三十二章



 体が朝より随分重い。鎖を引きずりながらしとねに身を投げ出し目を閉じた。撫羊のほうが王に相応ふさわしいなんて、そんなことははじめから分かっている。しかし他国の者からさえ無遠慮に言われて、もしかしたら自分は本当に要らないのではないかと疑ってしまう。

 鬱とした気分で寝返りをうち、気配を感じ目を開けば、視界いっぱに少女の顔が迫っており慌てて起き上がった。

 いつの間に入ってきたのか、喬喬きょうきょう昼餉ひるげを持ってきていた。袖を引っ張られて小卓まで連れて行かれ、箸を握らされる。まるで落ち込んでいないで食べろと言わんばかりで、沙爽はくすりと微笑んだ。

「そうだ」

 たどたどしく茶を淹れてくれた少女に頼み事を思い出した。

「喬喬、私が連れてこられた時に一緒に持ってきた荷がどこかにあるはずなんだが、知らないか?」

 喬喬は宙に目を向けて記憶を手繰たぐる顔をしてみせた。

「その中に羽根の付いた首飾りを見なかっただろうか。とても大切なものなのだ」

 気が動転していて忘れていたが、玉璽ぎょくじの行方を思い出そうとした時に身体を検分し、何か胸のあたりが寂しいと思えば歓慧にもらった首飾りが無い。沙爽はあれを護符ごふと認識している。

「分かるのであれば、こっそり探してはくれないだろうか」

 喬喬は迷うように揺れると、羨ましそうに膳を眺める。腹が減っているようだ。

「お食べ」

 その中のひとつを半分取り分けてやると、遠慮がちにこちらを見上げてもう一度許しを得て、美味しそうに頬張る。口を押さえながら沙爽に頷き、懐から布切れを取り出した。

「……?」

 意を汲めずにいると、さらに硯と墨壺を持ってくる。胸を叩いて沙爽を指差し、筆を寄越す。

「ひょっとして、首飾りがどんなものだったか描けと言っているのか?」

 喬喬は頷いた。さっきのお裾分けは対価であったらしい。


「……こんな感じか、なあ?」

 我ながら上手く描けた気はするが、あの混乱の中で記憶は曖昧だ。それでも、こちらで着替えさせられるまでは確かにあったから、捨てられていなければあるはずだ。

 喬喬は絵を見つめ、それから布を丁寧に折り畳んで衿内えりうちにしまい込んだ。沙爽は笑む。

「無理はしなくていいから。もし見つけたら持ってきてほしい」

 見咎められて折檻せっかんを受けたりしては可哀想で、沙爽は絶対に見つけて欲しいという気持ちを抑えた。少女は棒切れのように細くて時々腕や顔に擦り傷があったから、もしかしたら陰でそういうことをやられていたらと思うと強く言えない。


 見送って溜息を吐く。気持ちを落ち着かせるために墨を磨った。脱出の機会があるとすれば撫羊と斉穹がここにやってきて牢を開けた時だ。逃げおおせる確率はかなり低い。でも、諦めたくない。危険を承知で逃がしてくれた歓慧の顔が浮かんだ。あろうことか味方に攻撃されて混迷をきわめるなか、自分をすぐに差し出せばもしかしたら争いをしずめ死者を最小限にできたかもしれない。でも彼女はそうしなかった。地下でさえ危ないと言っていたのに。あのあと、無事に逃げられただろうか、そればかりが心に残る。

 もっと強ければ、しっかりしていればと自責の念ばかりが積もっていく。珥懿は捕まったことをもう聞いたろうか。なんと情けない奴よと見捨てるだろうか。同盟は反故ほごになるだろうか。刻一刻と時が経つなか、沙爽は不安に溺れてゆく。





 二日ほど経って訊問じんもん官が呼ばれた。床に足先がぎりぎり着くくらいに鎖を吊り上げられ、苦しい鞠訊とりしらべが始まった。済昌さいしょうはやはり沙爽が玉璽を隠していると思ったらしい。鞭打ちこそされなかったが、無理な体勢は確実に体力が減る。そのうち沙爽を王として、人として否定する罵詈雑言を散々に浴びせられ、徐々に限界を感じるようになっていった。



 すぐに熱が出た。夜も悪夢にうなされて眠れず、体は泥のように重く、食欲はせた。それでもいましめは解かれず、意識は朦朧としたまま詰問を受ける日々、気丈に振る舞いなんてことはないと思えば思うほど、それに異を唱えて救済を求めるもう一人が泣き喚き、相反する感情に心がすり潰されて摩耗していった。



