第一章 日本でのぼく
(公開済みの第一話を「序章」と「第一章」に分けました。公開後すぐに読んでくださった方、すみません。読み流して第二章にお進みください)
「……ロイ……クロイ……黒井……」
耳の奥の方で、ぼくの名前を呼ぶ声がする。けれど、空耳のような気もして、それには返事をしなかったのだ。でも、今回ばかりは聞き間違いじゃなかったらしい。
「黒井くん」
「……はい?」
ぼんやりと返事をして、ぼくは目を開けた。白衣に身を包んだ看護婦さんが、ぼくの顔を覗き込んでいる。
「お母さん、検温の時間よ」
「あ、はい」
ぼくはあたふたと立ち上がり、看護婦さんに場所を空けた。看護婦さんは微笑みながら、ぼくの母さんも起こす。母さんは身じろぎした。
どうやら眠ってしまっていたらしい。ちょっと恥ずかしくなって、ぼくは顔をそらした。
何か――おかしな夢を見た。少年ロイ、勇者の剣を拾って、魔王を倒す使命を与えられるのだ。そう、名高き勇者の誕生……。
いつも思うけれど、夢ってなんだか物足りない。こうなったらいいな、という夢はよく見る。部活の剣道で北関東大会に進んでいるところとか、父さんと母さんと兄ちゃんと一緒に仲良く食卓を囲む姿とか。でも夢は夢で、現実は現実。所詮夢ってそんな程度……。
「大丈夫、黒井くん。ぼうっとしているみたいだけど」
看護婦さんの声で、ぼくははっと我に返った。
看護婦さんは母さんの熱を測ると、母さんと二言三言話し、病室から出て行った。母さんは体を起こし、うっすらと微笑んでぼくを見る。
「いつもごめんね、
「うん、本当に、ついさっき。今来たところだよ」
ぼくは口元にやりかけた手を押さえ、めいっぱいの笑顔を作る。
「それより、母さんのレシピを見て、今日は肉じゃが作ってみたんだ。食べてよ」
タッパを開くと、母さんは驚いたように目を見開いた。それからゆっくりと、口の端を持ち上げる。
「ありがとう、隆広は優しいね」
それで、ぼくもにっこりと頷いた。
母さんは、じゃが芋をそうっと口に運びながら、聞いた。
「学校は、どう?」
ぼくはこともなげに答える。
「まあまあだよ」
「部活の方は? そろそろ大会なんでしょう?」
「うん。今日は部活帰り。この間勝ったから、明日は県大会なんだ」
「あら、いけない。それじゃあ今日は早く帰らなくっちゃ」
「うん、そうだね。ちょっとだけ早く帰るよ」
それで、少しだけ沈黙が落ちた。母さんはもぐもぐと、嬉しそうな表情で肉じゃがを頬張る。
「おいしい。ありがとう、隆広」
母さんは、心臓に疾患があるらしい。職場でいきなり心臓を押さえて倒れ、救急車で病院に運ばれたのだそうだ。ぼくはその時、学校で授業を受けていて――連絡をもらって病院に駆けつけたときには、絶句した。
医者はこう話した。日常のストレスと、極度の疲労が原因だと。多くの人間が、こんな風にして過労死の道をたどっていくと。そのときのぼくには、その言葉の意味が、ほとんど分からなかった。というより、簡単に発せられた「死」という言葉に、拒絶の反応を示していたといっていい。
「それで、お父さんは、まだ到着しないのかい」
身を硬直させたぼくを見て、そばにいた看護婦さんが慌てて医者に耳打ちした。医者は驚いたように二言三言聞き返したが、そのまま何も言わずに立ち去ってしまった。
それ以来だ――ぼくはずっと、家で一人。母さんは倒れて入院、父さんは家を出て行って、そして兄ちゃんは――。
「
慌てて現実に引き戻される。母さんが、タッパの中身をきれいに空にして、ぼくに差し出している。
「――兄ちゃんが、何だって?」
少し、つっけんどんになった。
「明広、お母さんが入院してから、一度も姿を見せないから、心配なのよ」
「知らない。夕べから、帰って来ない」
すると母さんは、ちょっと寂しそうに、目を細めた。
ぼくより五つ年上の兄ちゃんは、ぐうたらな狼藉者だった。つい半年前、せっかくいい大学に受かったというのに、その頃からだ、兄ちゃんがおかしくなり始めたのは。
母さんに対して、暴言と暴力をふるう。家の物を壊す。不良な仲間とつるむ。母さんは勤勉な兄ちゃんに期待を寄せていたみたいだったけれど、こんな様子じゃ諦めるしかなかった。
極度の疲労と、ストレス。それって、兄ちゃんのせいじゃないのか……ぼくはよく、そう思った。それでも口に出せば母さんが悲しむから、できるだけ言わないようにはしているけれど。そして母さんは兄ちゃんを全く責めないけれど……。
「兄ちゃんは、毎日ずっと怒ってる。ぼくが作ったご飯も食べようとしないで、日がな一日ふらふらしてる。帰って来ない日もあるし……また友達のアパートを泊まり歩いているんだよ」
「そう……隆広にも迷惑をかけるわね」
「……別に」
それからはまた別の話題――ぼくの学校での事とか、部活での事とか、取り留めのない話題を話した。母さんはよく笑った。その顔を見ていて、ぼくの頬も次第に緩んでくるのが分かる。しかし日が暮れかけていたので、早々に病院を辞すことになった。
真っ直ぐに家へ向かうと、騒然たる居間の様子が目に入る。兄ちゃんが、存分に暴れまわった名残だ。ぼくは陶器の欠片を踏まないように、そうっと家に入った。ちょっと前から、ここはずっと、このままだ。母さんが退院するまで、このままにしておくつもり。
乱雑な居間を抜け、ご飯を食べ、シャワーを浴びて、家中の電気を切ってベッドに寝転んだ。明日は県大会だ。しっかり体を休めておかないと。
誰もいない。静かで、真っ暗。でも心地よい。誰もいないのが、一番気楽だ――。
そんなことを思って、ぼくは、ため息をつく。
それから、部屋の床に置いてある竹刀をぼんやりと見やって、ふいに昼間の夢を思い出した。
――森の中を歩いていたら、剣が一本落ちていました。それを拾った隆広くんの前に、ガイアと名乗る精霊が姿を現しました。そして隆広くんに言いました。
「貴方は勇者です。この世を救う、真の勇者です」
そんなことが、現実にあるわけがない。運命を切り開く真の勇者なんて、いるわけがないんだ。
急に、玄関の扉がガチャガチャ鳴った。兄ちゃんが、帰って来たのか? ぼくはむっくり、体を起こした。
鍵を忘れたのだろうか。苛立たしそうにノブをガチャガチャ言わせ、チャイムを連打した。
――勇者なんて嫌いだ、ぼくは玄関の方を睨みつけながら思った。この世のどこに、そんな救いのヒーローが存在するというのか。そんなものは子供騙しのフェアリーテールでしかない。魔法使いが何? 勇者が何? それがなんの役に立つっていうの? 訳が分からない。
ぼくはどうしようか、迷った。迷ったけれど、体は既に眠ろうとしていた。寝たと思わせればいい――ちょうどよく、家中の電気は消えているんだ。放っておけば、そのうちに諦めて不良な友達のところにでも行くだろう。
チャイムは、ぼくをベッドから引き摺り下ろそうと、けたたましく鳴り続ける。ぼくは耳を塞ぎ、体を丸めるようにして毛布の中にもぐりこんだ。
黙れ!
黙れ黙れ黙れ!
執拗に、ベルは鳴りつづける――。
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