三十九章
まるで
もう数日前から敵の足取りは掴めていた。しかし追い立てて守りの薄い
葉州から
猋のおかげで山柏周辺の伏兵に無駄に気を取られずに斂文が籠城戦をしている虞州
曾侭は西南の金州穫司をはじめ泉南地域から遡った街道が徐々に山間に分け入って抜けた先の、小高い丘の連なる谷あいに構えた任州の要衝であり、下流にかけてはここよりもさらに幅を増す大河川
四泉国軍が甜江の堤を築いたのはこの南水門の門前であり、逃がした水を溜めるための貯水槽の他に用意した広大な閑地の池も水門解放後に埋め戻そうとしていたが、敵軍進軍の急報で中断となり今はあちらこちらに放置された大小の盛土が水を吸って黒くふやけているばかりとなっていた。
すべての状況は把握済み、そして待つこと数日、好機は訪れた。曾侭から目と鼻の先、少し離れた郊外で敵軍はついに布陣しはじめた。その数およそ三万、対してこちらは一万弱。やっと少し雨足の弱まった曇天の空、斥候と共に閑地の敵兵を舐めるように見渡す。あれか、と目当ての首を見つけて
少し離れた山林の自陣に戻り、伝令から紙を手渡される。読んで思わず
翌朝、雲は低く垂れ込めて影をつくらず、追い風は少し強い。得物の革鞘を外した。まるで朝に浮かんだままの月牙、鈍く陽を弾いて冷たく光る。
林を抜け、丘を駆け下り、騎上から
目指すはいちばん大きな兵営、慌てふためいて矛を繰り出す雑魚を野牛で蹴散らし、まとめて薙ぎ払い、狂瀾怒濤で進む。しかし陣の近くまで来て急停止した。不審に眉を
雨のせいでにおいが消えていたのだ。黒い群れが後背から走り込んでくる。挟撃。しかしそんなことには
降り注ぐ矢の雨、それは敵味方関係なく。防いで駆け抜け、敵から奪った長槍を大きく振りかぶった。
穂先は衝車を押す歩兵二人の頭を続けざまに貫き全体の動きを止める。その列を庇うようにして前に出たもう一台の戦車が行く手を遮ってきたので舌打ちした。
相手も野牛を先に仕留めるほうが早いと学んだか、執拗に矢で獣脚を狙ってくる。避けて距離をとる合間にも衝車と車馬群が曾侭の門前に辿り着いた。箭楼の上からは怯えたようにひょろとした力ない矢ばかり、なんの攻撃にもなっていない。
やむなし、と邪魔をしてきた車馬に突進し、車輪を破壊した。矛槍が刺さって呻き声を上げ暴れる野牛から飛び跳ねて車上に斬り込む。死骸を蹴り落として繋がれていたうちの一頭を奪い城門を目指す。阻む矢弾を叩き落とし、繰り出される
遠雷が鳴っている。鈍色の雲は厚みを増してどす黒く、まるで宵の口のように暗くなった。
ついに追いつき、容赦なく戦車の馬を斬る。
屋根を崩した衝車の吊り提げていた
「―――この
余裕しかない声音でともすれば朗々と。
「我は二泉国主
長剣を
「只では殺さぬ。捕らえて四肢を引き裂き、辱めて野晒しにしてくれる。まあしかし、いま
呼びかけられた珥懿は斉穹を睥睨して見下ろした。
「私は無駄口を叩く阿呆は嫌いだ。しかもその
対して相手は楽しそうに嗤った。
「生意気だとは聞いておったが、まさかこんな奴だったとはな。いよいよ
刃を構える。
「来い。少し遊んでやる」
珥懿の後ろから当主、斉穹の傍らから泉主、と咎める叫び声が響く。それぞれの臣下たちは助勢するために主の前に出ようとした。しかし当の両人から同時に有無を言わせぬ口調で、
「寄るな‼」
と一喝されて動きを止めた。斉穹はにやつく。
「お前たちが同族でやり合うさまは見ていて愉快だったぞ」
「――貴様ごときが、図に乗るな。五臓六腑、
言うやいなや光の一閃、散る火花、高い音を立てて撃ち合う。大鎌の遣い手はおもに回転と遠心力を使った攻め、それはまるで舞のよう、対する長剣手は薙ぐというより突く。瞬速の突きと
再び
次に来る攻撃の軌道のにおいを嗅げなくても迷って腕を止めてはならない。止めれば死が待っている。崩れた車馬を盾にし、あるいは城壁の側面を跳び台にして上から斬り込み、あるいは足許を横薙ぎし、交わらせた剣が紫電を放つ。