「おまけで生まれただけのくせに、なにを思い上がっておられるのか」

「はじめから妹君に位を譲っていれば戦など起きなかった。民を巻き込んでまで自分の我を通そうとするとはなんと厚顔無恥な御方でしょうか」

「牙族と同盟など組んでも無意味です。現に、誰も助けには来ない。泉外人にまんまと騙されたのです。四泉は今ごろ火の海となっています。ご自分のせいで幾万の民の怨嗟えんさが四泉に満ち、泉は濁っていくのです」

「王位争いの時に死んでいればこんなことにはならずに済みました。このままでは生きている価値もないと思われませんか。どうやったら楽なれるかもうお分かりでしょう」

「沙琴公主は兄を殺さないと言っている。全てを任せて、何もかも渡して自由になるのです」

「辛いでしょう。苦しいでしょう。もう良いのではありませんか。王位を譲りさえすれば全てが平和に丸く収まるのです。あなた様は是と頷くだけで良いのです」



 えぐられるような非難や一見して甘い誘惑が頭の中で反復して渦巻き、沙爽は吐く。長時間吊られた手首は圧迫されて紫色の痣が輪になっていた。

 えずいて肩で息をし、涙で目を痛めても慰める者は誰もいない。沙爽は被衾ふとんに仰向けに倒れ込んだ。夜目にほんのりと月明かりが射して物の陰影が薄ぼんやりと浮かぶ。しんと静まり返った室内でたった独りでいるのは感傷的にならざるをえない。

「……泣いてばかりだな」

 がらがらと痛む喉をそのままにわらう。はなを啜って天花板てんじょうの花蔓紋様をなんとなく目で追った。

「……強くなりたい」

 ぽつりとそう呟くと、ふと言葉がよみがえってきた。


(あなたには、自分の命より大切なものがある?)


 いつか、徼火きょうかに問われた言葉だ。

「……それを見つけた時には、もっと強くなれる……」

 徼火はどういう意味で言ったのだろう。そのままの意味と言っていたが。


 沙爽自身にはまだ掴めていないが、なんとなく想像はできる。それは例えば、母が子を無条件に愛しいと思って守りたいと思う心や、徼火のように全幅の信頼を持って主君に従うという忠誠のことなのかもしれない。良きにしろ悪きにしろ、執着があれば人は強くなれる。


 沙爽の命は四泉そのものだ。究極に、泉主として最たる務めは死なないこと。それに尽きる。だから周りは沙爽に何よりも自分の生命を最優先にするよう教え込んだ。しかし、それは沙爽が泉主で居続ける場合に限られる。神勅が降りず、撫羊が正当たる四泉主になるのなら、それでは泉主という肩書きを失った沙爽には自身を大事にするだけの理由がどれほど残るというのだろう。もちろん、生を受けたからには生きたいと願うのは自然なことだろうが、もしそうなれば自分は一体何の為に生きるのだろう。禅譲と撫羊の落血の儀という一連の継承儀式を、自分を生かしたままの状態で成功させるには心身喪失もしくは癈人はいじんにならなければならないというのに、その抜け殻の生には、一体なんの意味がある?


「だから、か」


 自分の生に何かしらの理由付けをしなければ、人は納得できない生き物だ。ただ生きているから生きるだけでは、その生においてなんの目的もなく達成も熟練もせず、やがて倦み飽きて腐り落ちて行くからだ。

 だから徼火は自分の命よりも優先できるものがあれば生きる根拠があり気力に満ちると、きっとそういう意味で言ったのだろう。


 思い至って更に自嘲した。それでは、一周まわってやはり抜け殻の生に意味はない。ただ肉の体を持った木偶でくにすぎず、己にとってそれは真に生きているとは言い難い。とは言うものの、今この状態でみなぎる生命力に溢れていてもむなしいだけかもしれない。せめても玉璽の在処ありかを知っているふりを長引かせて時間を稼ぐしかない。外がどうなっているか分からないが、あの珥懿がおとなしくやられたままでいるはずはないだろう。たとえ済昌や訊問官から否定されようと、それだけは確信をもって言える。だから今できる最善のことをしたい。諦めることだけは、したくない。



 守りきれない約束はしないこと、と母は言った。たしか、父王の死期が迫り、義兄たちが争いはじめた頃のことだったと思う。


 誓いというものは気軽にすべきことではない、人生のうちに数えるほどしかしない行為。事あるごとに立てる誓いは誓いにあらず、それは誓約を侮る行為であり交わした物事はとても軽いものになってゆく。なぜなら、人は誰かを傷つけることは得意なのに守ることは苦手だからだ、と。それなのに自分の身に余るほどの約束事を立てれば、おのずと果たせないこと、破ってしまうものが増えていく。数が多ければ多いほど、成されなかったものが大したものではなくなっていく、とりく妃は言った。人は慣れる。慣れて麻痺して、忘れて人生を歩む生き物だから、だから己をしばる沢山の誓約は身を滅ぼすものとなる。

