三十一章
室内は鉄色と木目を基調として広々と清潔で、貴人の宿泊先としては申し分ない。壁際に設けられた
朝も遅くなった刻限、入ってきた小さな影は豪華なその前まで来ると、腕に抱えていた花束を降ろす。しばらく横たわる少年をまじまじと見つめると、一枝を手に取り、寝息を立てる彼の小鼻に押しつけた。
こそばゆい感触を受けて眉間に皺が寄り、白い睫毛を震わせてうっすらと瞼が開く。覗き込む人影は不思議な色の瞳をじっと見つめた。
ぼんやりと視線を
起き上がった膝に落ちたのは白と薄紅の花をつけた
「また
拾った枝を差し出しながら問うと、下女は無言で頷く。受け取り花瓶の口の隙間に無造作に差し込んだ。
「季節のものを見るのは嬉しいけれど、実が
下女は素知らぬ顔で首を傾げる。
「海棠は実ができるんだよ。知らなかった?」
言っていることが分からないのか、つんと横を向いてしまう。沙爽はやれやれと肩を竦め、足台に置いた自らの
連れて行かれる道中、捕まった当初よりも敵は予想外に沙爽を丁寧に扱い、こまめに醸菫水を与えてくれた。歓慧に牙族特製のものを飲まされていたから、不調を来たすことはなかったのだがそれでも有難かった。沙爽としては油断と同情を誘おうと少しでも具合の悪いふりをしていた。霧界を出てここに連れて来られてからも弱々しく振る舞い、なるべく遅く起きるようにしてどうにか逃げられないかと窺っているのだが、如何せん自由を奪うこの鎖をつけられているせいで思うように
しかも囚われてから顔を合わせるのはいま目の前にいる幼い下女と、もう一人年嵩の女官だけで外の状況を訊いても分からないと言うばかり、少女に至っては口も利いてくれない。
一体どうなっているのかと頭を抱えていると、女官が
鎖が絡まないよう室内の家具は少なく、女官はただひとつある小卓に膳を置くと恭しく膝をついた。
「すまないが、首のものが重くて頭が痛い。どうにかこれだけでも取ってもらえないだろうか」
「申し訳ございません。私にはどうすることも」
言って、沙爽の髪を結うというよりも手遊んでいた少女を見咎めたのか険しい顔をした。
「
少君と呼ぶ女官が自分のことをどう聞いているのかは分からない。この髪色だから普通ではないとは思ってはいるのだろうが、身許に気がついていないのか。
この数日、女官と言葉を交わしてなんとなく自分がいるのはどこかの城だということは分かった。辿り着いた距離を考えておそらく二泉の埋州か桂州、ここまで広くて立派な房室を牢にすることが出来て、それを周りから容認される環境というのはやはり封侯のいる桂州だ。そう考えれば必然的に州城、おそらく州兵の守りは堅い。
女官はこちらが情報を得るような余計なことは話さないが、それでも小郡の下仕えにしては礼儀が行き届いているとか、身綺麗だとかそういう言葉だけではない情報を掻き集め、なんとか自分の居所と状況を把握していた。
気晴らしにと年端もいかない泉賤の下女をあてがわれ、最初はいろいろと聞き出そうとしたがこれは徒労に終わった。そもそもよく
「それは要らない心配だ。むしろ有難いよ。今日も花を持ってきてくれたんだ」
沙爽が微笑むと、女は複雑そうに曖昧に頷く。二泉では貴人が泉賤に対して気安くすることはあまりないらしい。
朝餉を終えて退室する女官を見送り、沙爽は少女に向き直る。
「さあ、今日は何をする?
