三十章



 おおよそ人が行く轍もない、槍が突き立ったような岩の峰、隙間を埋めるような木々の陰にうごめくおどろな靄霧もやぎりはそれらに染み込んで己の色を移す。若芽は萌えでたと同時に毒々しい色の水分を取り入れ、つや光る新緑を濁った枯葉色に変じさせた。それでも冬の眠りから醒めて山の精気を受けた植物たちは一斉に花を咲かせ葉を伸ばし、黒ずんだ大地に精一杯の息吹を注ぎ込む。


 遥か谷の底には小川が流れている。川のせせらぎのみを聞いていれば、さぞ爽やかな情景が思い浮かぶのだろう。しかし川は山の雪融け水を溶かしこんで水嵩を増してなお茶黒く泡立つのだった。その東西を横断するように流れる由川ゆうせんを横目に、小石の岸辺を野牛の群れが人を乗せ軽快な足取りで進んでいた。


 号令がかかり、隊列は止まる。刻限は少し早いが今日はここで野営することになった。

 熱を持った野牛の首を叩いて労い、水を飲ませるために川へ曳いていく。自らも革袋から水をじ込めた飴を取り出し、口中でそれを噛み割った。

 ほんのりとした生臭さに閉口しながら気を紛らわすように霞んだ空を見上げる。奇岩の絶壁、峡谷の下から垣間見える面白くも何ともない、変わりばえのしない空、しばらく眺めていたその鈍色に針の一点を見つけ、鈴榴りんりゅうは腰に手を当てた。


 白い影は徐々に近づき、覚束なげに飛んできて低く滑空し目当ての人物の腕に止まる。鈴榴は鳥のくちばしを叩いた主に小石を蹴って歩み寄った。

「飛ばしすぎだ。霧界むかいとて伏兵がいないとは限らないぞ」

 苦言を呈した女にやおら頷きながら文を開いた珥懿じいは一瞬固まる。鈴榴にはそれだけで尋常ならざることが起きたと分かったし、よく見ればまだらだと思っていた白い鳥がその身を汚しているのは泥ではなく乾いた血であることに気がついた。羽も所々毛羽立ち裂けている。

「敵襲に遭ったか」

 顔をしかめた。腹と片羽根に滲んだ鮮血は鳥のそれだった。

「良からぬことがあったのだな」

 珥懿が文を寄越す。文面を見てさらに眉根を険しくした。

「どうするつもりだ」

 二人は即席に張った天幕に入る。呼ばれた斬毅ざんきも文を見て絶句し、信じられないと首を振る。座した珥懿はしばし額に手の甲を当てて沈黙した。


 こちらが予想していた以上に、背反者は多人数だったということか。しかしあの丞必しょうひつが後ろを取られるとは。鈴榴は珥懿の向かいに胡座あぐらをかいた。それより何より丞必でさえこの有様なら城はすでに機能していない。しかし、たとえ敵が多いといえどもこれまで動いていなかったことを考えると数は知れている。鈴榴は頭を上げた。主も考えは同じようで、かぶとを外した顔は無表情だったが頬杖をついた指を血の気のない頬に打ちつけた。


「――驟到峰しゅうとうほう


「鈴榴は窊梨わり灌鳥れんらくを待て。軍を任せる」

「ちょいと待ちな。あんた単独で二泉に乗り込むつもりかい。無謀はおよし」

「二泉の腹は読める。四泉には行けないし、あれほど目立つ人質を連れてうろうろとするわけはなし、霧界に置いて衰弱させることも出来ない。とすれば霧界を出てすぐ二泉国境付近のどこかの街に一旦は留め置く」

「ということは、まい州かけい州」

「おそらく桂州だ」

 珥懿が二枚貝に入った軟膏を取り出した。おとなしく肩に止まる鳥を膝に移すと、丁寧に傷に薬を塗り込んでいく。斬毅が唸る。

「なぜそう思われます」

「桂州封侯ほうこう王は二泉主の叔父で、正妃の父親だ。二泉主とは仲は悪いが娘を差し出している手前、互いにないがしろに出来ない間柄……」

「大手を振れない企みにも加担させている可能性はあるということですな」

 珥懿は頷く。

「二泉の各州の兵力は弱い。もともと数もいない。桂州は牙領攻撃の際には兵を差し出したが、その被害は甚大として四泉への派兵を拒否している。させたのは封侯だ。しかし後々桂州が懲罰を受けるのは避けたいだろう。四泉主の拉致を指示されればねつけられないし、もしかすると封侯自身も沙爽を排斥することに賛成して動いているのかもしれない」

