二十九章



 幽閉されて数日は、様子を見に来られる度になんとか歓慧を説得しようと試みたが、それはむなしく徒労に終わった。彼女とて一存では決められないこと、沙爽が来領しこの何月かで牙族について感じたことは、小部族であるがゆえに縦の上下関係も横の連帯も強固だということだった。それは形式だけにとどまらない。


 城に仕える者はなべて各家族の大人たいじんを筆頭として完璧に組織系統化されており、その上に僚班りょうはん伴當はんとうがおり、頂点に族主がいる。沙爽の印象としては、個人間で成り立つ信頼や絆より先に、順序正しく整えられたその網の中にこれまた正しい位置で組み入れることによって個々の活動を封じ込め、編み込まれた織りの中でのみ自身の意思を巡らせることが出来るようにしているふうに感じた。


 彼らは不遇の一族だ。今でこそ泉地に名を馳せる高名な氏族で、泉国に容易に手を出せはしないと思わしめるだけの力があるが、それは長い歴史を通して彼らが地道に築き上げてきた堆積の結果なのである。古の黎明の時代には、泉外部族はもっと数多くいたらしい。それが水の枯渇と泉民との衝突によって数を減らし、または氏族どうしが融合していまの時代まで生き延びてきた。


 そんな背景があるからか、牙族の団結は個人の意思よりも重んじられるもので、特に当主の権は絶対であり全幅の尊崇を寄せるべきものとして扱われている。まあ、一族としての同胞意識が強く自然に仲間は家族であるという根底があるからか、君臣の力関係が堅固なわりに個々の気持ちの上での敷居は気安いようには感じるが。


 しかし、その形――沙爽は読み進める手を止めた。牙族は異能の保持者である聞得キコエを重んじ、ために不能渡わたれず耆宿院きしゅくいんと度々いさかいを起こしている。そう、編み込んだ組織は牙族全体としては小規模に機能しているだけにすぎず、そしてそれも形ばかりを残して徐々にほころんできているのかもしれない。以前、飯店しょくどうの主人は言った。牙族も不能渡が増えてきている、と。相対して由歩が少なくなっているのなら、聞得を前提として組んできた統治体系も成り立たなくなってくる。そういう危うさを、もしかすれば珥懿は早期に感じていて、沙爽の同盟という提案を受け入れてくれたのかもしれなかった。



 牢の内外には膨大な書物があった。多くは牙族の古代文字で書かれていて沙爽には読めなかったが、壁を穿うがった棚にぎゅう詰めにされた麻紙、竹簡、木牘もくとく、絹布、桑皮や獣皮にいたるまであらゆるものに記された伝記や専門知識を書き連ねた蔵書があり、ますますなぜこんなところに牢があるのか首を捻るばかりだった。


 遠くから足音が聞こえて(驚かせないようあえて鳴らしているようだった)、いつものように歓慧が姿を見せた。沙爽が出牢の懇願を口にしなくなったのでどことなく安堵しているふうだ。昼の軽食と新しい着替えを差し入れると、鉄柵の向こうから大きな瞳で覗き込んだ。

「何をお読みになっているのですか」

「牙族に伝わる神話、のようなものかなこれは。私が聞いてきた話とはまるで違って奇天烈で面白い」

 歓慧は微笑んだ。

「鼎添さまが文字を読むのをお辛いと感じる方でなくて良かったです。ご不便をおかけしますが、今しばらくご堪忍かんにんください」

「それよりも誰かと話せないのが寂しい。ここはまるで人の気配がないから」

 小さな明かり取りからおおよその時間帯は把握出来るものの、牢房には漏刻とけいも無かったし、話し声や足音さえ聞こえず、ただ浴槽に流れ落ち排水される水音が時おり響くのみ。ひとり隔絶されてしまった沙爽はたまらなく人に飢えていた。世話役が歓慧で良かったと心から思った。他の者のように仮面を着けて黙って食事を置いて行かれたりなどすれば孤独に耐えられなかったかもしれない。