ひときわ激しく撃ち交わし間合いをとる。互いの刃は共鳴して震えた。
「――なぜ四泉に手を貸した。我の傘下に入っておれば楽ができたものを」
「貴様には積年の怨みがある。長年我々に干渉し一族に亀裂をもたらした罪はその命で償ってもらう」
斉穹は含み笑った。「少しつついただけで
「それはお前が決めることではない」
「所詮、どんなに優れた徳と技能を有するとしても、泉外人には生きるための水は与えられない。たまたま運の良かったお前たちが湧き水の地を占有しいい気になっておったにすぎぬ。水が
「お前にはすでに二泉があるというのに、なぜわざわざ他国を侵す」
「夷狄ごときが我に説教しようというのか?」
言うやいなやの斬撃はとてつもなく重い。大釤の平で受け止めた珥懿は息を詰めて中腰になった。察した斉穹は口端を嘲笑に歪めた。
「やはりな。その
力づくで連撃を重ね、退った相手の不意を突いて下から斬り上げる。見切って辛くも
澄んだ高音を立てて兜が小雨になった空に舞い上がる。伏せた白い濡れ顔が敵のもとに
「これは驚いた……女か」
たしかに長身ではあるが細い腕、それほど太くはない斉穹の半分も無い。
敵の唖然とした声に応えることなく、珥懿は上がりつつある息を密かに整えた。
「ふん、なおのこと都合が良い。族主がこれほどの美貌とは知らなんだ。お前が我に下るなら
「うすら寒い
珥懿は手近の横転した車馬の残骸に駆け上がった。叩きつける水とぬめる泥、それらに
「我が
主の鼓舞に持ち直した
雨ではない、水気のある――何かが額で跳ねた。浴びた珥懿は一瞬茫失する。すかさず斜めに払われた刃をすんでのところで避け、大きく距離を取った。
時差を置いて髪の
その場に屈み込んだ敵を斉穹は興味深そうに見ていた。
「やはり
珥懿はなおもえずきながら霞む目で斉穹が剣を構え直すのを見た。彼は鼻を鳴らす。
「卑怯だと思うか?だが長年我が国に鼠を紛れ込ませ汚い手で利潤を得ていた
そうして笑みを引いた。
「遊びは
仲間の叫びが聞こえた。まともに毒を浴びた目の視力がはっきりと戻らない。己の息づかいだけが聞こえる。ちかりと頭上に光が
高速で振り下ろされたはずの刃は珥懿には何故かゆっくりと移動する星屑に見えた。それは落下して燃え尽きる前に
「――――‼」
散瞳した目をさらに驚愕で
「――――沙爽」
同時に滑り込み倒れ伏した
「二泉主!もう無駄に血を流すことはお止め下さい。これ以上争っても何の益にもなりません!」
斉穹は片眉を上げた。地鳴りが聞こえて頭上を見る。応援の族軍が上西門からなだれ込んで来るのが見えた。
「四泉主、いいや、沙爽鼎添。我の相手はお前ではない。我はただ請願に答え応じて助力したのみ。兄妹喧嘩は当人同士でつけるが良かろう。やれやれ、仕方ない。決着するまでもう少し遊ぶとするか」
顎をしゃくった。珥懿は得物を持ち直すと立ち上がる。
「牙公!無理です、その体では!」
「お前は自分の成すべきことを為せ!」
同盟主の喝破の咆哮に沙爽は痛みを忘れる。
珥懿は激昂も露に
「斉穹朋嵒────‼」
「来い、駄犬‼」
吠えて再び刃を交わらせる二人を沙爽はただ見守るしかない。血の滲む肩を押さえて屈み込んだ。
ふと、────背に声が掛かった。それはひどく落ち着いていて、まろやかで、おおよそ戦場にいる者のようではなかった。
「貴方のお相手はこの
慄然としてゆっくりと振り返る。
「戦を終わらせたければ、私を殺すべきです。鼎添兄上」
沙爽は発するべき言葉を持たなかった。久方ぶりに見る彼女は以前の彼女とは到底同じ人とは思えないほど表情が違っている。笑みはなく、ただ淡々と見下ろす瞳は切り出した氷塊に酷似していた。
震えが足許から這い上がってくる。やっとのことで唾を飲み、干上がったかすれ声で愛しいその名を口にした。
「撫羊…………‼」
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