「では、四泉主は桂州へ連行されたとみて間違いはない、か。それで、あんたが一人で行ってどうにかなると?」

「桂州のあみは生きている。内間ないかん郷間きょうかんに至急協力を要請して居所を突き止める。兵を分散させている今、じかの衝突は不利だ。最悪泉畿せんきに移送されている途中で奇襲する」

「それだって、単騎でどうにかなる問題では」

 重ねて反対しようとした鈴榴は幕外に気配を感じて黙る。珥懿は囲巾えりまきを巻いた。声を掛けて入ってきたのは茅巻ぼうけん、手に鳥を包んで思い詰めた様子で三人を見た。

穫司かくしからだ」

 手渡された紙面を見て珥懿は嘆息した。

「余計な奴が来るぞ」

「他ならぬ泉主の一大事だ。すでに暎景は出立しこちらに向かっている。俺も泉主救出のほうへ行きたい」

 珥懿は鳥を撫でている朴訥な男を見た。

「お前は沙爽の麾下きかというより、りく妃の密偵だったな。別で任を与えられてはいないのか」

「もとはな。淕妃さまはなにより泉主と公主が戦わねばならないのがご心痛なのだ。しかし、あの方とて妃に登られた御方、公私の分別はつけておられる。なによりも優先すべきは四泉くに、そして泉主をお守りすること。公主が泉主の命を奪うほどの脅威となるなら」

 茅巻はそこで言葉を切った。ひどく痛ましそうに俯く。

「断罪もやむなし、と。俺はただ泉主を守り、あの暎景えいけいの暴走を抑えるよう言いつかっておるだけだ。だから俺の最優先も泉主だ」

 珥懿は了解したのか再び息をつき、地図を広げた。

「では単騎は諦めよう。私とお前、そして連れ立って行きたくはないが暴走癖のある腰巾着で二泉に入る。桂州からの灌鳥を待って潜入する」

「こちらの兵はどうする」

「二軍に割く。引き続き霧界にとどまるほうはお前たちに。蓮宿れんしゅく栽豊さいほう国境間に留め置いた万騎はんきを合流させる。高竺こうとく斂文れんもん、それに姚綾ちょうりょうと連絡を取って動け」

