三十九章




 まるで梅雨ばいうの総仕上げといわんばかりに大雨が降り続いた。視界のない悪路、泥の中を進むのは野牛も嫌がる。外套は濡れてかびが生え、雨冷えは無駄に体温を奪う。おまけに敵の微かなにおいまで流れていく。しかし悪いことばかりでもない。ひしめく野牛のいななきと蹄鉄音あしおとは雨粒が地を叩く音に紛れて響かず、率いる軍兵の姿も白煙に滲んで霞む。じりじりと敵の背後に迫りながら距離を狭める上では絶好の天候だった。


 もう数日前から敵の足取りは掴めていた。しかし追い立てて守りの薄い曾侭そじんに乱入されては大事である。住民の以北への避難が完了するまで、こちらは敵と一定の距離を保つ。向こうもけられていることは分かっているだろうが、今のところ急ぐ素振りはない。


 葉州から州にかけて、伏兵がちょろちょろとわずらわしい。幾度か灌鳥を落とされたようで帰って来なかったから、北と西への伝令は諦めた。しかし状況は動くだろうと予想はできた。沙爽は二泉桂州を脱出してから、少しだけ雰囲気が変わった。再度留守番をしていろと言って素直に聞くような性分ではない。とはいえ、まさかヒョウを動かすとは。


 猋のおかげで山柏周辺の伏兵に無駄に気を取られずに斂文が籠城戦をしている虞州鎖南さなんに援護に出、敵を掃討した。しかしその間に二泉主・撫羊軍は虞州を素通りしてじん州へと駒を進めた。穫司の兵が足りない。おそらく西で勝手をしているらしいが、今は気にかける暇はなかった。





 曾侭は西南の金州穫司をはじめ泉南地域から遡った街道が徐々に山間に分け入って抜けた先の、小高い丘の連なる谷あいに構えた任州の要衝であり、下流にかけてはここよりもさらに幅を増す大河川甜江てんこうが街を貫いて流れている。南の城壁は両脇が山の斜面に接続しているからして幅の厚い壁上の歩道は東西への山街道へそのまま通じていた。ゆえに南壁内外には上へと登る為の側道が左右に延び、歩道と斜面の境にも扉のある上東門、上西門をそなえそこから壁内へ出入りできるようになっていた。

 四泉国軍が甜江の堤を築いたのはこの南水門の門前であり、逃がした水を溜めるための貯水槽の他に用意した広大な閑地の池も水門解放後に埋め戻そうとしていたが、敵軍進軍の急報で中断となり今はあちらこちらに放置された大小の盛土が水を吸って黒くふやけているばかりとなっていた。



 すべての状況は把握済み、そして待つこと数日、好機は訪れた。曾侭から目と鼻の先、少し離れた郊外で敵軍はついに布陣しはじめた。その数およそ三万、対してこちらは一万弱。やっと少し雨足の弱まった曇天の空、斥候と共に閑地の敵兵を舐めるように見渡す。あれか、と目当ての首を見つけてすがんだ。


 少し離れた山林の自陣に戻り、伝令から紙を手渡される。読んで思わず哄笑こうしょうした。こんなことなら蓮宿に兵を残しておけば良かったな、と軽口を叩いた。いずれにせよ眼前の敵への襲撃を中止する報ではない。雲気うんきはまあまあ、雨も止んでいる。仕掛けるか、と麾下きかに振れば、力強い頷きが返ってきた。



 翌朝、雲は低く垂れ込めて影をつくらず、追い風は少し強い。得物の革鞘を外した。まるで朝に浮かんだままの月牙、鈍く陽を弾いて冷たく光る。


 林を抜け、丘を駆け下り、騎上から鏑矢かぶらやを放った。それは麗しい鹿の声のように甲高く風に勢いづけられて豪速で飛び、ちょうど天幕を守る兵卒の目を射抜いて鳴り止んだ。


 にわかに色めき立つ敵兵、背後から迫る野牛の群れに太鼓がけたたましく打たれる。しかし遅い。最初の憐れな一人を大釤おおまさかりで撫で斬った。刀身に刻まれた獣の浮き彫りが赤を吸って陰影を強調させる。


 目指すはいちばん大きな兵営、慌てふためいて矛を繰り出す雑魚を野牛で蹴散らし、まとめて薙ぎ払い、狂瀾怒濤で進む。しかし陣の近くまで来て急停止した。不審に眉をひそめて退さがろうとしたとき、背後から怒号を聞いた。