 少女は困ったように首を傾げた。我儘を言っても詮無いのは分かっている。珥懿や暎景たちが自分を置いて行くと決めた以上、ここは外界から切り離された秘匿の場所なのだと了解している。


 歓慧はいつも沙爽をおもんぱかってかすぐに去らずに牢の外にある書棚から適当にひとつ取り出すと、鉄柵に寄り添うように脇に座ってそれに目を落とし始める。沙爽には嬉しいことであったけれども、それは徐々に、より一層彼女に対しての奇妙さが増していくもとになった。

 歓慧とて牙族の一員、沙爽の世話を任せられるくらいに重用されている。牙族は高位になればなるほど他者から顔を隠すことは今まででよく分かっている。であるのに、歓慧は出会った当初から素顔を晒し、質素な姿なりで髪も短い。これほどに重んじられているのにそれがちぐはぐで、更には彼女とてここの世話だけをしているわけではなかろうと思うのに城内で他の者と共に行動したり言葉を交わしているところをほぼ見たことがない。考察したように城の勤め人は全て組織化されているとすれば、それぞれに定められた職分があるはずで、しかし歓慧はなぜかそこから外れて自由にしているように見えた。それが沙爽に違和感を与えている。


「歓慧どのは……」


 言い淀み、どう問えばいいのか迷う。どういう立場なのかと訊けばただの城仕えだと言うだけであろうし、もっと詳細に尋ねても答えてくれそうにもなかった。

「どうかされましたか」

「いや…そなたは、たいそう牙公の信頼があついのだな。こうして私を任せられているし」

 相手はいつものようにただ微笑んだ。

「私が無理を言ってお願いしたのです」

「その無理な願いが通るほどに、歓慧どのは族主と仲が深いということか……ひょっとして」

 沙爽は顔を上げた。

「将来をちぎった仲、とか……?」

 言いながら少し焦っている自分に内心首を傾げた。歓慧はそんな彼を見てややあって小さく吹き出す。声を上げて笑うのを必死に耐えている様子に沙爽は赤面した。

「ち、違うか。いや、牙公はいつも鋭い雰囲気をさせているのに歓慧どのに対しては少し柔らかいような、そんな気がしていたからてっきり」

 違います、と歓慧は笑いをこらえて首を振る。灯火に潤んだ瞳が琥珀の色に反射して、眼差しが優しく少年を捉えた。

「たしかに私は当主と気安いといえば気安いですけど、けしてそんな間柄ではありません」

 そうか、と沙爽はさらに照れた。さきほど感じた焦燥感はどこへやら、ほっと息をつく。その様子に歓慧は目を細める。

「でも、私ばかりでお飽きになられたなら仰ってくださいね。といっても、私以外は泉主と話すのを禁じられているのですが」

「飽きたなど、そんなことはない。むしろ歓慧どので本当に良かったと思う。いつまでもここにいるのは気が滅入るが、そなたといると心が安らぐ」

 大真面目に頷いた沙爽は読みかけの竹簡を取り上げた。

「牢の外にある書物で良いものがあったら貸してほしい」

「熱心ですね」

「他にやることもない。ここを出られるその時まで勉強するとしよう」



 しかし、その時はそれからいくらも経たずに、しかも突然にやってきた。



 その夜、沙爽はよく寝付けなかった。牢は石で囲まれて肌寒く、しかし火災を懸念してか火鉢は無い。与えられた温石おんじゃくを抱き込み、牀榻しんだいの中で被衾ふとんにくるまっていた。


 独りの夜は泉宮みやを思い出す。幼い頃から広い室内で独りで寝るようしつけられた。それでも孤独の夜は怖くて寂しくてよく泣いた。すると暎景や瓉明さんめいや、必ず誰かは来てくれて、眠るまで傍にいてくれたものだった。撫羊が同じようにされてからは逆にこっそり忍んで行って二人で眠ったものだ。撫羊は自分と違い泣くような子ではなかったが、それでも兄が来ると待っていたと言わんばかりにいたずらめいて必ず夜遊びを提案してくるのだった。そうして朝は必ず侍官たちに怒られたが、撫羊にも兄と同じ教育を施すと母が決めたのは、そんな二人のことを聞いてより絆を深めさせようと思ったからかもしれない。


