三十八章



 虚昏うろくらい感情を掻き消すように荒い足音が聞こえた。


「泉主、交戦がはじまりました!」


 二人は暎景の声に窓の外を振り返る。かすかに黒い霧のようなものが平原の左右から中心へ向かっているのが見えた。

 城から降りるとすでに集った牙族軍が沙爽に道を開ける。煙管きせるをふかしていた侈犧が問うた。

「野牛と馬、どっちに乗る?」

「互いに乗り慣れたもののほうがいい」

 あいよ、と言って馬の手綱たづなを差し出された。跨ったところで姚綾に声を掛けられる。

「本当にお出ましなさるか。戦況を見てからでも遅くはないが」

「こちらは姚綾どのがいれば十分だろう。尻込みは飽きるほどしてきた。人を殺めるのを恐れていては戦はいつまでも収まらない」

 震える声はしかし以前の彼よりも気丈だった。姚綾は目を細めて軍礼れいをすると退さがる。整列した兵のただなかでかぶとを被れば、同じく馬に乗った唯真ゆいしんが近づく。

「四泉主、頌詞しょうしを」

「頌詞?」

「族軍を率いられるからには兵の士気を鼓舞し、聞得キコエの能を高められるよう言祝ことほぎをして頂きとうございます。当主が言うのを聞いたことがあるでしょう」

「だが、私は学もない」

「一言でも良いのです。軍を率いる主が言葉を紡いでからのほうが、兵が喜びます」

「――分かった。少し、待ってくれ」

 沙爽は顎に手を当てた。


 静まりかえり整列した兵士、雨上がりの空は快晴、気温が高まりつつある。目指す平原は地面から立ち昇る水気のせいで蜃楼まぼろしのように揺らめいた。



「……まず、礼を言う。共に戦ってくれることはまさに旱天かんてんの慈雨、これ以上に嬉しいことはない。皆の聞得の力を存分に発揮し、敵を翻弄してほしい。悪辣非道なる二泉を討ち滅ぼし、我らが掴むものはただひとつ、賛美されるべき勝利だ。

 真鳥まとりの玉眼、敏鼻びんび花英はなぶさの薫香、耳には響動とよむ玲韻を。怖れるべきものは何も無い。一丸となっていざ進み、剣を振るえ!これが我らの大いなる牙である!」


 鋭鋒を天に掲げる。兵もそれに倣う。


あめ大風おおかぜから大凪おおなぎ皎々晶々きょうきょうしょうしょうなる天水を戴きし我らに祝福あれ!」



「――――出撃――――‼」



 怒号の喊声かんせいが空気を揺らした。群れは一斉に大地を鳴動させ疾駆する馬は風を切って進む。甲冑で蒸れた体に当たる風が心地良い。

「なかなかどうして立派だったぜ」

 侈犧が長槍を肩に担いで言った。それに頷き、沙爽は剣柄たかびを強く握る。

「作戦どおり、二泉軍側面を攻撃して四泉軍を援護するかたちで良いな?」

「あまり中央に寄ると西側の四泉兵の混乱を招く。俺らは急襲部隊だ。うまくして丘の上の敵本陣を突けたら上々」


 しかし近づいた広大な平原、乱戦になっていると思われた両軍の異様な様子に最初に気がついたのは茅巻だった。


「泉主!なにかおかしい。四泉軍が退いている」

「どういうことだ?」「一旦馬を止めましょう」

 盆地の平原の入口、緩い丘の上で軍馬を急停止させた沙爽らは怪訝に前方を見た。

「あれは……」

 両軍の境は不自然に距離があり、その間に黒く蛇行した線。進発の勢い余って止まれずに後ろから押し出された四泉兵が次々とその中に入っていく、いや、落ちていく。


あなだ…………」


 誰かが呟いて沙爽は目を見開いた。それは東を流れる甜江から四泉の布陣する地点を横目に一直線に通り過ぎ、こちらが立ち止まったすぐ近くまで遠大に掘られた陥穽かんせいだった。

