じさせない口ぶりだった。
「『とりよそひうるはしからむは大方に』?」
「そう、それ」
「どのあたりが?」
聞いた途端、彼は堰を切ったように話し始めた。あとで判明したことだが、彼は気になったことがあると四六時中それについて考えるような質だった。圧倒されていると彼は我に返り、少しはにかんで謝った。一通りしゃべり通してから、お互いの名前を告げた。
入学式の時に再会した時は嬉しかった。文学を学ぶ三國は一部、理学を志す私は二部と所属が異なった。しかし寮に帰れば理系文系関係なく議論し、互いの考えを啓発しあうのが一高の文化である。自然、三國と顔を合わせることも少なくはなかった。
彼と話すのは楽しかった。持っている知識の範疇が異なることも手伝ってか、三國はよく私の思いもよらないことを口にした。三國も私に対して大方同じような心象を抱いていたようで、彼も私との議論を好んだ。議論を重ねるうちに随分と親しくなったように思う。彼の美しい顔が沈思の様を見せたり、信念を言葉にするために熱くなったりするのを見るのが好きだった。
「俺、志願することにした」
戦況が激化し、一高生でも召集されることが増えてきた頃のことだった。一高生は、いうなれば官僚候補、エリートの集まりある。貴重がられ、戦線に送り出されることなど早々なさそうに思えたが、戦地ではやはり若い肉体が枯渇するらしい。三國は召集される前に志願したようだった。お国のため、と小さく呟くのを聞いた。
正直、理解できなかった。自らの命を差し出したとて、それが本当に「お国のため」になると思っているのだろうか。そもそも、「お国のため」といった精神は何に依拠するものなのか。その精神をもってすれば、死ぬことすら怖くないのだろうか。三國ほどの頭脳を持った人間がそのような決断をしたことが、いささかショックでもあった。
しかし、需要があるのは事実である。命の懸かった決断だ。本人も生半可な心持ちではあるまい。すでに決定事項であったそれに対して私が何か言えたものでもなく、「そうか」とだけ呟いた。いつものようにあれこれ議論しても良かったが、なぜだかそんな気分にはなれなかった。平たく言ってしまえば、幻滅したのだと思う。
報道とは裏腹に戦局はますます厳しくなっているようで、友人たちがひとり、またひとりと寮から姿を消していった。私も例に漏れず召集されたが、戦地に直接赴く必要はなかった。自然科学に関する知見を買われ、気象台勤務となったのだ。気象情報を予測するのである。
気象予報は、送られてきた意味不明な文字列を解読するところから始まる。
戦争中、気象情報はすべて機密事項になる。戦地の天気は作戦や戦局に大きく影響するからだ。自国を少しでも有利にするため、国は気象情報を伏せ、それは国民にすら知らされることなどなかった。気象データは軍の内部で、暗号化してやりとりされるのみ。大きな台風が近づいていたとしても同じことである。事前に分かっていれば対策もできただろうに、何も知らない丸腰の村を台風が襲い、沈めてしまったこともある。
「この役立たずがァ!!!!」
ある日気象台に赴くと、私の先輩にあたる予報士が上官に何度も張り手を食らわされていた。気象に問題なしと判断され出立した部隊が悪天候を理由にとんぼ返りしてきたらしい。
気象情報は常に正確であることを求められた。燃料も弾丸も、もはや貴重だった。一つも無駄にするわけにはいかなかった。使うなら、確実に討てる時。視界が不明瞭になると飛行部隊の任務の遂行は難しいため、晴れならば決行、雨や霧の場合は見送りとなる。戦地まで飛んで行ってから雨が降っていると判明した場合、部隊は何もせず戻ってくることになり、大量の燃料が無駄になってしまう。だから、天気は確実に、正確に予測することが求められた。
すみません、すみませんでしたと力なく繰り返される声は全く届いていないかのように、上官は何度も彼を殴った。燃料が無駄になったからか、単なる憂さ晴らしなのか、あるいはその両方なのかはわからないが、とにかく失敗は許されなかった。
私は、予測の腕に自信があった。得意だった。今までも、間違えたことはない。何度も繰り返した作業から導き出される予測と、数日後にわかる実際の天気にズレが生じたことはほとんどなかった。その上、緊張感と責任感をもって取り組んだ仕事だ。何も問題はない。はずだった。
「前方に雨。視界不明瞭。只今より帰還す」