 おざなりな誓いは自分も他人も不幸にする。守れるとおごって数々の約束をしてはならぬとさとされた。それは雑談のなかのたわむれに過ぎなかったが、あまりに身に迫った姿に思わず問うたのだ。母の立てた誓いはなんぞやと。


 彼女は自らのものを公にすることはなかった。ただ、後悔は微塵もしていないが守りきる自信はない、と悲しげにした。きっとおそらく、自分と撫羊のことなのだと直感した。

 同盟を認めさせるために泉畿せんきへと帰った時も、寝所の中でやつれつつも毅然とした顔で問うた。


 ────誓いを口にしたか。


 沙爽は自分から持ち掛けた。本気で、牙族主珥懿に面と向かって言った。初めから提案は誓いと変わりないと自分で定めていた。だから、こちらから裏切ることはなんとしてもあってはならないのだ。たとえどれほど身を痛めつけられようと、辛苦から逃れる為に諦めてはいけない。自らが縛ったこの絆をこちらから手放せば、共に縛られている珥懿を、珥懿が束ねている多くの人々を奈落へ突き落とす。沙爽は同盟という鎖を共有したのだから。


 ────痛みに妥協せず誓約を守り通すとはつまり王位を撫羊には決して渡さないということ。


 ああ、そうだ、と息を吐いた。自分が王の器じゃないとか、いまだ降勅してないとか、そんなことはすでにどうだっていいのだ。いま沙爽が出来ることは命を懸けて交わした誓いを守ることだけ、むしろそのことのみを考えていればいいのだ、と頑なに心に念じた。

 何をされようと────譲れない。それだけは。





 自らに暗示をかけるように堅く思い定め、何度も挫けそうになる心をすんでのところで引き戻しながら十日あまり、業を煮やした済昌は苛立ちを隠さず沙爽を睨んだ。鼻息を荒くしたその顔には焦りと恐怖も見える。

「霧界もくまなくお探ししましたが、一向に見つかりません。加えて沙爽様が逗留なさっていたと思われる牙族の牢にも、それらしいものは無いと連絡が来ました」

 檻の外から男が責める。沙爽は牀榻の上でうつ伏せたまま眩暈げんうんのなか聞いていた。

「いい加減お話くださいませ。もうお体がちません。このまま死ぬつもりですか」

「…………」

 反応が無いのにさらに苛立ったのか、あからさまな舌打ちの音が響き、済昌が訊問官に何事かを命じる。なんだろうと思っていると、突然に鎖が引っ張られた。


 五本の縛縄が一気に引かれて転げ落ちた。床に打ちつけた衝撃と共に、何が起こったか分からないまま檻の外から引っ張られる。抵抗しようともがいたが五体全てに嵌められた桎梏しっこくは全て一方向に向かって移動し、咳き込みながらそのまま柵まで引き摺られた。

「やめてくれ……」

 力の入らない体で抵抗しようとするも、首の一本を容赦なく持ち上げられてふらふらと立ち上がる。極めつけに勢いよく引かれ、首輪と柱がぶつかって高い金属音を立てた。


「言っておしまいなさい」


 隔たれたすぐ向こうで冷え冷えとした目が沙爽をまるで犬猫か何かのように見た。

「どのみち言わなかったとしても結果は変わらないのです。楽におなりなさい。あなた様とて、沙琴様が王になればいいと思っているのでしょう。だから神勅はいつまで経ってもくだらないのです。その自信のなさや責任感の欠如は泉主には不要のものです」

 沙爽は自分の重みで締まる喉から声を引き絞った。

「……ちがう」

「何が違うのです。周囲から言われるまま、なにも考えずに神勅を請願したのでしょう。泉主の何たるかも分からぬ人間に降るはずがない」

 ぐらぐらと揺れる脳内に針が刺さるようにこだました。立っているだけでやっとだった。目を開いているのも辛く、支えきれない瞼を閉じる。

「あなた様がここまで強情だとは思っておりませんでした。明日から地下牢へお移りいただきます。鼠とまむし蔓延はびこる地下です。おそらく今のうちに喋っていれば良かったと後悔するでしょう」