少女は名を問うてもなにも答えないので勝手に呼ぶことにした。しかし嫌ではないのか、呼んでも平然としている。
近頃の喬喬は沙爽にいろんな要求をしてくる。鎖の届く範囲で、あろうことか牀榻の柱を登らされたり、小卓の上で飛び跳ねさせたり。沙爽のそのさまを見てやっと表情を崩して笑みを見せるのだ。
「これは、もしや閉じ込められている私を気遣って体が
鎖を垂らして前後に揺らし、その上を飛び跳ねながら沙爽は苦笑する。房室の中でこんなことをしたのは初めてで案外楽しい。
何往復かして、さすがに息が切れて褥に座り込んだ沙爽を少女は
そんな彼を不思議そうに見ていた喬喬は檻の外から近づく足音に顔を向けた。ぱっと離れると床に膝をついて俯く。
髭を蓄えた恰幅の良い老齢の男は、喬喬をみとめると
「お加減はいかがでしょうか。沙爽様」
「大事ない。……そなたは?」
「長らくご挨拶もせず大変申し訳ございません。
思った通り、桂封侯だ。沙爽は軽く済昌を睨んだ。
「二泉には、なにゆえあっての狼藉だろうか。私を四泉国主と知っての拉致監禁のようだが」
済昌は額を床につけた。
「お詫びのしようもございません。もちろん、先代四泉主、
沙爽は眉を
「……なるほど、今の言でよく分かった。桂封侯はあちら側ということだな。それで、私を撫羊に引き渡すつもりか」
「お怒りはごもっともなれど、左様にございます」
「そなたは二泉の人間だ。二泉主が四泉王家の血統を多少受け継ぐといえ、あまりに強引にすぎるやりかた。封侯もそれを許しているのか」
顔を上げた男は沙爽を気の毒そうに見やったが、それでも首を縦に振った。
「はじめから沙琴様を宮城にお迎えになれば、四泉が荒れることもございませんでした」
「何故そこまで撫羊に肩入れするのだ。そなたとて、直系の公子が王位を
済昌はさらに頷いたが、嘆息した。
「
「それは――」
「もちろん、次代王位は男子を尊び継承されるもの。しかし、該当者がいないのなら、果たして天はどうするでしょうか。どこの馬の骨ともしれない輩に泉を任せるくらいなら、同じ泉根である公主に委ねるのではないでしょうか」
沙爽はさらに済昌を睨んだ。
「今回がそれだと?」
「そうは申しておりません。しかし、沙爽様が
黙り込む。それは自分でも自らが本当に四泉主なのかを悩ませる頭痛の種であり最大の懸念だったからだ。この状況は沙爽にとっても行き場のない不安を長らく掻き立てていた。
「そなたは…どうなることが一番良いと?」
「……どうぞ、お座りくださいませ。沙爽様、まずはじめに私は、二泉主を嫌っております。なんとかして
沙爽は瞬いた。斉穹に加勢しておいて、どういうことなのか。
「あれが玉座におさまって以来、内乱に内乱を重ね、二泉の水は濁るばかりで民はずっと不便を強いられて来ました。ことに桂州は西端、霧界にも近く、近年は作物も十分な量を収穫できないありさま。あれが生きているかぎり
「それが、私を殺して撫羊を四泉主に立てることと、どう関係があるのだ」
済昌は思い詰めたように沙爽を見た。
「両国の泉を融合することは
「待ってくれ。なぜわざわざ四泉と二泉をくっつける必要がある。二泉主がそれほど悪政を布いているなら、
「あの斉穹がしおらしく位を手放すことなどしますでしょうか。容易に出来るなら、とっくにそうしております。それに斉穹は王太子がお生まれになってから今まで殿下を泉宮の奥深くから決して出そうとせず、半ば幽閉してきました。生誕の報はあれど、王叔の私とて碇也様のお姿は拝顔したことがないのです。
「王太子に必ず神勅が降ると?しかも現二泉主が生きているあいだに?」
「黎泉が斉穹の悪行をお許しでないのなら、可能性は大いにあります。もし時期を見誤って降らないとしても、
済昌は急に黙り込んだ。逡巡するように瞳を泳がせてから、押し殺した声で呟いた。
「
「――――なに?」
「あれはただの泉主ではございません」
「どういうことだ?」
済昌は口に袖を当て
「ともかくも、私には斉穹を止める力はありませんが、この戦いが終わり二国が和平を結ぶならそれはそれで喜ばしいことなのです。そのあかつきにあれの目を
沙爽は目を見開いた。
「……ばかな」
「完全に融和させようとするならば目に見えて確実なのは王統同士で血縁関係を結ぶことです」
