空を映した水たまり

そら

空を映した水たまり

 森の奥にある小さな美術館。看板もかかっていないレンガ造りの建物の前に、背たけも顔もそっくりな幼い男の子がふたり、手をぎゅっとつないで立っていた。

「ここがその美術館?」

 アオが首をかしげた。アカはそんなアオの顔をのぞきこんで、つないだ手をにぎりなおした。

「そうだよ。ぼく、ここが大好きなんだ」

「でも、ぼくはここに来たことないよ。ぼくら、ずっといっしょにいるのに」

 アオは不思議そうに美術館を見上げている。アカはアオの手をぐぃっと引き、中に入ろうとせかした。

「ほら、そんなことより早く行こう。ここは本当にすてきなんだから」

 こげ茶色の木戸をぎぃぎぃ鳴らして開けると、ひんやりとした空気がふたりの顔にあたった。中に入ると、アカはほぅっと小さく息をもらし、アオは目を丸くした。美術館の壁と天井には星くずが散らしてあって、室内を照らすのはそのチラチラとした輝きだけだった。お客はまばらで、みんな床に散ったいくつもの水たまりをのぞきこんでいた。

「さあ、アオ。ぼくらも見に行こう」

「いったいなにを見るんだい?」

 アカはじれったそうにしながらも、水たまりを指差して答えた。

「絵に決まっているじゃないか」

 ふたりは手をつなぎ、他のお客をかきわけて、水たまりのわきにたどり着いた。

 ひざをついて、そぅっと水面をのぞきこむ。水たまりが映し出しているのは、油絵だった。深い森の中に一匹のシカがたたずんでいる。シカの角は大きく立派で、瞳はとても澄んでいた。森の木々や葉は力強く、それでいて優しくシカを包んでいる。シカの足元には白い花が咲き、頭上の木々の間からは青空がのぞいていた。

「見てよ、アオ。なんてすてきな絵なんだろう。このシカはぼくらを見つめているよ」

 アカは絵からアオへと視線を移した。アオは大粒の涙をこぼしながら、笑ったり、顔をゆがめたりしていた。アカが驚いて大声でアオに呼びかけると、周りのお客は口に指をあてて「しーっ」とささやいた。

「どうしたの? どこかいたいの? なにか悲しいことがあったの?」

 アカはアオにだけ聞こえるように小さな声でささやく。アオは首を横にふった。それから、アカの首にぎゅっと抱きついた。小さなアオの体はふるえていた。

「とても優しいね。でも、同じくらい怖いんだ」

 アオはそう言うと、涙をごしごし拭いた。それから、アカの手をとった。

「行こう。最後の水たまりまで、全部見てまわらなくちゃ」

 水たまりの前を離れるとき、アカはこっそりふり返って、もう一度だけ絵を見た。絵の中のシカと目があった気がする。あのシカはずっと、ぼくらを見ていたのかな。アカは足の裏側からぞくっとしたものがはい上がってくるのを感じて、アオの手をぎゅっとにぎり返した。アオの手はひんやりとしていた。

 ふたりはじっくりと水たまりを見てまわった。その間ずっと、ふたりは手をつないだままだった。

 美術館からの帰り道、ふたりは手をつないだまま、森の中の一本道をとぼとぼと歩いていた。

 突然、アオが歩みを止めた。アカが不思議に思ってふり返ると、アオはアカをぎゅっと抱きしめた。そのときだった。

 アオの体がパチンッとはじけて、アカの足元に空色の水たまりができた。アカは、なにが起こったのかわからず、ただ目を丸くして立ちつくした。

 ゆっくりと水たまりを見下ろすと、水面にはシカが映っていた。それは、アカがアオを手に入れたあの日と同じだった。美術館からの帰り道、水たまりの中にシカを見つけ、そして水たまりはアオになった。

「お願い、アオを返して。ふたりでがまんするから。もう、欲しがらないから。ひとりはいやだよ。ぼくには、まだ、アオが必要なんだ」

 シカはゆっくり首をふり、それから大きくうなずいた。さぁっと風が吹き、水たまりがざざざっとゆれた。すると、もうシカの姿はそこにはなかった。ぽろんぽろん、と大粒の涙がアカの頬にこぼれる。

「そばにいるよ」

 アオが抱きしめてくれた気がした。声が聞こえた気がした。いや、気のせいだったのかもしれない。木々の葉がサワサワと子守唄を歌い出す。すき間から差し込んだ光は、アカの立つ道を、その先まで照らし出す。その両わきのは、いつの間にか空色の花がいくつもいくつも咲き乱れていた。



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