「あの取引した二泉の将をそれほど信じるのですか」

「予防線で蓮宿にはまだ灘達なんたつがいる。それに二泉は想像以上に混乱している。まだ霧界を越えていない州軍は国内の平定に駆り出されるとみていい」

「残りは」

「領地の兵はおそらく伴當はんとうが失われたか捕らえられたかで身動きがとれないとみた。敵が籠城しているかもしれない。私の城を好き勝手に荒らす奴は許さない」

「戻すのか。まあ、城に残した一翼程度では頭を失えばろくに動けないか。だからいつも指揮の出来る者を育てろと言ってたんだ」

 鈴榴になじられて珥懿は憮然とする。「優秀な奴を根こそぎ驟到峰に引き抜いていたのはどこの誰だか」

「みすみす引き抜かれるほうが悪い。それで?牙領に戻す軍はまさか叡砂えいさに任すのかい?他に伴當もいないが、誰を立てる」

「この斬毅が裏切り者共を蹴散らしてもようございますが」

「臨機に備えてまだ兵を割く必要があるかもしれない。その時のためにお前たちは離したくない。帰還させる軍は侈犧しぎに任す」

万騎長はんきちょうに翼軍が扱えるのか」

「他に適任もいない。私の軍は気に入らない長を軽んじて規律を乱すほど馬鹿ではない。侈犧も下手な指図をするような男ではない」

 それならいいが、と鈴榴は腕を組んだ。

「あんたも聞得のを調整するのが下手っぴだからね。ここでへばられちゃ困る。戦いは避けたほうがいいだろう。了解したよ。兵はあたしたちが預かった」

 珥懿にここまで言える人間は希少である。生まれた時から見てきた強みだ。

「馬を調達して驟到峰からの鳥を待って移動する。それまでに暎景は間に合わないだろう。我々で先行する」

 これには茅巻が異を唱えた。

儀同三司ぎどうさんしの命で各太守は牙族への協調体勢を整えているし、もしかしたら暎景が気を利かせてしゅ州を抜ける合間に馬も調達してくるやもしれん」

「あれがそんなことをするはずないな」

 否定にいいや、と更に返す。

「暎景とて単騎で乗り込もうとしても上手く行くはずないことは分かっている。あれは沸点は低いがそれを通り越したら逆に落ちつく」

 温度の高い火がその熱さに反して青いのと同じように、暎景は怒りを持続させたまま最短で解決する策を冷静に実行する。

「牙族の諜報なしに泉主を救えはしないと嫌でも分かるから、余計に腹を立てるのだ」

「褒めているのか、それは」

「調子に乗らんほうがよろしい。なにより最も安全だと思っていたのに易々と泉主を攫われあれは怒髪天だ。あまり挑発はせぬほうがややこしくなくて済む」

 言いつつ、無理だろうなと諦めの調子で茅巻は肩を落とした。珥懿と合流した途端に殴りかかってきそうな未来が見えてげんなりとする。止めるのが自分しかいないからだ。



 茅巻が予想していた以上に暎景の憤怒は凄まじかった。牙族領地が背反に遭ったと報があって五日、驟到峰から灌鳥を受け取る直前に峰を下ってきた馬影は三、正面きってこちらに駆けてきた男はあろうことか真剣を抜いて族主に斬りかかった。珥懿もそれに嬉々として応えるからたちが悪い。結局、不眠で駆けた疲れで身体はもつれ石に足を取られて転んだ暎景は、それでもなお対戦者の衣を掴んだ。


「……少しでも悪いと思っているなら、一発殴らせろ」

「過失は認めるが責は沙爽を救い出して帳消しにする。痛いのは誰だって嫌だろう?」


 すでに剣鞘で打たれて青痣だらけになりつつ、暎景は涼しげな顔の族主をはらわたの煮えくり返る思いで睨んだ。引き剥がしてやりたい面紗ふくめん、おそらくその下では歯を見せて笑っていることだろう。

「それに、沙爽が見つかったということはなにも収穫がなかったわけではない」

「……どういう事だ」

 問うたのに珥懿はそれ以上を言わず、固唾かたずを飲んで見守っていた砂熙さきへ向く。

「本当に馬を連れて来たとは気が利いた。叡砂、お前は侈犧と共に領地に同行せよ。形ばかりでも伴當がいたほうが兵が締まる。敵を捕らえて左賢さけん以下十牙じゅうがの安否を確認するように」

 砂熙は寝不足で青褪めた顔で拝命する。安否の確認にはおそらく、歓慧かんけいのことも含まれている。珥懿にとって実妹がどれほど大切か十分に了解していた。



 暎景はすぐに発つよう急かしたが、敵が驟到峰を過ぎ、二泉に到着するまでにひそかに追いつくのは困難、加えて乱闘になれば多勢に無勢でこちらが確実に損害を負う。それでやはり珥懿と暎景、茅巻三人は目立たないように霧界を西へ移動、四泉阯阻しそと二泉然濤ぜんとうの間の街道から二泉へ入る算段となった。四泉からの難民の流入でせきは形ばかりしか機能しておらず、難民の中には棨伝てがたを持っていない者もいるため検閲もそう厳しくはない。しかし、斥候や間者には目を光らせているだろうから慎重を期す。


「ばれやしないだろうがな、固まって入っても」

 暎景は着衣を汚しながら不平を言ったが、茅巻には止められる。

「そもそも馬を連れているのでさえ目立つ。しかも、お前も族主もおおよそ堅気かたぎには見えん」

 馬にも張りぼてを負わせて行商人ふうに装う。あらかた準備を終えたところに、天幕から珥懿が出てきた。その姿を見て二人は怪訝になる。


「いや…お前、なんだその格好は」


 暎景が呆れて指差したが、相手は全く気にすることなく珥璫じとうを揺らした。


 高価な絹の襦裙じゅくん紗羅布うすぎぬで囲った笠を被り、長い髪は結って垂らす。どこからどう見ても貴族の令嬢か妻室、違和感がないのが腹立たしい。


「茅巻、お前は私の付き人だ。それほど襤褸ぼろを纏う必要は無い」

「お前な、百歩譲ってその格好で行くとして関を無事に通れるのか」

「棨伝ならある」

 お前の分はないがな、と珥懿は目を細めた。そういえば初めて会った時も女人の格好だった。どこから調達したんだと呆れつつ、暎景は首を振ってなおも言い募った。

「変装は褒めてやるがその顔はおかしいだろ。四泉の女は扇で顔を隠しても面紗なんぞしない」

 茅巻も曖昧に頷く。その格好で目の下を覆っていると貴人というよりはどこぞの巫女ふじょのようだ。かなり目立つことは間違いない。

「……そうか」

 初めて思い至ったのか、微かに目を見開き意外にもこだわりなく布を取った。何気に初めて見る族主の面立ち、しかし二人は別の意味で顔をしかめる。

「……これは、どう足掻いても目立つだろう」

「ご愁傷さまとはこのことだ、茅巻。女好きの役人が口説きにかからないことを祈るぜ。通れてもしばらく噂が立つぞ」

 珥懿は頭を抱えている二人をそのままにぐるりとあたりを見回し、呼ばわう。

「――侈犧」

「はいはい。なんだい、お姫さま」

 頭を掻きながら近づいてきた万騎長に玲瓏とした顔を向ける。

「我々が沙爽を取り返すまでに必ず領地も取り戻せ。敵には容赦するな」

「殺してもいいってことか?」

「主犯以外の小物はな。十牙に危険が及ぶならばこの限りではない」

「承知した」

 わずかに沈黙した珥懿に手を振った。

「そんなに心配するな。大丈夫だ。十年前も生き延びたんだ。きっとうまく隠れてるさ」

 珥懿の頭の中半分は歓慧のことで一杯なのを侈犧もまた把握している。

「……お前に慰められると素直に頷けない」

 なんでだよ、と言ったのに珥懿は自身を落ち着けるように息を吐いた。

「……私は信じる」

 戻ると言わないだけ、成長した。

「おう。信じてやれ。あとは俺たちに任せな」

 破顔した侈犧は鷹揚に剣を肩に担ぐと采配を始める。それを見送り、三人は馬の手綱たづなを取った。



 四泉各地を飛び交う灌鳥かんちょうが飛行経路を読まれてちらほらと狩られ始めた。書簡の伝達の遅滞、内容の漏洩を危惧した姚綾らは燕麦えんばくの権威のもと、水が戻った地域の各水虎すいこを代替として連携する。しかし穫司のすぐ南に布陣した二泉軍は、水虎自体に手を出しはしないとしても、その身に帯びた書簡を破壊破棄、窃取するのはやぶさかではない。ためにてん江を通らなければならない各泉には遠回りではあるが大きく経路を避け、接続された他の開渠かいきょをつたって符牒伝書が届けられた。


 穫司の燕麦・姚綾軍は珥懿からの復路の灌鳥をなんとか受け取れた。引き続き瓉明さんめい軍の後背で援護に備える。二泉軍の後方、よう州の東隣、州で様子を窺っている斂文軍はそのまま駐留せよとの指示がもたらされた。開戦すれば悠浪ゆうろう平原に横槍を入れられる位置である。

 霧界にとどまっている鈴榴・斬毅軍も呼応して葉州南でじわじわと北へ移動したが、動向を気取った二泉は葉州都山柏さんはくの前に軍を置いて警戒にあたらせており、それ以上近づけなかった。


 覚束ないながら侵略者に対して着実に包囲網を狭めていた四泉と牙族だったが、その時すでに斉穹せいきゅう撫羊ふようは少数の手勢を連れてろう州へ抜け、一路二泉桂州へと向かっていた。全ての目的である四泉主沙爽をついに捕らえ、監禁した居所は桂州、州都は磁合じごう、その州城であった。




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