第十四章 勇者はこのぼくだ!

 魔王は眉間にしわを寄せた。

「何の話だ」

「兄ちゃんが黒井明広のことを思い出せなくても……」

 ぼくが、勇者ロイのことをほとんど思い出せないように。


「――兄ちゃんは、兄ちゃんだよ」


 ぼくが勇者ロイのことを思い出せなくても、勇者ロイは、ぼくなんだ。イナもカーロもそう言って、勇者の仕事をぼくに押し付けた。

 魔王だと名乗ったからと言って、ぼくから見たら、目の前に立つ人間はまさしく兄ちゃんなんだ。

 耐え切れない――。両腕の傷から、ぼとぼと、血がこぼれた。傷の痛みで、堪えても堪えても涙が溢れて来る。


「兄ちゃん……お願い……帰ってきて」


 残忍な兄ちゃんでいるのをやめてほしい。昔みたいな、優しくて温厚な兄ちゃんに戻ってほしい。

 どう言えば伝わるのだろう。魔王のふりをしている兄ちゃんに、どう言えば響くのか……。

 魔王は深く、息を吐いた。


「貴様の事情など、私には関係ない」


 兄ちゃん……魔王……もうどっちなのか分からない。どっちでもいいような気さえしてきてしまった。

 魔王は、続けて言う。

「魔王たる私と、勇者たる貴様の、決死の戦いだ。負けた方の死をもってしか、この戦いには決着がつかないだろう」

 それで、剣を構え直すのが目に映った。

 ぼくはさっき取り落とした勇者の剣に向かって走った。腕が妙に脈打った。グー、パー、グー、パー。握ったり開いたり。かろうじて動くが、力が入らないし、自分のものではないみたいに熱い。魔王が先に剣に追い付いて、それを踏みつけた。ぼくがそれを拾おうと走るのを待ち伏せて、剣を構える。


 でもぼくは、剣を拾うことにこだわらなかった。走って走って、そのまま魔王に突進する。意表を突かれたのか、魔王は目を見開いて、身を翻した。ぼくの攻撃は対象を失い、空振りして転がった。


 魔王が悔しそうにぼくを見て、また剣を構えた。その表情も、兄ちゃんにあまりにもそっくりだ。ぼくは目をぎゅっとつぶる。


 兄ちゃん――。


 今度は、魔王は自分から飛び込んできた。ぼくの懐に入り込み、胸を貫こうと剣先を低く構える。

 次のぼくの行動は、奇跡に近かった。剣の動きを見切って、ひらりと身をかわしたのだ。魔王の剣は宙を貫いて、魔王の懐ががら空きになった。ぼくは入らない力を精一杯にこめて、じくじく痛む腕を振り上げた。衝撃と痛みはビリビリと肩を伝わって心臓まで届いたが、ぼくの放った一撃は魔王の腹に入った。

 大してダメージを与えたわけがない。魔王は少し息を詰まらせたくらいで、そんなに動じた様子はなかった。けれど、剣先が揺れたのが分かった。構えが崩れたということだ。ぼくはその隙を見逃さない。剣道で、相手の隙を一瞬たりとも見逃さないように。

 ぼくはグーで、痛みをこらえて指先を丸めた両手で、思いきり魔王の篭手を叩いた。魔王は剣を取り落とし、ぼくに燃えるような瞳を向ける。


 兄ちゃんに、そっくり――。


 ぼくは首を振って、その考えを振り切った。兄ちゃんに似ていると思って攻撃を躊躇えば、その瞬間にやられるのだろう。これは魔王だ……兄ちゃんじゃない。


 そうだ――本当に兄ちゃんは、こんな表情をしていたか? ぼくはそう自分に言い聞かせた。ここまで残忍じゃない、兄ちゃんは、多分。確かに母さんを攻撃し、入院まで追い込んだけれど……でも、昔は違ったもの。優しい兄ちゃんだったもの。どこかで間違ってしまっただけなんだ、きっと――。


 ぼくは魔王が何かする前に、思いきり右足を蹴り上げた。つま先がかすっただけだ。ぼくたちは二人とも、体勢を立て直す。


 魔王が――兄ちゃんの目で――ぼくを射すくめようとする。あのとき――兄ちゃんがぶちギレたあの食卓で血走った目を向けてきたときは――ぼくは目を逸らしてしまった。そして兄ちゃんは母さんを殴りつけて、家を走って出て行ってしまった――。


 今ぼくも反射的に同じようにしようとして――踏み留まった。逸らそうとした目をぐいと引き戻して、魔王――兄ちゃんの瞳を、ぐっと見返す。目を離すもんか、負けるもんか。だって今のぼくは……勇者なんだぞ。負けるな、ぼく!


 魔王はまるでボクシングの選手みたいに拳を構えた格好をして、ぼくに向かってパンチを繰り出してきた。パンチが当たる。頭がくらくらして、目の前がちかちかした。ふらっとしたぼくは、次の一撃を運よくかわすことができた。パンチの失敗で勢いを余らせた魔王は、ぼくの目の前でよろけそうになる。

 ぼくは思いきり体当たりした。バランスを崩していた魔王は、ぼくもろとも倒れ込んだ。まるで馬乗りのような姿勢になって、ぼくの尻の下敷きになった魔王は、忌々しげな目をぼくに向ける。――そうだ、兄ちゃんの目で、だ。


「ばか! ばか!」


 そんな兄ちゃんの顔――魔王に向かって叫んだら、涙で目の前がくもった。


「ばか! 兄ちゃんの、ばか! 魔王なんて、やめちまえ! やめちまえ!」


 息がしづらいのか、魔王が苦しそうに暴れてぼくの腹を殴る、足を殴る。でもぼくは絶対にどかなかった。痛かったけれども、でも、意志の力の方が強かった。負けちゃだめ、逃げちゃだめ。だってぼくが、勇者なんだから!


 いきなり、兄ちゃんの顔が変な風に歪んだ。表情が、じゃない。まるで紙粘土で作ったものを乾かす前に握りつぶすように、目や鼻や口が、上に行ったり左右にずれたりしてひんまがったのだ。ぼくはぎょっとして、思わず魔王から体をどかしてしまった。

 魔王は変身しようとしているのだ。ぼくは呆気に取られてそれを見つめてしまったが、咄嗟に、あるものを思い出した。すぐそばに転がる勇者の剣。


 魔王を倒さなきゃ。

 ……どうやって? ――この剣で。

 ……いつ? ――変身し終わる前に。

 ぼくは勇者の剣を拾って、駆け出した。


 魔王はもう兄ちゃんの顔をしていない。体も人間じゃない。真っ黒で、ぐにょぐにょしていて、得体の知れないただの塊だ。傷ついた手で何とか持ち上げた勇者の剣を、ぼくは魔王に向かって中段に構えた。すうと息を吸い込んで、思いきり「ヤー!」と掛け声を放った。すぐに踏み込んだ。「ドーッ!」


 黒いぐにょぐにょの塊を、胴に打ち込んだぼくの勇者の剣が、見事に通り抜けていった。水の中を通すみたいな重たさが伝わってくる。どこに口があるのか、魔王は断末魔の悲鳴を上げた。


 振り返って残心をとったぼくが見たのは、真っ二つに裂けてのたうち回る黒い塊。やがてそれも力をなくし、魔王だった塊はぴくりとも動かなくなった。

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