 侈犧が眉間に皺を寄せた。

「なるほど、今まで二泉が本気で攻めてなかったのはこれを仕込んでたってことか」

「牙領戦の時にも作ったという落とし穴か」

「しかも今回はもっと厄介だ」

 見ろ、と指差した。遠くからでも聞こえた轟音、さざめきは濁流となってその溝坑に流れ込んでゆく。

 沙爽は怒りに震えた。


せきを、切ったのか……‼」


 燕麦の話を聞いていれば、護岸がどれだけ大変なものであるか分かろうものだ。しかも悠浪は脆弱な土地、防波堤を作るのがどんなに人手も手間もかかることか。それをいとも簡単に、しかもこの国の民を溺死させるために使うなど。

「水攻めか。しかも物理的に白長城から自陣への攻撃を遮断したな。あれではおかからの突撃が難しいぞ」

「我々が攻める!」

「俺たちが本隊になるっていうのか?連れてきた姚綾軍は九千と俺たちはたったの四十だぞ。対して平原の二泉は見たところ八万くらい」

万騎はんきの戦力は一人あたり百人力だと牙公は言っていた」

「もしそうだとしても敵数の四分の一にもならん。いくら戦慣れしているとはいえ数が違いすぎる」

「戦は数じゃない。兵の練度が高ければそれだけ有利なのだろう。だから牙族と手を組んだのだ。それに、我々が西から二泉を蹴散らして混乱させられれば味方の撤退を援助できる」

 平原を観察していた徼火が冷静な声を上げた。

「どうやら、今さら撤退なんて考えは瓉明軍にはないようよ」

 指差したのは大河、雨で水嵩の増した流れを下ってくるのは舟。

 急拵えのそれは決壊した堤を通り過ぎて岸へ寄り、あっという間に人影が二泉陣地へ上がってくる。さらに西から迂回するのだろう、豆粒ほどの一軍が徐々こちらに近づいてきた。

「やるな。何かしらあると読んで備えていたか」

 侈犧が顎を擦った。あの急流を渡る舵さばきはやはり泉民の為せる技かと感心した。声を張る。


「旗を掲げろ!」


 四泉の軍旗に続き、牙族の旗が高々と揚げられる。風にはためくはくろ。白い雪山を背景に、円の中をさらに小さなものでいた銀の月と、牙と鉤爪かぎづてが誇張された始祖槃瓠ばんこおどる紋章。


「突入‼」


 丘を走り下り突如現れた騎馬群をみとめて二泉軍から太鼓がけたたましく聞こえた。沙爽は剣を抜く。

「四泉主。ご無理はなさいますな。私がお守り致します」

 唯真の馬がぴたりと横に追従する。

「すまない。頼んだ」

「いいえ。失礼を承知で申し上げますが、私がいっとう嫌いなのは年端もゆかぬ若人わこうどが我ら大人おとないさかいに巻き込まれて死ぬことですから」

 子供は死なせません、と言ったのに沙爽は緊張で強ばった顔をただ頷かせた。右にいた暎景が不遜な、とすかさず渋面をつくったが茅巻になだめられる。


 旗を見た四泉の一軍がさらに近づいてきた。

「同盟軍とお見受けする!」

 騎馬の将らしき人物が叫んだのに返す。

「いかにも!我々は先鋒として本陣を突く。平原の歩兵を頼む。瓉明にも伝えてくれ」

 若い少年の声に将が驚いたようにたじろいだ。それで、瓉明は軍には主である沙爽の居場所を伝えてないのだと分かった。王旗も掲げていないからまさか泉主がいるとは思っていないのだろう。

 侈犧の怒号が聞こえた。

「先陣は俺が切る、百はすぐ後に続け!弓弩兵は後方と両側りょうそくから四泉主を中心に散開!雑兵は構わず蹴散らして本営を叩くぞ‼」

 突っ込め、と煽る掛け声に皆一斉に雄叫おたけびを上げる。凄まじい熱量に、勢いにまかせて沙爽も加わった。


 二泉軍は虚を突かれたようにしばし乱れたが、さすがに対応が早い。沙爽たちが突っ込んでくるのを見て方向転換した。特に目立つのが平地において有利な戦車、その数が多い。ほとんどは二頭立て、車軸に突き出した矛槍を備えた車は歩兵にとってはひとたまりもなく、橋を渡してほりをどうにか渡った四泉兵は甲斐なくまるで霜を踏むように潰されていく。かわからは舟を使って二泉側に上陸できたとはいえ多人数で挑めず岸から上がるのを待ち伏せされている。こちらも騎馬とて決して互角とはいえない。車上から突き出される戈戟かげきかわしつつ車馬を止めるのは至難の業だ。