 雨のせいでにおいが消えていたのだ。黒い群れが後背から走り込んでくる。挟撃。しかしそんなことには狼狽うろたえない。こちらは全軍が騎馬兵、機動に関してはのろまな二泉兵とは違う。すぐ方向転換して指示を飛ばす。二手に分かれて後軍の左右に回り込み、車馬を優先して排除する。いくら武装していようと動かしているのは馬と車輪だ。そこを狙えばいとも容易く横転する。水浸しの地面に踏みつけ、標的を探せば前方の車馬が数台、軍から離れていくのが見えた。中心には大層立派な衝車しょうしゃが歩兵によって守られつつ押されている。


 降り注ぐ矢の雨、それは敵味方関係なく。防いで駆け抜け、敵から奪った長槍を大きく振りかぶった。

 穂先は衝車を押す歩兵二人の頭を続けざまに貫き全体の動きを止める。その列を庇うようにして前に出たもう一台の戦車が行く手を遮ってきたので舌打ちした。

 相手も野牛を先に仕留めるほうが早いと学んだか、執拗に矢で獣脚を狙ってくる。避けて距離をとる合間にも衝車と車馬群が曾侭の門前に辿り着いた。箭楼の上からは怯えたようにひょろとした力ない矢ばかり、なんの攻撃にもなっていない。


 やむなし、と邪魔をしてきた車馬に突進し、車輪を破壊した。矛槍が刺さって呻き声を上げ暴れる野牛から飛び跳ねて車上に斬り込む。死骸を蹴り落として繋がれていたうちの一頭を奪い城門を目指す。阻む矢弾を叩き落とし、繰り出される戈戟かげきを押し返した。


 遠雷が鳴っている。鈍色の雲は厚みを増してどす黒く、まるで宵の口のように暗くなった。

 ついに追いつき、容赦なく戦車の馬を斬る。からだが二つにずれて絶命する向こうで歩兵があまりの一瞬の惨劇に及び腰になる。静かに息を吸い込み、中腰で得物を構えると泡を食う敵兵たちに一閃、一人残らず泥を味わわせた。ばけもの、と叫ぶ断末魔が聞こえた。何をいまさら、と鼻でわらった。


 屋根を崩した衝車の吊り提げていたつちまでも落とす。斜めにかしいで地にめり込んだその上に登った。低いところは落ち着かない。誰かに見下されているような気になるからだ。馬をことごとく失った車から人が降りてくるのが見えた。呆れるほど長い剣を抜いて見据えてくる。すかした顔はこちらを小馬鹿にした笑みを張りつけて、今まで出会った人間でいちばん醜陋しゅうろうだと思った。



「―――この泥濘ぬかるみの中よく動くものだ」



 余裕しかない声音でともすれば朗々と。


「我は二泉国主斉穹朋嵒せいきゅうほうがんである。何人なんぴとたりとも邪魔立てすることは許さん。まして顔を隠して奇襲を仕掛けるような泉外人ごときが我に歯向かうなど身の程を知らんようだ」


 長剣をかざした。


「只では殺さぬ。捕らえて四肢を引き裂き、辱めて野晒しにしてくれる。まあしかし、いまひざまずき許しを乞うのであれば命だけは助けてやらんでもない。泉賤どれいとして雑巾ぼろきれのようになるまで使ってやるがな。……お前には口が付いていないのか。なんとか言ったらどうだ。牙族族主、牙紅珥懿がくじい

 呼びかけられた珥懿は斉穹を睥睨して見下ろした。

「私は無駄口を叩く阿呆は嫌いだ。しかもその頓馬とんまから自らの名を音で聞くとは、吐き気をもよおして気絶するところだった」

 対して相手は楽しそうに嗤った。

「生意気だとは聞いておったが、まさかこんな奴だったとはな。いよいよなぶり甲斐がありそうではないか」

 刃を構える。

「来い。少し遊んでやる」

 珥懿の後ろから当主、斉穹の傍らから泉主、と咎める叫び声が響く。それぞれの臣下たちは助勢するために主の前に出ようとした。しかし当の両人から同時に有無を言わせぬ口調で、



「寄るな‼」



 と一喝されて動きを止めた。斉穹はにやつく。

「お前たちが同族でやり合うさまは見ていて愉快だったぞ」

「――貴様ごときが、図に乗るな。五臓六腑、奇恒きこうの腑まですべて引きずり出し、こま切れにして豬厠べんじょに撒いてやる」

 言うやいなや光の一閃、散る火花、高い音を立てて撃ち合う。大鎌の遣い手はおもに回転と遠心力を使った攻め、それはまるで舞のよう、対する長剣手は薙ぐというより突く。瞬速の突きとしのぎを削る甲高い擦り音の鳴る翩翻へんぽんし回転する白刃の軌跡は常人では目に追えない。


