三十章
おおよそ人が行く轍もない、槍が突き立ったような岩の峰、隙間を埋めるような木々の陰に
遥か谷の底には小川が流れている。川のせせらぎのみを聞いていれば、さぞ爽やかな情景が思い浮かぶのだろう。しかし川は山の雪融け水を溶かしこんで水嵩を増してなお茶黒く泡立つのだった。その東西を横断するように流れる
号令がかかり、隊列は止まる。刻限は少し早いが今日はここで野営することになった。
熱を持った野牛の首を叩いて労い、水を飲ませるために川へ曳いていく。自らも革袋から水を
ほんのりとした生臭さに閉口しながら気を紛らわすように霞んだ空を見上げる。奇岩の絶壁、峡谷の下から垣間見える面白くも何ともない、変わりばえのしない空、しばらく眺めていたその鈍色に針の一点を見つけ、
白い影は徐々に近づき、覚束なげに飛んできて低く滑空し目当ての人物の腕に止まる。鈴榴は鳥の
「飛ばしすぎだ。
苦言を呈した女にやおら頷きながら文を開いた
「敵襲に遭ったか」
顔をしかめた。腹と片羽根に滲んだ鮮血は鳥のそれだった。
「良からぬことがあったのだな」
珥懿が文を寄越す。文面を見てさらに眉根を険しくした。
「どうするつもりだ」
二人は即席に張った天幕に入る。呼ばれた
こちらが予想していた以上に、背反者は多人数だったということか。しかしあの
「――
「鈴榴は
「ちょいと待ちな。あんた単独で二泉に乗り込むつもりかい。無謀はおよし」
「二泉の腹は読める。四泉には行けないし、あれほど目立つ人質を連れてうろうろとするわけはなし、霧界に置いて衰弱させることも出来ない。とすれば霧界を出てすぐ二泉国境付近のどこかの街に一旦は留め置く」
「ということは、
「おそらく桂州だ」
珥懿が二枚貝に入った軟膏を取り出した。おとなしく肩に止まる鳥を膝に移すと、丁寧に傷に薬を塗り込んでいく。斬毅が唸る。
「なぜそう思われます」
「桂州
「大手を振れない企みにも加担させている可能性はあるということですな」
珥懿は頷く。
「二泉の各州の兵力は弱い。もともと数もいない。桂州は牙領攻撃の際には兵を差し出したが、その被害は甚大として四泉への派兵を拒否している。させたのは封侯だ。しかし後々桂州が懲罰を受けるのは避けたいだろう。四泉主の拉致を指示されれば
「では、四泉主は桂州へ連行されたとみて間違いはない、か。それで、あんたが一人で行ってどうにかなると?」
「桂州の
「それだって、単騎でどうにかなる問題では」
重ねて反対しようとした鈴榴は幕外に気配を感じて黙る。珥懿は
「
手渡された紙面を見て珥懿は嘆息した。
「余計な奴が来るぞ」
「他ならぬ泉主の一大事だ。すでに暎景は出立しこちらに向かっている。俺も泉主救出のほうへ行きたい」
珥懿は鳥を撫でている朴訥な男を見た。
「お前は沙爽の
「もとはな。淕妃さまはなにより泉主と公主が戦わねばならないのがご心痛なのだ。しかし、あの方とて妃に登られた御方、公私の分別はつけておられる。なによりも優先すべきは
茅巻はそこで言葉を切った。ひどく痛ましそうに俯く。
「断罪もやむなし、と。俺はただ泉主を守り、あの
珥懿は了解したのか再び息をつき、地図を広げた。
「では単騎は諦めよう。私とお前、そして連れ立って行きたくはないが暴走癖のある腰巾着で二泉に入る。桂州からの灌鳥を待って潜入する」
「こちらの兵はどうする」
「二軍に割く。引き続き霧界にとどまるほうはお前たちに。
「あの取引した二泉の将をそれほど信じるのですか」
「予防線で蓮宿にはまだ
「残りは」
「領地の兵はおそらく
「戻すのか。まあ、城に残した一翼程度では頭を失えばろくに動けないか。だからいつも指揮の出来る者を育てろと言ってたんだ」
鈴榴に
「みすみす引き抜かれるほうが悪い。それで?牙領に戻す軍はまさか
「この斬毅が裏切り者共を蹴散らしてもようございますが」
「臨機に備えてまだ兵を割く必要があるかもしれない。その時のためにお前たちは離したくない。帰還させる軍は
「
「他に適任もいない。私の軍は気に入らない長を軽んじて規律を乱すほど馬鹿ではない。侈犧も下手な指図をするような男ではない」
それならいいが、と鈴榴は腕を組んだ。
「あんたも聞得の門を調整するのが下手っぴだからね。ここでへばられちゃ困る。戦いは避けたほうがいいだろう。了解したよ。兵はあたしたちが預かった」
珥懿にここまで言える人間は希少である。生まれた時から見てきた強みだ。
「馬を調達して驟到峰からの鳥を待って移動する。それまでに暎景は間に合わないだろう。我々で先行する」
これには茅巻が異を唱えた。
「
「あれがそんなことをするはずないな」
否定にいいや、と更に返す。
