姫さまは朝が弱い


「失礼します」

 部屋の扉をそっと開けた多留比は、もう一度部屋に響くくらい大きな声で、断りの言葉を言った。

 相手は幼なじみとはいえ、この屋敷の主である。しかも、男である多留比から見れば異性、すなわち女人にょにんだ。

 ここにもし、姫付きの侍女がいれば、すぐにしかられていたであろう。姫さまの部屋に、姫さまの許しなく入ってはなりません、と。しかし側付きの侍女はおろか、使用人すらほぼいないも同然のこの屋敷では、注意する者は誰もいなかった。

 ゆっくりと、部屋に足をふみ入れる多留比。薄暗さがまだ残る室内で、じっと目をこらす。 

 お目当ての人物は、すぐに見つかった。多留比の主は、南向きの広い部屋の真ん中の寝床で眠っていたのだ。

 彼が姫さま、と呼ぶ少女の周りには、木簡や竹簡、紙の本や巻物が散らばっていた。まるで嵐が来たような散らばりように、多留比は思わずため息をつく。

「ああ! また夜ふかししたんですね! あれだけおやめくださいと申し上げたのに…………まったく………」

 ブツブツと小言を言いながらも、床にひざをついた多留比は、慣れた手つきで広げられた巻物をくるくると丸める。竹簡や木簡、紙の本も内容別に分けていく。

 瞬く間に整理された書の山の前で、ある種の達成感を得ていた多留比の視界に、もぞもぞと動く物体があった。

「なんだ…………。多留比か。先ほどからうるそうさわぎ立てておるのは」

「…………ございます、姫さま」

 なんだ、じゃありませんよ、まったく……。こめかみをひくひくさせながら、多留比は声のした方へ振り返る。

 そこには、未だに夢とうつつをさまよっているような目をした、一人の少女がいた。彼女は、うつ伏せの状態から、ゆっくりと起き上がって座る。

 どうせまた行儀悪く寝そべって書を読み、そのまま寝落ちなさったのだろう。多留比は、そう予想した。今まで何度もやめてくださいって言ってきたのに。

 事実、燭台しょくだい(ろうそく台のこと)には、溶けきった一本のろうそく(の、なれの果て)が残っていた。

「…………月明かりをでながら読む書も、なかなか良いものよ。それをわからぬとは…………。まったく、はわたしの台詞だ。おぬしはまこと、風流を知らぬの子だの」

 寝起きだというのに、本当によく回る頭だ。

 先ほどまで夢の国にいた少女姫を、多留比は怒りとあきれがこもった目で、にらむように見た。座っている彼女を見下ろすのは失礼なので、多留比も片ひざをついて座る。

 彼女は、眠そうに目をこすった。まだ心地よいまどろみの中にいるのか、目が少しトロンとしている。

 そんな少女姫の様子をだまって見ていた多留比は、はーと深いため息をはいた。

 月明かりで書を読むと目が悪くなるからやめてください、とか。木戸を開けっ放しのままで寝落ちしないでください、とか。ろうそくをつけっぱなしのままで寝落ちしないでください、万が一火事になったらどうしてくれるんですか、小火ボヤさわぎなんて、絶対にごめんですよ、とか。

 …………とにかく言いたいことはたくさんあったが、それをグッとのどの奥に押しとどめると。

 すまぬ、やごめんの言葉を言うどころか、反省の色さえ全く見せない姫の話に、多留比はとりあえず付き合うことにした。

「…………風流を知らぬみやびとは正反対の男で、悪うございました。あいにく僕は、都人みやこびとではありませんから、風流など知らなくとも生きていけますしね」

 風流を理由に、木戸を開けっ放しにすんじゃない、このものぐさ姫め。多留比は、心の中で悪態をつく。

 まったくもってやってらんないとは、このことを言うのではないか。

 一応は主従関係を結んでいるとはいえ、ほとんど幼なじみ同然に育ったため、二人の間には遠慮という言葉はなかった。

「…………わたしに対して、ケンカでも売っておるのか? わたしこそ生まれは都だが、幼いことに半ば追放されたような形で都を追われた身ぞ。それをよく知るおぬしが、まさかそのようなことを申すとは…………。わたしは、悲しい。悲しいぞ。おぬしが人を思いやる心を忘れてしもうたとは…………。さっそく、おぬしのおじじさまに報告申し上げようか」

 いそいそと、姫が筆とまだ何も書かれていない木簡を探す。名案だ、とばかりにニヤニヤと笑いながら。

「や、やめてください!! それだけはどうか…………」

 多留比は、血相を変えた。

 多留比の祖父である老人は、それはそれは厳しい人なのだ。多留比の主である姫に非礼なふるまいをしてしまったと彼が知ったら…………。きっと、多留比の一族が住む里に呼び戻され、日夜みっちりと武術のけいこを受けさせられるだろう。

 実際、多留比が五つか六つの時、いたずらをするたびにしごかれていたものだ。そういう意味でも、多留比にとって祖父は、恐ろしい存在以外、何者でもなかった。

「ほう。では、先ほどの無礼は、いかがいたそうか。仮にも主人であるわたしに働いた無礼を…………のう?」

 文句を言っていた時とは打って変わって、かなり動揺した態度を見せた多留比。

 筆を探す手をピタリと止めた姫は、多留比の正面に向かい合うと。寝間着の袖で口元をかくしながら、目を細めた。

 あ…………。これは、絶対にやるつもりだな…………。多留比は確信した。彼の姫さまは、やるときは絶対にやる人なのだ。

 あくまでも優雅に、それでいて有無を言わせぬ氷の微笑を袖の裏側で浮かべる姫。

 そんな厳しい視線を向けられた多留比は、

「…………すみません。申し訳ございませんでした。どうか姫さまのお優しーいお心で、お許しください」

と素直に白旗を上げた。

「わかればよろしい」

 満足そうに笑った姫は、傲慢ごうまんともいえる態度でうなずいた。多留比の目には、その姿がまるで、開いた扇を持った貴人が、ぱさっとそれを閉じるようなしぐさをしているように見えた。

 寝乱れた寝間着の合わせを正し、立ち上がった姫は、部屋の三隅にある木戸を開け放った。

「多留比。おぬしと話しておったら、わたしのすっかり目も覚めた。支度をして朝餉あさげ(朝食のこと)を取ろうと思うゆえ、先に行って待っておれ」

「わかりました。では、いつもの部屋で、お待ちしております」

 これ以上、この場にいるわけにはいかないとわかっている多留比は、姿勢を正して姫に一礼をする。

 背中の後ろで頭を下げる幼なじみに、姫は静かにうなずいた。

「うむ。頼む」



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