 交戦して斬り結び、駆け抜ける。戦車上から降ってくる刃を避けて防いで、沙爽はただ丘の上を目指して馬を駆った。唯真が前に出て道をひらく。



「四泉主と見受けた‼」



 どこからか声が聞こえたやいなや横から飛んで来た矢が頬をかすめ、思わず速度を緩める。執拗に追ってくる騎馬一隊は徐々に沙爽の馬の周りを包囲した。


「生かして捕らえよとのめい、しかし抵抗すれば腕をね飛ばす!馬を引け!」


 無視した。今ここで止まれば桂州の悪夢の再来だ。

 後ろにひやりと殺気を感じ、振り向くと味方を掻いくぐって接近した敵の一が鉄刀を振りかぶっていた。


「泉主‼」


 暎景が咄嗟に剣を伸べる。しかし、届かない。まずい、と思った時、その兵の喉元にやじりが突き出る。

 崩れた敵兵をさらに斬り捨て押し退け、沙爽の背後に付いたのは女二人。


「後ろはこの姚玉ちょうぎょく緒風しょふうがお守り致す!安んじて前を向かれよ!」


 馬上で弓を操る緒風は先行する唯真の援護もできた。精確に飛ぶ矢が気持ち良いほど敵に刺さる。姚玉はしなやかな身のこなしで左右の波を割り裂いていく。

 疾風迅雷の勢いで沙爽たちは丘の中腹に差し掛かった。敵本陣の白い天幕がもうすぐ目の前に迫っている。



「駆け上がれ‼」



 先頭の侈犧の咆哮が聞こえ、さらに鞭を打とうとした――――と、いきなり平衡を失った。


 がくりと前のめりにかしいだ馬体が横倒しになり、投げ出されて坂を転がる。露草に顔を濡らしつつ素早く身を起こした。荒い息の中で状況を掴むべく左右に目を走らす。咄嗟に左に転がった、刹那、いま居たところに直剣が突き刺さる。呼吸を置かずして振りかぶられたさらなる斬撃を仰向けのまま受けた。


「……ほう?少しはやるようですな」


 暢気な口調とは裏腹に全く力が弱まらない。むしろぎりぎりと軋む刃が眼前に迫る。

「忌まわしき夷狄と手を結んだというからどんな猛将かと思いきや、このようにひ弱そうな王とは」

 意地悪げに笑んだ顔は沙爽に睨まれても意に返さない。目の端で姚玉と緒風が敵と戦っているのが見えた。

「四泉主‼」

 声を上げたのは唯真、二人の間近で敵に鋒先きっさきを向けた。

「離れろ」

「顔を隠した礼儀知らずな蛮族の言うことなど聞くと思うか?それ以上近づけばこの首が飛ぶ」

 唯真はその男に見覚えがあった。

「お前は、牙領戦のときの」

「さあ、我は貴様など全く知らんが」

小童こどもを使って我らを試した愚劣の将軍」

 男は嘲笑った。

「いかにも、さき西伐せいばつ将軍、そして現えい将軍の孫騫在そんけんざいである。四泉主の身柄はこちらに引き渡してもらおう。退け。どのみち寡兵では我らには勝てぬ」

 くつくつと笑った騫在の刃は今にも沙爽の首を横断しそうな勢いだ。

「四泉主も抵抗をおやめなさい。痛い目を見ないと分かりませんか?」

 またなのか、と唇を噛んだ。諦めたくない。今ここで降参すればまた振り出しだ。


 口中に鉄の味が滲んだ。嫌だ、と心で念じて見上げた空は能天気に晴れ渡っている。それを背景にした男、防いだ刀身が細かく震える。揺れる視界に、ふいにかげが射した。と思った途端、眼前の敵は横薙ぎに吹き飛ばされかかる重圧が消えた。