「暎景とて単騎で乗り込もうとしても上手く行くはずないことは分かっている。あれは沸点は低いがそれを通り越したら逆に落ちつく」
温度の高い火がその熱さに反して青いのと同じように、暎景は怒りを持続させたまま最短で解決する策を冷静に実行する。
「牙族の諜報なしに泉主を救えはしないと嫌でも分かるから、余計に腹を立てるのだ」
「褒めているのか、それは」
「調子に乗らんほうがよろしい。なにより最も安全だと思っていたのに易々と泉主を攫われあれは怒髪天だ。あまり挑発はせぬほうがややこしくなくて済む」
言いつつ、無理だろうなと諦めの調子で茅巻は肩を落とした。珥懿と合流した途端に殴りかかってきそうな未来が見えてげんなりとする。止めるのが自分しかいないからだ。
茅巻が予想していた以上に暎景の憤怒は凄まじかった。牙族領地が背反に遭ったと報があって五日、驟到峰から灌鳥を受け取る直前に峰を下ってきた馬影は三、正面きってこちらに駆けてきた男はあろうことか真剣を抜いて族主に斬りかかった。珥懿もそれに嬉々として応えるからたちが悪い。結局、不眠で駆けた疲れで身体はもつれ石に足を取られて転んだ暎景は、それでもなお対戦者の衣を掴んだ。
「……少しでも悪いと思っているなら、一発殴らせろ」
「過失は認めるが責は沙爽を救い出して帳消しにする。痛いのは誰だって嫌だろう?」
すでに剣鞘で打たれて青痣だらけになりつつ、暎景は涼しげな顔の族主を
「それに、沙爽が見つかったということはなにも収穫がなかったわけではない」
「……どういう事だ」
問うたのに珥懿はそれ以上を言わず、
「本当に馬を連れて来たとは気が利いた。叡砂、お前は侈犧と共に領地に同行せよ。形ばかりでも伴當がいたほうが兵が締まる。敵を捕らえて
砂熙は寝不足で青褪めた顔で拝命する。安否の確認にはおそらく、
暎景はすぐに発つよう急かしたが、敵が驟到峰を過ぎ、二泉に到着するまでに
「ばれやしないだろうがな、固まって入っても」
暎景は着衣を汚しながら不平を言ったが、茅巻には止められる。
「そもそも馬を連れているのでさえ目立つ。しかも、お前も族主もおおよそ
馬にも張りぼてを負わせて行商人ふうに装う。あらかた準備を終えたところに、天幕から珥懿が出てきた。その姿を見て二人は怪訝になる。
「いや…お前、なんだその格好は」
暎景が呆れて指差したが、相手は全く気にすることなく
高価な絹の
「茅巻、お前は私の付き人だ。それほど
「お前な、百歩譲ってその格好で行くとして関を無事に通れるのか」
「棨伝ならある」
お前の分はないがな、と珥懿は目を細めた。そういえば初めて会った時も女人の格好だった。どこから調達したんだと呆れつつ、暎景は首を振ってなおも言い募った。
「変装は褒めてやるがその顔はおかしいだろ。四泉の女は扇で顔を隠しても面紗なんぞしない」
茅巻も曖昧に頷く。その格好で目の下を覆っていると貴人というよりはどこぞの
「……そうか」
初めて思い至ったのか、微かに目を見開き意外にも
「……これは、どう足掻いても目立つだろう」
「ご愁傷さまとはこのことだ、茅巻。女好きの役人が口説きにかからないことを祈るぜ。通れてもしばらく噂が立つぞ」
珥懿は頭を抱えている二人をそのままにぐるりとあたりを見回し、呼ばわう。
「――侈犧」
「はいはい。なんだい、お姫さま」
頭を掻きながら近づいてきた万騎長に玲瓏とした顔を向ける。
「我々が沙爽を取り返すまでに必ず領地も取り戻せ。敵には容赦するな」
「殺してもいいってことか?」
「主犯以外の小物はな。十牙に危険が及ぶならばこの限りではない」
「承知した」
わずかに沈黙した珥懿に手を振った。
「そんなに心配するな。大丈夫だ。十年前も生き延びたんだ。きっとうまく隠れてるさ」
珥懿の頭の中半分は歓慧のことで一杯なのを侈犧もまた把握している。
「……お前に慰められると素直に頷けない」
なんでだよ、と言ったのに珥懿は自身を落ち着けるように息を吐いた。
「……私は信じる」
戻ると言わないだけ、成長した。
「おう。信じてやれ。あとは俺たちに任せな」
破顔した侈犧は鷹揚に剣を肩に担ぐと采配を始める。それを見送り、三人は馬の
四泉各地を飛び交う
穫司の燕麦・姚綾軍は珥懿からの復路の灌鳥をなんとか受け取れた。引き続き
霧界にとどまっている鈴榴・斬毅軍も呼応して葉州南でじわじわと北へ移動したが、動向を気取った二泉は葉州都
覚束ないながら侵略者に対して着実に包囲網を狭めていた四泉と牙族だったが、その時すでに
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます