第九章 犯人はぼくじゃない!

「カ、カーロさん……」


 また、涙がこぼれる。三年前から、幾度となく聞かされてきた言葉。お前んち、父ちゃんいないんだろ? あの家の旦那さん、奥さんと子供を置いて……。

「ぼ、ぼくに……父さんなんか、いない……」


 まくし立てていたカーロが、それで少し目を見開いた。


「父さんは、三年前に出て行った……。ぼくには父さんなんか……父さんなんか……いない……」

 カーロはぼくを穴の開くほど見つめ、息を漏らした。

「それも……記憶違いなのか」

「そんなことない! ぼくの父さんはいない! 母さんを置いて出て行って、それで母さんは……兄ちゃんも……!」


 母さんが入院したときのことを思い出す。もっと正確にいえば、治療室のランプが点灯しているのを、ぐっと拳を握り締めて食い入るように見つめていたときのことを。

 ぼくはそのとき、本当に一人で……傍には誰もいなくて……怖くて……。

 まず兄ちゃんにかけた。何度もかけた。留守番にもメッセージを入れたけれど、来てくれなかった。それで父さんに電話したのは最後の手段のつもりだったのに――。

「と、父さん? 早く来て……あの……母さんが……」

 ――がちゃん。それでお終いだった。

 そのときに思った。ぼくには父さんなんか、いない。


「どういう……ことだ」

 カーロが苦しそうに目を細めた。

「どういうこともこういうこともないよ。父さんは三年前に出て行った。兄ちゃんは半年前におかしくなった。母さんは一月前に体を壊した……でも、ぼくのせいじゃない」

「……ロイ……」

「ぼくはロイなんかじゃない! カーロさんを襲ったのも別の人だ! ぼくじゃないんだ!」


 おかしいのは、ぼくじゃない。間違いない、それは。絶対にそれだけは正しい。狂っているのは、世界の方だ。理解しがたい、変な世界。勇者なんかいやしない。理不尽と不幸に包まれた、むちゃくちゃな世界だ!

 カーロは顔をしかめ、何か考え込む表情になった。ロイなんかじゃない……ロイなんかじゃない……ぼくの体の中で、放った言葉が反響する。


「本当にお前がやったんじゃ……ないんだな」

 ぼくは唇を引き結んで、頷いた。体が震え出しそうだ。

「分かった……疑って悪かった。……イナの鞄からポーションを取ってくれ」

「え……?」

「回復薬だ。――そろそろ無理っぽい。早くしてくれ」


 ぼくは手の甲で荒っぽく涙を拭い、慌てて立ち上がった。ざっと荷物を見回したけれど、何が何だか分からない。とりあえずイナの背負っていた鞄を手にとって戻ると、カーロは自分でポーションを抜き出した。その薬瓶から、一口だけ飲む。