 りく妃は自分に近い者を分け隔てなく愛する人で、それは男女に限らずだったし庶子である瓉明にもそうだった。先代に賜与された采邑むらに子供らを連れて足繁く通い、兄妹に同じ体験をさせた。撫羊は弓も馬乗りも筋が良く本人も楽しそうで、逆に自分は意外にも細かい作業が向いていて針仕事やはた織りをする女たちに感心された。きっと父王や義兄たちが知ったら呆れられたのかもしれなかったけれど。



 ―――あの幸せな日々。



 自分はただの湖王こおうで、大きくなれば義兄の補佐をするか封領ほうりょうを与えられ、そうして安穏と、母と妹とずっと過ごしていくのだと疑いもしなかった。



 それが――それが、こんなことになるなんて。



 ぞっと悪寒がして、うつらうつらとしていた瞼を開いた。目は何も映さず、ただ自分の息づかいだけが聞こえた。微かに震える手を握り込み、なぜ目覚めてしまったのかと呪い始めた時に、密やかな声を聞き反射で起き上がった。


 灯火の消された暗闇に包まれたなか、瞬けばそれでもうっすらと陰影が浮かび上がってくる。檻の縞模様の向こうに人をみとめて冷たい石床に足を降ろした。



「鼎添さま」



 ひどく押し殺した歓慧の声、沙爽がつられて小声で呼びかけ鉄柵に寄ると、いきなり腕を掴まれ揺すられた。

「どうかしたのか」

「鼎添さま、すぐに着替えてください」

 切迫した調子は今まで聞いたこともないほど硬く、それに気圧けおされてともかくも睡衣ねまきを脱いでいる間に歓慧はすでに牢の鍵を開いて入って来た。一つだけ灯火を点ける。

「鼎添さま、本当に申し訳ありません。裏切り者が城内に入ってきました」

「裏切り者⁉」

 歓慧は手早く着替えを介添えする。彼女が選んだのは動きやすい襦褲じゅこで寒かった。

「剣はお邪魔になってはいけませんから」

 そう言って小ぶりの懐剣を差し出し、それから小さな玻璃瓶に入った液体を飲むよう促した。

醸菫水じょうきんすい?」

「お逃げくださいませ。ここも危なくなりました。東に続く街道を抜けて四泉と二泉の霧界こっきょうへ」

 言いながら沙爽を牢から出し、暗闇の道を進む。何度か折れて階を降り、左右に並ぶ石づくりの書棚の通りに出た。そのひとつ、いちばん下段に空いた穴をくぐる。

 穴の向こうは細縄を道標にした狭い地下隧道すいどうになっており、まったく明かりがない。暗闇のうろがずっと先へ続いていた。


「この上は大庭おおにわです。ここからまっすぐ進めば東の街道に出られます。途中、北へ向かう道を逸れてさらに行くと四泉です。関門へも出れますが二泉の伏兵がいるやもしれませんのでそのまま二国のあいだへ。獣道が続きますが通れなくはありません。当主が東から戻って近辺にいますから、いずれ合流出来るでしょう」