 再び沛雨はいうが降ってきた。地面はすでに水を吸いきり新たに落ちたものはその上で溢れる。白い雨足は聞こえるすべてを奪う。気脈の中に流れる無数の綾音は品のない雑音に打ち消されて流される。

 次に来る攻撃の軌道のにおいを嗅げなくても迷って腕を止めてはならない。止めれば死が待っている。崩れた車馬を盾にし、あるいは城壁の側面を跳び台にして上から斬り込み、あるいは足許を横薙ぎし、交わらせた剣が紫電を放つ。

 ひときわ激しく撃ち交わし間合いをとる。互いの刃は共鳴して震えた。くるぶしまで水に浸かって足を滑らし、雨垂れが目に入るのをそのままに双方睨み合う。


「――なぜ四泉に手を貸した。我の傘下に入っておれば楽ができたものを」

「貴様には積年の怨みがある。長年我々に干渉し一族に亀裂をもたらした罪はその命で償ってもらう」

 斉穹は含み笑った。「少しつついただけでほころぶような脆弱なものなら、いっそのこと崩れてしまったほうが良かろう」

「それはお前が決めることではない」

「所詮、どんなに優れた徳と技能を有するとしても、泉外人には生きるための水は与えられない。たまたま運の良かったお前たちが湧き水の地を占有しいい気になっておったにすぎぬ。水が黎泉れいせんのものでないのなら、誰のものになってもいいわけだ。所有者が変わっても涸れないのだからな」

「お前にはすでに二泉があるというのに、なぜわざわざ他国を侵す」

「夷狄ごときが我に説教しようというのか?」

 言うやいなやの斬撃はとてつもなく重い。大釤の平で受け止めた珥懿は息を詰めて中腰になった。察した斉穹は口端を嘲笑に歪めた。

「やはりな。その体躯からだでそんな大げさなものをいつまでも振り回せる筈がない。長打ちは初めてか。――そうか、戦もしたことのない世間知らずだったな!」

 力づくで連撃を重ね、退った相手の不意を突いて下から斬り上げる。見切って辛くもけ反った鉄面にわずかに剣先が触れた。


 澄んだ高音を立てて兜が小雨になった空に舞い上がる。伏せた白い濡れ顔が敵のもとにさらけ出された。纏めていた辮結みつあみが背に流れる。黒いほつれ毛の張りついた頬、細かな露玉が睫毛の上を彩り、青筋の浮いた額と睨んだ表情までもすべてが戦場には場違い。転瞬、構えも忘れ斉穹はそれに見れた。


「これは驚いた……女か」


 たしかに長身ではあるが細い腕、それほど太くはない斉穹の半分も無い。

 敵の唖然とした声に応えることなく、珥懿は上がりつつある息を密かに整えた。

「ふん、なおのこと都合が良い。族主がこれほどの美貌とは知らなんだ。お前が我に下るならめかけにしてやってもいい。一族も泉賤よりはましな扱いにし爵位をくれてやろう」

「うすら寒い戯言たわごとを並べるのもいい加減にしろ根まで腐りきった蛆虫うじむしが」

 珥懿は手近の横転した車馬の残骸に駆け上がった。叩きつける水とぬめる泥、それらにおびただしい血が澱んで絡まる。殺伐とした剣戟と怒号の飛び交う戦場に声を張った。



「我が同胞はらからよ!二泉に改心などあらず!汚らわしい下衆共を鏖殺おうさつせしめよ!死を恐れるな、お前たちの碧血へきけつは私が貰い受ける!驕慢卑劣な奴ばらの首級しるしを取ってはえの餌にしてやれ‼」



 主の鼓舞に持ち直した呵成かせいの気運、珥懿も叫びながら大釤を振りかぶり斉穹に突っ込む。剣を交えるたび、相手もかなり消耗しているのがわかる。しかし不敵に嗤った。繰り出される豪速の風を二度、三度と軽くいなし、懐に深く入らせた斉穹は突如として左手を突き出した。