 ざわざわした気持ちが、少しだけ静まってきた。代わりにがさがさ、草が奏でる音がすうっと身に染み込んでくる。

「あ、あの……だいじょ……」

 大丈夫、と聞きかけて、ぼくは目を見張った。見る見るうちに、とまでは言わないけれど、カーロの頬に生気が戻り、腹に大きく開いた傷口からの出血が止まったからだ。


「ロイ……お前の家族は……」

「な、何」

「ロイ……お前は俺に語った。母親は病気で死に、父親と二人だけで生きてきたと。そして兄弟はいないと」

「そ、そうなの……?」

 カーロは体力が戻ってきたのか、体を起こしてぼくの顔を見た。意識に反して流れる涙で、カーロの顔が滲んで見える。


「本当に、お前はロイじゃないのか」

「……うん」

「……信じられるかよ……」

 カーロは悔しそうに空を仰いだ。ぼくも、傷の痛みに顔をしかめつつ、空を見上げる。二つの月夜。

「それじゃあお前は、一体何者なんだ」

「ぼ、ぼくは……黒井隆広」

「ロイ……カヒ……?」

 カーロはうまく聞き取れないみたいだ。ぼくが最初にカーロの名前を聞いた時、日本語に聞こえなかったみたいに。カーロは首を振って、聞いた。


「お前の話だと……両親も、兄弟も、生きているんだな」

「生きている……生きているけれど……」

 ぼくはぐっと、息を呑み込んだ。父さんも、兄ちゃんも、嫌いだ。ぼくと母さんを見捨てて……暴れるだけ暴れ回って……。

「なら、いいじゃないか」

 カーロは力ない笑みを浮かべた。先程までの剣幕では想像もつかない、どこか寂しそうな、やるせない笑みだった。


 ぼくのどこかで、その言葉に反発する気持ちがぽこんと生まれた。目に見えないほどの奥深くで、こっそりと、生まれた。いいじゃないかって? どこが?


 びくびく震えながら食卓に座るときの気持ちを知っているのか? 兄ちゃんが帰って来ない夜には、どこまでも穏やかな安らぎがあったというのに? もう久しく会っていない、記憶の中だけでぼくたちを苦しめる父さんの存在が何になる? 一体どこが、いいっていうの?


 ――だがそれは、自分の意識の領域まで上ってくる前に、続くカーロの言葉にあっさりと打ち消された。

「俺の家族はいない。両親と弟がいたけれど、みんな死んだ」

 キレた兄ちゃんの顔が、荷物をまとめて出て行った父さんの後ろ姿が、瞬時にかき消えた。死んだ、とさらりと言ってのけたカーロは無表情で、その言葉には情緒の欠片もない。


「……そ、そうなの?」

「俺が十三歳の時さ。弟は不治の病にかかっていたんだ。その治療代が家計にかさみ、心を病んだ父親は一家心中を図った。俺は目の前で母親と弟を殺された――この顔の傷も、その時にできたんだ」

 ぼくはびっくりして、カーロの顔を見つめた。顔から首にかけて十字に横切る痛々しい傷痕。

「お、お父さんは……?」

「父親はつかまって、獄死だ。ばかばかしい最期だろ」


 ぼくは淡々と語るカーロに圧倒され、呆然となった。母親と弟を殺され……そして父親は獄中で……。

「カ、カーロさん……そんな……」

 消えてほしい、そんな風に思ったこともあった。暴れん坊の兄ちゃんなんか、どこかへ行ってしまえ……。ぼくたちを捨てて逃げた、父さんと同じように……。


 ぼくの目から、また涙がこぼれた。次から次へ、ぽろぽろと滴り落ちる。カーロが呆れたように言った。

「めそめそするなよ、いい大人が。もう十八だろ」

 ぼくはびっくりして、泣きながら首を振った。

「ぼく、十三歳だよ」

 カーロも、目を丸くした。

「お前……その図体で十三だって言うのか?」


 ぼくは慌てて自分の体を見返した。川で自分の顔を見た時の恐怖を思い出す。映った顔は、十八歳の兄ちゃんの顔だった。だったら体は――?

「もう一度聞くが」

 だいぶ人心地のついた顔で、カーロが言った。

「――お前、ロイじゃないのか?」

 ぼくは頷く。でも、カーロは納得しきれないみたいだ。

「だが、お前はあの剣を使えるよな。あれは、ロイにしか抜けない剣なんだ」

「え……?」

「――お前が、ロイでないはずがない」

 そしてもう一度、自分に言い聞かせるように呟く。

「いくら記憶がないとしても、勇者はお前なんだ」

 それは冷たく、そして重たく響いた。ぼくは思い切り、強く首を振る。

「ぼくは……そんなこと、知らない」

「忘れているだけだ」


 ぼくは唇を噛んだ。傷から流れる血もそのままに、両手で顔を覆い、どこも見ないで嗚咽を漏らした。そして二つの月を見上げた。また、言い知れぬ怒りが湧いてくる。というより、悔しさかもしれない。それが今聞いた非情な話のショックと入り混じって、もう何回目になるのだろうか、また涙がこぼれた。

 家庭環境がむちゃくちゃでもいい。ぼくを隆広と呼んでくれる、そんな世界に帰りたかった。

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