 上への力が消失して沙爽は倒れ込む。圧迫から解放されてひときわ激しく咳き込んだ少年に、済昌はもはや当初のような穏やかな顔を見せなかった。

 脅威が嵐のように去り、這うように寝床へと戻る途中で小卓の水差しを倒した。濡れた床に足を取られながらなんとか倒れ込み、激しく胸を上下させる。酷い耳鳴りがした。そのまま死んだように横になり、少しばかり微睡まどろんだくらいだと感じたが目覚めるとすでにあたりは暗闇だった。しかし月に助けられて視界は明るい。


 ぼんやりと、虚ろな目で天花板を見上げた。その紋様は見飽きるほどで、細かな花弁の枚数でさえ空で言えるくらいだ。


 沙爽は最近の癖で、胸の苦しいのを紛らわすように何気なくその図匠を目でなぞる。規則的に並び、渦を巻いて、それが格子に区切られた板の一つ一つに同じ紋様で描かれていて。しかし、牀榻の間近のひと区画の部分だけ、なぜか模様がずれているのに気がついた。まるでそこだけ切り取ってあとで嵌め直したが、方向を誤って取りつけたみたいだ。あそこはあんな模様になっていただろうか。


 働かない頭で疑問に思いながら眺めていると、ふと、先程よりもそのずれが大きくなっているような気がした。いぶかしんで目を眇め、一度固くつむる。疲労で幻影まで見始めたのだろうか。

 自分の正常さを疑いつつも、信じられない気持ちでその一角を凝視した。さらにかたりと鳴った――気がする。


 萎えた体を叱咤して起き上がった。確かに動いた。勘違いではない。

 模様のずれはさらに大きくなり、ずれていった空間は黒く塗りつぶされていく……否、板裏の闇である。


 沙爽は声を上げそうになるのを必死でこらえた。牢の外には見張りがいる。しかし、その一角から広がる黒から垂れてきたのは長い髪、それはゆらりと揺れて帷帳とばりのように降りてくる。寝ている時に気がつけば悲鳴をあげていただろう、さらに床に零れた水鏡に反射する月光の照り返しを浴びたぎらめく両眼が、じっとこちらを見つめていた。


 身動き出来ずに見つめた先で、一隅の紋様は全てうろの闇に変わった。長い毛の主は音もなく滑り出、床に飛び降りる。

 小さな影に沙爽は唖然と口を開いた。


「……喬喬?」


 小声で呼んだ少女は光に照らした白い顔で見上げてきて頷いた。

「どうして」

 少女と天花板の穴を見比べた。まさかこんなところから現れるなんて思いもしなかった。

「訊問が始まって私も会えないのは寂しく思っていたが、何もここまで」

 よろめきながら隔扇とびらを背にする。目線を合わせ床に座り込んだ。

「一体どうしたというのだ」

 問うたのに、喬喬は口に一本指を当ててみせた。いつもの格好とは違い、身軽な姿で髪は括っただけ。懐から小さな銀の鍵を取り出した。

 沙爽は息を飲む。これは――枷の鍵だ。

「どうやって……」

 こんなことが知れれば折檻程度では済まない。下手したらどうせ泉賤どれいだと言って殺される。沙爽は鍵を持ってきてくれたことに喜ぶより、小さな救出者の身の上を案じた。しかし慌てている合間にも首の輪が外される。喬喬は外した輪を牀榻の脚に嵌めなおした。他の枷もそうして外したが、右手の鎖だけは解かない。

 どうしたことかと呆気に取られたまま見ていると、喬喬は見上げた。つられて視線を追い、沙爽はさらに驚きで固まった。


 空洞にもう一人いた。おそらく男で何事か手招きした。それに応えて喬喬は沙爽に繋がれたままの鎖を持つと、軽々と柱を登る。くん、と右手がつられた。


「四泉主。私が引っ張りますので、ここまで登って来れますか。卓子を踏み台にして、柱をつたってください」

 男は小声で穏やかにそう言った。沙爽はようやく、ようやく状況を飲み込んで震える。ほとんど諦めていた助けが来たのだ。


 上から放られた小刀で衣服を裂いてなるたけ脱ぎ、軽くする。男から衣を床に敷くようにと言われてその通りにした。音を立てないように苦労して卓を柱に寄せ、裸足でその上に立った。

 零してしまった水で足が湿り、柱を踏みしめている合間にきゅっと音が鳴って肝が冷える。思わず息を詰めて出入口を窺い見た。自らに繋がれた鎖を握り、男の引く浮力を借りながら、がくつく脚で柱を登る。目眩めまいがひどく、どうしても息が荒くなる。重力に逆らい、しかも体は疲弊して力が入らない。ずるりと滑ってすねを打ちつけ喉の奥で呻き声をあげた。滝のように脂汗が伝う。焦る。今にも見張りが入ってきそうだ。手で握りしめた鎖も油を塗ったように滑る。