 雨ではない、水気のある――何かが額で跳ねた。浴びた珥懿は一瞬茫失する。すかさず斜めに払われた刃をすんでのところで避け、大きく距離を取った。


 時差を置いて髪のふさが水溜まりに落ちた。それにはまるで気がつかず、意思によらず震え出した手でへばりついたものに触れた。どす黒く腐乱した、血肉と糞尿――由霧、毒水、へどろのような藤麹とうぎく――そのが頭にぎる。鼻腔に吸い込んでしまった臭気が脳髄に一気に到達し抑える間もなく嘔吐した。喉が燃えるようだ。早鐘の拍動が耳の奥で鳴り、割れるほどの頭痛が危機を訴えて響くなか、力の入らないてのひらで顔を拭った。


 その場に屈み込んだ敵を斉穹は興味深そうに見ていた。

「やはり聞得キコエとは不便なものだ。戦には到底向かぬ。呼吸せねば生きていけないのに、その利きすぎる鼻は重荷にしかならん」

 珥懿はなおもえずきながら霞む目で斉穹が剣を構え直すのを見た。彼は鼻を鳴らす。

「卑怯だと思うか?だが長年我が国に鼠を紛れ込ませ汚い手で利潤を得ていたけがらわしい夷狄なぞに言われる筋合いはないな。聞得などという人外の力を持つのであればこちらも正攻法を守るのは馬鹿げている」

 そうして笑みを引いた。


「遊びはしまいだ」


 仲間の叫びが聞こえた。まともに毒を浴びた目の視力がはっきりと戻らない。己の息づかいだけが聞こえる。ちかりと頭上に光がまばたいた。


 高速で振り下ろされたはずの刃は珥懿には何故かゆっくりと移動する星屑に見えた。それは落下して燃え尽きる前に大星海あまのがわに遮られて見えなくなる…………。



「――――‼」



 散瞳した目をさらに驚愕でみひらかせた。雨水で少しましになった視界に映ったのは星海ではなく白銀しろがねの髪、斉穹の刃は押し退けられた珥懿には届かず、遮った少年の肩口をえぐって通り過ぎた。



「――――沙爽」



 同時に滑り込み倒れ伏したいわおのような野牛の悲鳴がとどろく。壁から大層な高さを落下してきた勢いそのままに地面に叩きつけられ盛大に水飛沫を上げた。そして牛の騎手、珥懿の同盟主は派手に転がったがすぐさま起き直り、よろめきながらも大の字に踏みとどまって両腕を広げ、真っ向から斉穹を睨んだ。


「二泉主!もう無駄に血を流すことはお止め下さい。これ以上争っても何の益にもなりません!」


 斉穹は片眉を上げた。地鳴りが聞こえて頭上を見る。応援の族軍が上西門からなだれ込んで来るのが見えた。


「四泉主、いいや、沙爽鼎添。我の相手はお前ではない。我はただ請願に答え応じて助力したのみ。兄妹喧嘩は当人同士でつけるが良かろう。やれやれ、仕方ない。決着するまでもう少し遊ぶとするか」

 顎をしゃくった。珥懿は得物を持ち直すと立ち上がる。


「牙公!無理です、その体では!」

「お前は自分の成すべきことを為せ!」


 同盟主の喝破の咆哮に沙爽は痛みを忘れる。


 珥懿は激昂も露にかたきに大釤を突きつける。瞋恚しんいの劫火に焦がされた体からただならぬ殺気が噴き上がった。漆黒の両眼までもが燃えて紅蓮に染まったかに見えた。



「斉穹朋嵒────‼」

「来い、駄犬‼」



 吠えて再び刃を交わらせる二人を沙爽はただ見守るしかない。血の滲む肩を押さえて屈み込んだ。



 ふと、────背に声が掛かった。それはひどく落ち着いていて、まろやかで、おおよそ戦場にいる者のようではなかった。



「貴方のお相手はこのわたくしです」



 慄然としてゆっくりと振り返る。しもべを連れた、若い将。服は軽装で髪は後ろでひきつめ小巾ぬので纏めた、一見少年と見紛う端正な面立ち。小柄な体格に合った細身の剣をすい、と向けてみせた。



「戦を終わらせたければ、私を殺すべきです。鼎添兄上」



 沙爽は発するべき言葉を持たなかった。久方ぶりに見る彼女は以前の彼女とは到底同じ人とは思えないほど表情が違っている。笑みはなく、ただ淡々と見下ろす瞳は切り出した氷塊に酷似していた。

 震えが足許から這い上がってくる。やっとのことで唾を飲み、干上がったかすれ声で愛しいその名を口にした。



「撫羊…………‼」




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