後篇 pray a soul into sunlit place

第八章 裏切り者は……ぼく?

 百戦錬磨の戦士対、中学生剣道部員。そんなもの、たかが知れている。


 さっと、青い恐怖が再来した。いきなりキレた兄ちゃん。食卓をひっくり返し、母さんに怒鳴りつけ、暴れたい放題に暴れて家を飛び出した兄ちゃん。ぼくはそれを、影で震えながら見ているしかできなかった――そのときも、それからも。


 あのときと同じだ。何でカーロが怒っているのか分からない。もしかして、ぼくがさっき、勇者は嫌だとか、弱音を吐いたから? ――でもそんなこと、ぐだぐだと考えている余裕はなかったようだ。一瞬で、カーロの槍はぼくの顔を捉えていた。火で焼けたような痛みが、鼻を横切って左の耳から右の耳まで、走る。

「ぎゃあっ」

 ぼくは地面に転がって、痛みにのた打ち回った。カーロは荒く息を整え、ぼくに向かって第二撃を打ち込もうとする。そのとき金縛りが解けたのか、イナが慌てて、ぼくとカーロの間に割り込んだ。


「一体どうしたって言うの? 落ち着いてよ、カーロ!」

「そこをどけ……イナ」

「説明しなさいよ! 何があったの?」

 カーロは荒く、息をついた。

「ロイが……裏切って、俺を殺そうとした」

「何を言っているの? ロイはずっと、私と一緒にいたのよ」

「……じゃあ、お前たち二人がぐるなんだな」

「カーロ」


 カーロはさっと槍を裏返すと、目を丸くしたイナの懐に、その柄を鋭く突き出した。鳩尾を突かれたイナは、いともあっさりと、その場にくずおれる。

 そして、ぼくとカーロとの障壁が消えた。カーロは真っ直ぐに、ぼくを見つめる――いや、睨む。反してぼくは、震えながらカーロを見上げるしかない。

「あ、あの……ぼく……」


 あのときと、一緒だ。振り向いた途端に十匹のキメラがぼくに歯を見せていたあのときと。そしてちゃぶ台をひっくり返した兄ちゃんが血走った目をぼくに向けた、あのときと。でも――。


 そのとき、カーロの手から槍が落ちた。ぼくは別の意味でびっくりしたけれど――そうだ、とてつもない量の、失血だ。カーロは青い顔で、その場に倒れこんだ。

「カ、カーロさん……」

 ぼくは震える声を絞り出した。体がこの場を離れる方向に勝手に走り出そうとした。ぼくは足をぎゅっと地面に縫い付けて、その衝動をやっとのことで抑え込む。


 いや――それともここで、二人には背を向けてしまうべきなのか? こんな世界も、勇者の職業も、ぼくにとっては関係ない。だってぼくはロイじゃないんだもの。


 でもその時ぼくをその場に引き止めたのは、ぼくの勇気などではなかった。弱々しく、口を開いたカーロの方だった。

「逃げないのかよ……ロイ?」

 まさに葛藤していたぼくは、その言葉にはっと立ち竦んだ。

「これでめでたく、二人とも倒れただろう。ここで俺たちを殺して逃げれば、もう誰も、お前を勇者だと鼓舞しないじゃないか」

「それってどういう……」

「違ったのか? じゃあ何で俺を襲った?」

「――ぼくじゃないよ。そんなこと、ぼくはしてない」


 震えながら……それでもぼくは、カーロに歩み寄った。怖かったので、カーロの手元にあった槍を遠くに放った。カーロが恨めしそうにそれを視線で追う。


「あ、あの……本当に、ぼくじゃないよ」

 つつ、と顔の傷から血が滴って、ぼくの顔を濡らす。痛みに涙がにじんで、それがまた傷にしみた。

「じゃあ、おれが見た影はなんだった? お前はちゃんと、自分のことをロイだと名乗ったぜ」

「そんな……」

 カーロは腹を押さえて、苦しそうに顔をゆがめた。

「――でも、ぼくじゃない。ぼくは、ロイじゃない」

「ぼくはロイじゃない、か。よくも言ってくれたもんだな。昨夜から、記憶を忘れたふりまでしてくれて」

「でも本当に……違うんだ!」


 違うんだよ、本当に、違うんだ! そう叫ぶ声が、心のどこかで反響する。父さんが出て行ったのは、兄ちゃんが壊れたのは、誰のせい? ぼくのせい? まさか!

 傷の痛みとは全く違った感情で、別の涙が溢れてきて、ぽろぽろとこぼれた。

「ぼくは……違う。カーロさんの仲間なんかじゃ、ない。ぼくは黒井隆広なんだ。ロイなんかじゃないし、ましてやカーロさんを殺そうだなんて、できっこないよ……」


 カーロは訝しげに、眉をひそめた。

「まさか。あれはロイに決まって――」

「でもぼくじゃないんだ!」


 ――誰が、兄ちゃんを怒らせた? 誰が、父さんを追い出した? ぼくじゃない、ぼくなんかじゃない。何でそんな目で見るんだよ!


 カーロは、深く、ため息をついて、きっと視線を上げた。

「甘ったれんなよ」

 そのカーロのきつい台詞に、ぼくは言葉を呑み込んだ。

「いい加減にしろ、ロイ。世のため人のために戦うんじゃなかったのか? お前は言ったぞ、自分の命に代えても魔王を倒すと。そのために俺の力が必要だからついて来てほしいと。覚えてないとは言わせないぜ」

「で、でも……カーロさん……」

 立ち上がれないような怪我を負っているくせに、カーロのこの体力はなんなのだろう。ぼくはちょっとおろおろし、カーロは重ねて畳み掛ける。


「勇者の使命が辛くなったんなら、そこに剣を抜き身で置いて、回れ右しろ。父ちゃんの下へ帰れ。魔王は俺とイナで倒す、お前なんか必要ない」

「……父……ちゃん……?」

「ああ。別に咎めはしない。魔王を倒す気がないんなら、邪魔なだけだ。とっとと帰れ!」

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