晴れだと予報した日、とある部隊がそう無線を入れて戻ってきたと報せを受けた。納得できなかった。そんなわけがなかった。その日は今まで見た中でもわかりやすく、綺麗に雨雲がはけていた。気圧配置も問題ない。霧も発生しようがない。視界不明瞭なんてあるはずがなかった。
いてもたってもいられなくなって駆け出す。あの上官のことだ、こちらにやってきて予測した私に怒号を浴びせ、何度も殴るに違いない。そうなる前に、こちらから顔を出してやろうと思った。
「失礼します!」
陸軍が詰めている建物の、目当ての部屋に入る。報告をしていたのか、戻ってきたのであろう部隊の数名が上官に敬礼しているところだった。
その中に三國の顔があった。
思わぬ再会に少し怯んだ。三國もこちらに気づいたようで瞳が交わったが、すぐに外された。瞬きほどの刹那だった。久しぶりに見た彼の顔は幾分か痩せていた。何度も議論を交わした時の、あの親しげな色はなかった。胸がカッと熱くなった。よりによってお前なのか。視界不明瞭などとのたまったのは。
上官は私の姿を認め、部隊に退室するように告げる。彼らはそれに従って部屋を出た。私は彼らと入れ違いにずかずかと入室した。三國とすれ違う、と思ったが一瞥もしなかった。自分は今日の気象予測をした担当者であることを半ば喚きながら上官に詰め寄る。
「まちがいなく晴れでした!」
「そうか。だが彼は雨を見たと言っていた」
ありえません、と言いながら天気図を広げて見せた。日付を指し、雲の位置を指し、今日の天気がいかに「晴れ」であったかを力説した。
「気圧も安定していたんです」
「もういい」
「雨雲なんて一つもなかったんです!!」
「もういい!」
張り上げられた声の圧力に、流石に口を噤んだ。顔を上げる。
上官は、想像より静かな表情をしていた。
「たまに、帰ってくるんだよ。ああいう手合いは」
忌々しげに吐き出すのを聞いて、ハッとする。
そこで初めて、三國の心境を推して知った。
その日三國は戦線から帰ってきた。だが、同じ手を二度は使えない。
次の作戦決行の日に向けて、私はいつも通り観測をし、天気図を引いた。
その日も、きれいに晴れる見込みだった。
私の予測を根拠に彼の部隊は飛び立ち、海に散った。
三國は雨など見ていなかった。
あるいは、それは弾丸の雨だったのかもしれない。
いくら志願したからとはいえ、お国のためだなんだと言ったって、怖いものは怖いのだ。弾丸が雨のように降り注ぐ中に飛びこみ、敵機に体当たりする決死の行為など。それは「作戦」なんて代物じゃない、「特攻」などと名前をつけたところで、それは無謀な死であり、命の無駄遣いなのである。
三國も自分と同じ人間であると、そんな当たり前のことに気がつかなかった。
どこかで線引きをしていなかったか。自らの命を差し出すような決断をした彼を、自分とは別世界の人間だと思っていなかったか。全く異なる思想に染まった人間は死すら恐れていないのだろうと、その心境を推し量ることを放棄していなかったか。なぜあのような決断になったのか、知ろうともしなかったのではないか。
同じなのである。今際となれば、恐ろしいと感じるのである。
後日、三國の遺書を目にする機会があった。
「突然でさぞお驚きの事と存じますが、私も身をもって国難に当る時が参りました。愛機すなわち棺桶の中でこれを書いております」
その後はただ、家族の心配やお国のために逝ける喜びなどが、模範解答のような文章で並んでいた。とても本心とは思えなかった。遺書でどれだけ立派なことを書いていたとしても、戦線に飛び込んだ彼らが「特別」であったわけではないのだ。現に三國は、一度戻ってきたのだから。
終戦の日まで、私は無事に生きた。8月15日から一週間経った日、ラジオは次のように喋った。
「関東地方は北東の風、曇りがちで山岳方面ではなお
数年ぶりに聞く天気予報だった。
*
蝉が煩く鳴いている。あの夏も、こう煩かっただろうか。テレビから聞こえる天気予報に、ひとつ息をつく。
明日傘を持っていく必要があるのか判断できるのも、台風の接近が事前にわかるのも、全て平和の証だ。戦争が始まれば、この後の天気がどうなるかなど知ることができなくなる。
「今日はもうじき雨が降るからな、庭で遊べるのもそれまでだぞ」
蝉の抜け殻を夢中になって探すひ孫にそう声をかける。幼い声は元気いっぱいに返事をした。
夕立の追憶 狐 @wreck1214
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