済昌は言を連ねる。「斉穹が王であり続けるうちは二泉の民の辛苦は救えません。もちろん私とて、四泉は四泉、我らは我らで国を治め泉を保つのがいちばん
「それは不可能だ。本来公主に継承権はない」
「必ずしもそうではありません。たしかに継承順位を無視して公主に降勅させることは実例も確証もございませんが、理論上は可能です。禅譲もしかり。有史上、泉主として務めを果たせる能力が
「……私が体の自由を失ってまで生き長らえたいと思っていると?」
それは
済昌も疲弊したように眉間を揉んだが、
「あれは、斉穹は、即位する前まではそれは美しく爽やかな好青年で通っておりました。臣下はみな武勇にも容儀にも秀でた斉穹を主君として迎えることを誇りました。即位後もしばらくは、少なくとも桂州の離宮で娘と逢う時にはそれは変わっていないように思いました。なればこそ私は交際を止めはしなかった。姓を変えたのは娘の為です。それなのに、年々
「そなたも二泉主に反対ならば、あの二人ではなく私に味方してくれれば良かったのに」
男は痛ましげに首を振った。
「辺境のいち封侯にそれほどの力はございません。それに桂州にも
沙爽は打ち沈んだ。結局のところ済昌は二泉大事であり、他国の泉主を
当たり前だ、と思った。王と泉は紙一重、王を守ることは泉を保つこと、人々の生活に直結した最も重要な関心事だ。その国に住むかぎりはたとえ隣の国が滅ぼうとも自分の命に関わる泉のほうを守りたいに決まっている。
「……それで、私は撫羊が来るまでここからは出られないのか」
「遺憾ながら。そして沙爽様、私にはもうひとつ任された務めがございます。……
沙爽ははたと自身を見下ろした。衣は新しく取り替えられて牢の中に持ち込んだのは己の身だけ、たしか
「玉璽と
「…荷の中に」
「隅々まで探しましたが、ありませんでした」
では、と沙爽は押し黙った。玉璽は牙族の城の、あの地下牢だ。しかし馬鹿正直にそれを白状してあちらに危険をもたらせば。
「……あるはずだ。玉璽は肌身離さず持っていたはずだから」
しらを切った沙爽に済昌は先ほどまでの穏やかな顔を剣呑とさせた。
済昌は見透かすように目を細めた。
「もしや、牙領に置いてこられたのですか」
「そんなはずはない」
内心焦る。「いつも懐に入れていたから、襲われた時に落ちたのかもしれない。ひどく乱暴にされたから」
「……もう一度経路を探させますが、偽りであるならそれ相応に追及させて頂きます。二泉の責めは加減が下手ですのでお覚悟ください」
生唾を飲み込んだ沙爽を厳しく見る。しかし沙爽も精一杯済昌を睨み返した。
「……私も、一つ訊く。二泉と通じている牙族は誰だ」
男は意外そうに眉を上げた。
「それほど
「牙族のことがどうでもいいなら、喋っても構わないはずだ」
済昌はしばらく思案するように黙っていたが、やがて
「沙爽様、あなたは失敗なされた。四泉の兵力を補うため、牙族の力を借りたのは賢明でしたが、
「本来の目的?」
「斉穹の最大の目的は領土の拡大でございます。あやつは四泉はもとより、長年目の上の
「……いったい、誰が」
「私も知っていることと知らないことがございます。それに、さほど興味もありませんから、誰がどう関わっているのかも詳しくありません。あと数日もすれば斉穹が来ます。真相は本人に訊けばよろしいでしょう」
返答のない沙爽に、済昌は息を吐いた。
「ともかく、玉璽の
「……その時には、私はもういない」
「それは分かりません」
「今の私が私でないような状態で生かされても意味などない。どのみち撫羊が、自分が落血の儀で死ぬような可能性を残しておくはずがない」
済昌はほんの少しだけ
「沙琴様は斉穹とは違い、まだ人の心がおありになる。私はあれほど聡明で堅実で、他人にお優しい王族に会ったことがありませんでした。でなければ今この場に沙爽様はおりません。沙琴様は兄上であるあなたさまを即時に殺すことも出来るのです。それをしないのはやはり確実に神勅が移るのかを危ぶんでのことですが、あの方はそのことよりも実の兄を、しかも少なくとも
「……皆が撫羊を称賛するのには私も同じ気持ちだ。あれには聖君としての気質があるから」
呟けば相手は目を伏せた。
「本当に、沙琴様が継嗣であったならと惜しく思うばかりです。黎泉の条理が曲がらないかと願うほどに」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます