第七章 ぼくはロイじゃないんですけど……

「あ……お帰りなさい」

「ただいま、ロイ。もう食事できているわよ」

 イナはそう言い、カーロは呆れたように肩を竦めただけだった。ぼくが体を起こそうとすると、イナが手を貸してくれた。恐らく丸々半日寝ていたはずなのに、まだまだ寝足りない。頭がぼうっとしている。


「本当に、大丈夫なの? もしあれだったら、一旦村に戻って診療士さんに見てもらった方が……」

「いや、いい」

 そう首を振ったのは、ぼくではなくてカーロだ。

「どうして、カーロ?」

「記憶なんかなくたって剣は振れるはずだ」

「あのう」

 そこで、ぼくは口をはさむ。


「ぼくは、ロイじゃないよ。記憶を忘れたんじゃなくて、元々別の人間なんだ。できれば、元いたところに……あ、地球っていう星なんだけど、そこに帰して……」

「笑わせるぜ。ここも地球じゃないか、何言ってやがる」

「え、でも……」

 地球上にこんな場所が存在しないことなどはとうに分かっている。魔法があって、魔物がいて、それで『地球』だって? まさか。


「でも、こんな状態で乗り込んだって、歯が立たないわ」

「――村には、戻らない」

 どうやら、主導権はカーロの方にあるらしい。それでイナは肩を竦めて、ぼくの方を見た。

「本当に、大丈夫?」

「でも……本当に、ぼくはロイじゃないんだ」

 カーロがぼくの方を向いて凄んだ。

「これ以上弱音を吐いたら、お前の頭をかち割るぞ」


 ぼくはぎょっと息を呑んだ。ぼくが怯んだのを見て、カーロは視線を外す。そしてイナはため息をついた。

「今日はお祈りはしないの?」

「え、お祈り……?」

「ここ数日、勇者の使命が嫌だ嫌だって。毎晩月に祈っていたじゃない」

「――そうなの?」


 驚いた部分は、毎晩祈っていたところじゃない。勇者の使命が嫌だって。そんな――仮にも、勇者が?

 ぼくは黙って、夜空を見上げた。少しだけ欠けた二つの月が、同じく黙ってぼくを見下ろす。

 何で、ぼくが勇者の代わりなんかを?

 ――なんで?


 突然カーロが腰を上げて、夕闇の中へ消えていった。イナが何も聞かないところを見ると、それがいつもの常なのかもしれない。ぼくも何も、聞けなかった。

「ロイ、あなた、本当の本当に何も覚えていないの?」

「覚えて……ない。でも、夢で見たんだ。ロイという名前の人間が、森の中で勇者の剣を拾ったところだけは」

 イナはびっくりしたように息を呑んだ。

「何よ、ちゃんと覚えているんじゃない」

「いや、でも、それだけだし……だってなんだか」

「大丈夫よ、ちゃんと覚えているのなら。他の部分も、すぐ思い出せるわよ」


 思い出せるだなんて、そんなこと言われても。ぼくはいい加減うんざりしてきて、口をつぐんだ。先程と同じように、焚火の前で膝を抱えたまま空を見上げた。体が軋む。――これは、明日相当な筋肉痛になるのだろう。


「ロイ、さっきから、自分はロイじゃないって言い張っているけど」

「うん」

「でも私は、あなたはロイだと思うわ。リィミを救ってくれた、あなたのままだと思う。自信を持って、大丈夫よ」

 そこで、何かがひっかかった。ちょっと考えた。

「……妹さん、亡くなったんじゃ」

「ええ……」

 それでイナは、視線を遠くにずらした。どこかに思いを馳せているようだ。ゆっくりと口を開いて、一つ息をつく。


「リィミは殺されたけれど、食われはしなかった。ロイが、フリアをやっつけてくれたからよ。――リィミは死んだけれど、遺体は故郷に葬ることができた。本当にいろいろあったけれど、感謝してる。……ありがとう」


 話すときに、以前と同じ憎悪の光がまたイナの目にともるのが分かった。それで、曖昧に言葉を濁す。

「……いや……」

 月に祈ることで――二つの月に祈ることで、何かが変わるとでも言うのなら、祈ってやりたい。イナの妹の冥福も……そうだけれど、そんなことよりも、母さんのことが心配だ。向こうの世界はどうなっているんだ? 今日は剣道の県大会だったはずだ。ぼくが消えたことは、一体――?


 これが夢であってほしいと願うことも可能だ。長い長い、臨場感がありすぎるだけのただの夢だと思うことも。フリア? キメラ? 神話にしか出てこない化け物だ、現実にいるわけないじゃないか。魔王だとか勇者だとか、ばかばかしすぎる。違うと思うんなら、友達に言ってみろよ。頭がイカレてると思われて、仲間外れにされるぞ。


 常識の範囲では、そう思った。……でも。


 ――ぼくは、見たのだ。フリアを殺す、イナの表情を。川に映る、兄ちゃんそっくりのぼくの顔を。大声で唸りながら飛び掛ってきた、キメラの牙を。そのときの恐怖も、心臓の苦しさも、傷の痛みも、何もかも。


 しばらくそのままの格好でいたかと思う。月が傾いた時、草を踏む音が聞こえ、イナははっと身を強張らせた。ぼくもびっくりして、視線を下げる。そこに現れた長身の影にイナは警戒の表情を解いたけれど、でもすぐに、その目をいっぱいに見開いた。


 現れたカーロは、左手でお腹を、右手で槍を、それぞれつかんでいた。そしてその腹から――カーロの腕を染める、真っ赤な血が、それもたくさん……。


「ど、どうしたの、その傷。カーロ!」


 イナが慌てて尋ねたけれど、カーロは聞いていない。荒い息遣いで肩を上下させ、そのきつい目でぼくを睨みながら、ぼくに歩み寄った。ぼくはえもしれない恐怖に襲われた。カーロのあの視線、さっき見た――そうだ、イナの憎しみの表情に似ている。そしてその憎しみが向いている矛先は、もしかして、ぼく……?


 いや、そうじゃなくたって、カーロの構える槍はぼくを向いているのだ。ぼくは二、三歩、よろよろとあとずさった。


「……ロイ……裏切り者め……!」


 でも、遅かった。カーロは一声叫び、その手負いでだっと駆け出したかと思ったら、ぼくに向かって槍を突き出していた。

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