 咳をした顔に迫ったのは大きな黄玉おうぎょくの瞳。見慣れた灰味の体躯は犬と虎狼の混じった四足の獣。

 なぜ、と驚愕し、喚き声が聞こえて首を巡らす。丘の上から二泉兵が逃げ出していく。天幕を突き破る鋼の爪と牙が容赦なく人も掻き裂く。


 いけない、とよろめきながら立ち上がって坂を登り始める。戦場は混乱しているのが分かった。平地でもヒョウ闖入ちんにゅうして二泉兵が自らが作った濠に次々と飛び込む水音がした。


 幕営は破かれ骨組みがあらわになっている。飛沫しぶいたものが点々と模様を描く。



 ――――撫羊が。



 唯真に介助されつつ精一杯急いだ丘の上、気がつけば猋の群れが素早く平原から戻ってきてたむろしていた。

「侈犧どの!」

 呼ばれたほうは困惑して振り返る。

「いったい、何が何だか」

「二泉主は……撫羊は」

 恐々と訊いた沙爽にしかし、歩み寄ってきた姚玉が首を振った。

はかられた。首魁しゅかいがおらぬ」

「どういう」

「本陣とは形ばかりのはりぼてだ。二泉主と沙琴公主、それに王太子の姿まで無い」

「しかし、これが本体のはずだが…いったい、どこに」

 見渡した沙爽の脇の下から獣の頭がずいと突き出た。

「……可弟かと?」

 せ返る生血のにおいをさせながら可弟は荒い息をする。鋭歯に紐で引っ掛けられた極小の筒に気がついた。


 族主からの伝令だった。符牒あんごうで記されておらず、沙爽にも読めた。


「なんとある」

「……二泉主と撫羊は別隊で曾侭そじんへ移動中……⁉」

「なんだって」


 悠浪平原に布陣した二泉軍は平原と東の斂文れんもん軍を攻めている、その間をすり抜けて州を北上しまんまと曾侭へと向かっていたのだ。


「やられた……こちらが囮とは」

「すぐ曾侭へ向かおう。燕麦にも連絡を」

 侈犧は腕を組んだ。

「別隊の二泉主軍は総じて三万ほど。しかし今穫司には族軍一万と少し、曾侭も穫司も州兵は必要最低限しか置いてない。穫司にいる軍を今から曾侭に全軍投入したいところだがここの戦いもまだ終わっていない。万一白長城を越えられた時のために、穫司の軍は動かせない」

「では、我らが今すぐ向かおう」

「東からは敵が多すぎて抜けられねぇ。甜江を渡るのも二泉のいい的になる。とにかく團供だんきょうに戻って体勢を立て直さねば無理だ」

 西から曾侭へ行くのは遠回りだが今はそれしかない。

「といっても、なんとかここを抜けねぇと」

 沙爽は可弟を撫でた。

「抜けるまで、猋の力を借りよう」

「構わないが、いつ血酔ちえいになるとも分からず危険だ。血酔になれば当主をもってしても抑えられぬ。平原を抜けたらすぐに牙領に戻すことをお勧めする」

 姚玉が険しく言ったのに頷き跨った。

「瓉明へは」

「濠からこちら側に来た国軍はさほどもいない。いちど退かせるべきだ。高竺はまだ後衛だ。ここに首魁がいないのであればさらに兵を割き斂文たちの加勢に回らせたい。あなを掘った時点で二泉側からも白長城を攻めにくくなったから分割しても勝機はある」

 ともかくも沙爽たちは猋の出現で大混乱している二泉軍の中を抜けて團供に戻らなければならない。

孩子ぼうず、お前の股肱けらいも連れて先に抜けろ。猋の俊足なら矢も届かん。團供城まで帰ったら姚綾からも高竺へ伝令を送るよう言いな」

「侈犧どのたちは」

「引きつけながら適当にいなしつつ後退する。もし平原外まで追われたらこの人数では防ぎきれんから帰還を諦め、白長城か穫司に散じる」

「分かった」

 沙爽軍の後を追ってきた四泉軍に瓉明へ一時撤退の言伝ことづてを頼み、沙爽ら三人は先に丘を降りる。平原はいまだ混乱状態、再び巨狼の群れが駆け下りてくるのを見て蜘蛛の子を散らすように二泉兵が逃げまどう。しかし、果敢にも矢を放ってくる者、槍で応戦しようと突き出す者もいた。それらを避けて高く跳躍を繰り返し、ひたすらはしった。







 侈犧たちが二泉軍をまいて團供へと帰ってきたのはすっかり陽の落ちたころで、門前からして物々しく静まり返った様相に心がざわついた。灯火が消されて門卒が座り込んでいる。声を掛けると弾かれたように顔を上げた。悄然と疲れ切っているのに問う。


「何があった」

 只事ではない空気に嫌な予感しかなく、こういうのは大抵当たってしまうものだと侈犧は知っている。

「敵の……急襲を受け」

「敵だと?」

 門卒は箭楼やぐらに門を開けるよう指示しながら説明した。

「民にはほぼ被害はありませんでしたが、城が」

「落ちたのか」

 首を振った。詳しいことは彼にも分からないようだった。

「四泉主は」

「ご帰還した時にはすでに不届き者は退散しており、御身にお怪我はございません」

 そうか、と侈犧たちは暗い城下に進んだ。静まり返った街、皆息を殺して怯えている空気だった。


 郡城内もまた不気味な静けさに包まれて、ともかくも兵に休息を命じた侈犧は幾人かを伴って城の中を検分する。走廊ろうかには下官たちや衛兵の死体がまだ放置されたままになっており、生き残った他の群吏たちは状況についていけていないのか茫洋と右往左往していた。


 溜池のへりうずくまる太守の姿を見つけ、傍らでは都水官が人型の水虎を抱えて殺伐とした目を向けてきた。


「牙族の方々」

 怪我をしたのか、團供太守は苦しげに腕を庇った。

「太守、何があった」

蜚牛ひぎゅうを操る者たちに突如として襲われました」

閭門もんを開けていたのか?」

「まるで敵襲の兆しさえなかったのです。鼯鼠むささびのような奴らでした。いきなり田畑の隅に現れてあっという間に城へ……」

 横で都水官が怒りを隠さず吐き捨てた。

「あの賊らは畜牲けだものです。禁忌を犯しました。水虎様に傷を負わせたのです!」

 女が抱き上げた小童は至るところに刺傷があり、おこりかかったように小刻みに震えていた。水虎に傷を付けるのは大罪だ。

「いくら剣で死なないとはいえ、痛みがないわけではございません。あやつらめはまるでたのしむかのように水虎様をなぶったのです。外道です。團供水虎はしばらく伝令にはお使いできません」

 おそらくそれが目的だろうと侈犧たちは顔を見合わせた。「残した牙兵はどこだ」

「城内で交戦となり散らばっておりましたが、いまは後片付けと、多くは三階にいるはずです。泉主もそこに」



 三階の広房ひろまの扉は開け放たれていた。壁には乱闘の痕が見え、赤黒い血糊と飛び散った肉片がいまだ臭気を放つ。小さく灯された燭台のまわりには静けさに相反し兵が密集していた。


「万騎長」「姚玉さま」


 侈犧たちに気がついて人垣が割れる。開いた奥、壇上には銀髪の少年の後姿、その向こう側に横たわる者を見た瞬間、姚玉が駆け出した。

 見えない壁に当たったように足を止める。体の震えが抑えようもなく、荒い呼吸で絶命しているのが誰なのかを呆然と見た。



「…………母上?」



 口にしたのが他人の声のように鼓膜に響く。亡骸の手を握っていた沙爽が振り向いた。顔は涙で濡れている。

「どけ」

 押し退けて、だらりと垂れたそれを掴む。温かさを失って硬直し始めており、どれだけ強く握っても握り返されはしない。閉じた瞼、きりりと結んだ唇も色を失って青褪め、もはや生気が無いことは誰の目から見ても明らかだった。

 姚玉は母の顔を凝視したまま首を振った。


「嘘だ……」


 立ち上がり、怒りの形相で周囲を見渡した。

「どういうことだ。なぜ将が死んでお前たちが生き残っている」

「敵はおよそ百ほどで、万騎長たちが出陣していくらも経たないうちに城に入り込まれました。応戦していましたが窓から縄を掛けて三階に侵入し、姚綾さまを討つと速やかに退いてそのまま門を突破、散り散りに逃げられ追い縋ることかなわず」

「このっ……‼」

 打ち沈んで報告した兵の襟首を引き上げた。向けようのない怒りがさらなる震えとなる。侈犧が腕を掴みいさめれば今度は気が抜けたのか、母親を縋る目で見つめ、覆い被さって慟哭どうこくしはじめた。

「私のせいだ……」

 沙爽は床に座り込んだまま止められない涙をひたすら拭う。

「私が牙公の指示を無視して團供に兵を置いたせいだ」


 蜚牛の敵がいることも分かっていたのに、襲われるはずはないと慢心していた。なぜ姚綾なら大丈夫だと思ったのだろう。城の守りにもっと兵を置いておけば良かった。どうしようもない後悔ばかりが頭を巡る。


 珥懿じいは二泉主と撫羊が悠浪平原に戻るまでに攻撃するのが間に合わなかった。それで山柏に陣を構えたが、二人が本陣にはとどまらないと予想した。次に攻めるなら、族軍のいる穫司をわざわざとすよりも手薄な上流の曾侭を先回りして攻略し、四泉泉畿せんき進軍への足掛かりとしたほうが早い。おそらく珥懿は斂文軍と合流したか二泉主軍を追尾している。牙領から出奔してくるであろう沙爽に、出て来るならば穫司へ行け、と言ったのは、確証はなかったが曾侭が攻められることを読み先手を打つためだったのと、もし違っても沙爽をひとまずは安全圏に駐留させることが出来るという理由からだ。


 それなのに、沙爽はその計画を台無しにした。今頃穫司に入っていればそのまま留め置いた姚綾軍と追ってきた珥懿軍とで二泉主軍を包囲し、曾侭の中からも敵兵を囲み蜂の巣にすることが出来たのだ。それなのにわざわざ姚綾軍を割き、團供に連れてきたことで穫司から駐留兵を移動させられなくなった。今から沙爽たちが曾侭に着くまでに珥懿軍だけで二泉主軍と交戦しなければならない。じん州の真上は泉畿のあるすい州、敵に曾侭に入られては北の防衛線が一気に縮まる。


 なぜもっと考えなかったんだ、と沙爽は己を呪った。悠浪で瓉明を加勢することだけを考え、肝心の二泉主と撫羊がまさかいないなど頭にぎりもしなかったのだ。また、蜚牛の兵の強さは砂熙さきや淡雲の被害を見て知っていたのに、直近では瀧州でも襲われて自分たちが直接被害に遭ったからこそ寡兵で進軍してきたいうのにかろんじた。これは将である沙爽の罪だ。代償に皆の心の依り処である伴當はんとう、それも絶対にいなくてはならない重鎮を失い族軍の士気は目も当てられないほど落ちている。


 ひたすら水を零すしかない沙爽の脇に誰かが立った。そのまま襟首を掴まれて引っ張り上げられる。


「いつまでも泣くな!懺悔ざんげなどしても死人はよみがえらない。姚綾へのそれは弔いの時まで取っておけ。それよりも今後のことを練らねば当主が苦境に立たされる。今よりもっと仲間が死ぬんだ。しっかりしろ、お前も俺らの猶主あるじなんだからな」

 言った侈犧が見渡す。「城に残った者も、よく戦ってくれた。同盟民に被害が無かっただけで良しとしなけりゃならん。あらかた後片付けが終わったら休んでくれ」

 その言葉を皮切りに兵たちがぞろぞろと広房を出て行く。次いで母親の上に伏したままの女を見下ろした。

「姚玉、辛いのは分かるが一刻を争う」

「いまは夏だぞ!もう二日もすれば顔も分からぬほどに腐り落ちてゆくのだ。最期の姿を目に焼き付け頭に刻んでおかなくてどうする」

 幼い子どものように姚玉は泣き喚く。「当主と一家に申し訳が立たぬ。私が代わりに残っておれば」

 唯真が横に座った。

「姚玉さま、姚綾さまだけでも氷室ひむろに置いてもらえないか太守に頼んでみましょう。早いところ戦を終えて領地にお連れできるよう、いまはおこらえください」

 穏やかな呼びかけに姚玉はやっと顔を拭ったが憎々しげに怨言を吐いた。

「絶対に許すものか。殺してやる……必ず私が二泉を皆殺しにしてやる。……四泉主」

 呼ばれて沙爽は動揺する。気の強い眼に射竦められた。

「私はもはや二泉主と沙琴公主に加減は出来ぬ。敵として定めたからには初めから殺すつもりで剣を取るぞ。これだけ侮辱されて捕縛などと甘ちょろいことは言っておられぬ」

 いいな、と凄まれて固まったが、ゆっくりと視線を亡き者に向けた。

「……私には、もう止めようもない」

 蘭逸らんいつに続き二人めの十牙じゅうがを殺され、牙族の怒りは烈火のごとく。もう沙爽には抑えられない。





 死んだ仲間の遺体は強硬な希望者のいない限り團供の墓地に合葬されることになった。皆を連れて帰りたいのはもちろんだが、全員は不可能だ。限られた数のみが郡城その他に安置される。しかし氷室といえど真冬ではないので腐敗は止められない。損傷のひどいものは保管出来なかった。

 白い麻布で丁寧にくるんだ姚綾も團供城の地下に横たえられ、しばし故郷に帰るのを待つことになった。



 別れを告げて戻ってきた姚玉はもう泣かず、毅然として軍議に臨む。そのさまは母親と瓜二つ。沙爽は気丈な彼女に倣って居住まいを正した。

「残りの族軍が仰坂げいはんに置いてきた二十ともうすぐ合流する。やはり瀧州で攻撃されて少しばかり数を減らしているがおおよそ四百、全て野牛、国境守備軍から借り受けた軍馬もそのまま連れている」

 徼火が図面に石を置く。

「すでに穫司の礼鶴らいかく、燕麦どのには灌鳥を飛ばした。瓉明どのに高竺軍を追加で虞州に派遣するよう要請しているわ。珥懿さまはおそらく二泉主軍を追って曾侭近郊へと移動中のはず。あそこを絶対に落とされるわけにはいかない。團供から曾侭までは馬で七日ほどだけど、なるべく早く着きたいところね」

「強行軍か。野牛は耐えるとしても馬がつか」

「馬隊は一旦穫司で補給させよう。なんなら穫司の兵も少し割いてはどうか」

 それがいいな、と侈犧が頷く。黙ったままの沙爽を見た。

孩子ぼうず、大丈夫か」

「……ああ。問題ない」

 力のない声に一同は溜息をつく。唯真が口を開いた。

「四泉主。今回のことは、決して四泉主だけのせいというわけではありません。山柏水虎に託された当主のめいを蔑ろにしたのは我々も同じこと。ここでしおれていても状況は一向に良くはなりませんし、私たちにはまだ預かっている兵がおります。失われた仲間にむくいるには彼らを率いてなんとしても二泉を打ち負かすしかありせん。悲しみは今は心にお秘めくださいませ」

「…………すまない」

「そうと決まればちゃんと飯食って体を休ませないとな」

 侈犧にぽんぽんと頭を叩かれて沙爽は眉を下げた。自分なんかが、という思いに逃げ帰りそうになる。それに、多大な犠牲を払って戦ってくれる牙族にそれに見合っただけのものをはたして本当に返せるのかも不安だ。だが今は、もう前に進むしかないことも自分には分かっている。



 二日経って残りの族軍が到着した。遅れてやってきた彼らには休む間もなく申し訳ないが、その翌日には曙光と共に團供を後にする。


 沙爽は我儘を言って今度は野牛に乗った。馬では補給で穫司に寄らなければならないからだ。何より自分が真っ先に曾侭に辿り着き、けじめをつけなければならないのだ。

「牛の上ではよく寝れねぇぞ」

 侈犧に言われても首を振った。もとより強行軍、寝るような速度で走っていたら二泉主たちには間に合わない。もちろんしもべふたりも合わせて野牛である。

 進軍の合図とともに列が動き出す。姚玉は一度だけ振り返った。


(……必ず、戻ります)


 そう胸に誓うとかかとを蹴る。哀惜も感傷も、今は無視して、ただ怒りだけをかてに。




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