 なんとか頭が天辺に届きそうになった所で、ずいと伸びた男の腕が沙爽の腰帯を掴んだ。少女も傍らで襟首を持つ。男がふっと息に力を入れるのが聞こえた。

 思いのほか勢いをつけて引っ張られ板裏に這い上がり、喬喬がすぐに最後の手枷を外した。

「投げるのか?音が」

 息を抑えつつ問うたのを言い終わらないうちに、喬喬はこだわりなく鎖を放った。鎖は先刻沙爽が床に敷いた衣の上に落ちて少しだけ鈍い音をさせた。

「ああ……なるほど」

 あの程度の音ならば見張りがわざわざ覗くほどでもない。最後に鍵を捨て、素早く天板を閉めた。


 埃っぽい屋根裏は狭い。明かりもなく互いの顔も見えず、しかし目の前の男が笑った気配は感じた。

「ご無事でようございました。四泉主」

「そなたは……」

「当主のめいにより参上致しました。遅くなり大変申し訳ございません」

 鼻の奥がつんと痛くなるのを感じた。奥歯を噛み締めて気のたかぶりをなだめる。

「……かたじけない」

「お礼をお言いになるのはまだ早いですよ。さっさとここを抜けましょう」

「しかし、こう暗くては」

 はりが縦横無尽に突き出して方角もわからない。しかし男は大丈夫です、と確信めいて進み始める。


 後ろの少女にも助けられながら匍匐ほふくで進み、屋根をつたい、登って降りて、外に出たのは敷地内のどこかの庭園の軒下だった。道中、鼠に背を渡られて悲鳴を上げそうになり、それを喬喬が容赦なく握り潰したと知ってさらに卒倒しそうになった。ほうほうのていで這い出す。外気は少し肌寒いがゆるりとした暖かさで、ほっと息をついた。外に出たのは久しぶりだった。


「こちらへ」

 男がいざなったが、今度は先頭に喬喬が立った。庭園を横切らずに建物をまわる。衛兵の目を避けつつ、壁の隙間やちょっとした間道を縫うように通るのは、まさしく間諜のそれでさすがだと感心した。


 州城の中は泉宮ほどでないにしろ広く移動する距離は沙爽には永遠にも感じられた。鼓動はずっと速いまま、このまま立ち止まったら倒れ込みそうだ。月がかなり傾いたころに三人は厨房くりやの裏口付近に到着した。

 厨房内にはまだ人はいない。男と少女は外に停めてある手押し車の上に並ぶ大きなかめのひとつを開けてみせた。

「四泉主、この中にお隠れを。夜が明ければ、この車は城外に運ばれます。折を見てまた仲間がお助け致しますのでもう少しの辛抱です」

 沙爽は甕に入りながら、

「二人は」

 問えば男が笑った。「ご心配には及びませんよ。ああ、そうだ」

 振り返り、少女が手に握ったものを差し出した。小さな玉を連ねた紐に、つややかな白い羽根。

「……見つけてくれたのか!」

「それは我々にとっても、とても大事にすべきものです。灌鳥かんちょうの風切り羽根は貴重ですから、本当に大切な人にしかあげられない」

「そうなのか……」

 沙爽は甕の中にしゃがみ込み、両手で羽根を包んだ。ご安全を、と言って頭上を覆おうとした男を見上げる。

「名を聞かせてはくれないか。そなたたちは命の恩人だ」

 男は隙間からまたしても微笑んだ。



「私は寿玄じゅげんです。こちらは仄夏そくか



 少女は沙爽に手を振った。

「仄夏をお可愛がり下さり感謝申し上げます。これも、できればあなたの声を聞いてみたかったと」

 沙爽は目を見張った。次いで笑う。

「礼を言うのはこちらのほうだ。それに、脱出の訓練までしてくれていたとは。ありがとう、仄夏」

 小さな救出者はくすぐったそうに歯を見せて笑った。そしてそのまま、今度こそ蓋の向こうに消えた。


 沙爽はもう一度羽根を抱きしめ縮こまる。疲労困憊して節々は腫れて熱を持って痛み、ぞろぞろと悪寒がした。それなのに妙に高揚していた。助かるのだ。たまらず、もはや出し切ったと思っていた雫を零した。額に熱が集まって頭痛がするほど声を押し殺して泣き、ほぼ気を失うように意識を手放した。そうして運ばれる揺れにも気がつかず、眩しい光に閉じた瞼が照らされ目覚めた時にはすでに、敵陣からの脱出に成功していた。




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