「ちょっと、待ってくれ」

「最低限の荷と馬はこの道をしばらく行ったところに待たせてあります。水は塞水玉そくすいぎょくしかございませんが、切り詰めて二十日はつようにしてあります」

「歓慧どの!」

 沙爽は小さな肩を掴んだ。

「そなたは大丈夫なのか⁉」

「問題ございません」

 歓慧は笑み、安心させるようにその手を軽く叩く。

「そうでした――これを」

 ふと、懐から取り出したものを沙爽の首に提げる。

「これは?」

「灌鳥の風切り羽根で作ったものです。灌鳥の羽根は身に着ければあらゆる惑いから人を救い、道を示すといわれています。鼎添さまをお守りするよう」

 先が青黒い小さな羽根はつややかで美しかった。沙爽はそれを握る。

「ありがとう」

「実は、いつお渡しするか迷っていました」

 歓慧ははにかみ、それからすぐ進むよう急かす。沙爽が縄をつたって数歩踏み出したところで、後ろから声が響いた。



「あなたとお会いできて良かった。どうぞご無事で」



 こたえようと振り返ったが、くぐった戸はすでに重い残響を耳に残して閉じてしまった。泣き出しそうなのを歯を食いしばって耐え、ともかくも前進する。


 光の一切ない狭い道、しかし微かに風の通る感触がする。無心に歩を進め、少し空間が広くなり自分の足音がこだまする。くねった角を道なりに曲がったところで馬のいななきが聞こえ、はっとして走り出した。


 ひらけたほらは隅に水溜まりがあり、上から落ちる水滴が高く音を鳴らして波紋をつくる。どんな仕組みか生物か、水中で夜光虫のように明滅する幻想的な光の粒があたりをぼんやりと照らしている。その側の岩柱に繋がれた馬が主を待っていた。沙爽が牙領に乗ってきた駿馬しゅんめだ。


帆有はんゆう


 駆け寄って抱きつくと帆有は主と分かって鼻を押しつけた。早くここから離れたいのか、馬蹄あしを踏み鳴らす。

「静かにしておくれ」

 声をひほめて背に跨る。道の先は馬に乗っても通れるほど広い空間が続いていた。そして緩やかな登り坂だ。静かに、しかしなるべく急いで進む。


 途中分岐がいくつかあり、迷って手綱を緩ませれば、帆有はいちばん安全な道が分かるのかただひたすらまっすぐ進んだ。歓慧の言った通りのようだ。かなり長い時間を闇の中進み、目が見えなくなってしまったのではないかと疑って諦めかけた頃に、前方に微かに光を見た。


 思わず駈歩かけあしで近づいたそこは岩の亀裂で、わずかな隙間の外光と思っていたが馬が通り抜けられる大きな出口だった。さすがに乗ったままでは無理そうなので下りてその岩棚を抜けると、途端にふんわりと草土の匂いがした。虚は外から見れば灌木と雑草と岩の陰にちょうど隠れて紛れ込んでいた。頭を上げると、金糸のような月は傾き、東の空はほんの少しだけ白んでいる。


「抜けた……」


 胸を撫で下ろしてあたりを見回したが、地表の低いところには霧が立ち込めて木々は生い茂り、城の陰影を見つけることは出来なかった。



 歓慧は本当に大丈夫なのだろうかという不安が心に去来する。彼女は裏切り者と言った。それでは仲間が二泉に与したということか。

 鬱々と下草を掻き分けてさらに進むと街道というには名ばかりのわだちに出た。沙爽も牙領をおとなう際に使った東の道だ。その道沿いを帆有に乗って急き立てられるように歩む。警戒していたが人の気配はなく、ただ夜目には白い由霧が漂う。


「……寒い」


 外套もなく短い衣は夜明けの寒気を肌に通してしまう。ぶるりと身震いして心細く首を巡らせた。森はしんと静まり返り鳥の鳴き声もしない。来た時は暎景も茅巻もいて、なおかつ由毒で周囲を見渡す余裕などなかったから、通ってきたはずなのにまるで景色に見覚えがなかった。

 覚束なげな足取りで馬を進め朝を迎える。この時刻になると由霧は火群ほむらのように立ち昇って紫雲をたゆたわせ、紗幕に陽光を透過させてきらめいていた。霧の中なのに、光源がどこにあるのかはっきり見える。それなのに身近では自分の足許さえ見えにくく、道の先は視界が悪い。



 由霧の中は人界とは異なる、と言ったのはたしか太傅たいふだった。由霧は普通の霧とは違い、霧中には魔がむ。霧界に関した寓話や奇談は数え切れないくらいあって、太傅が話してくれたひとつを思い起こした。


 由霧の中では、人は自分の『霊』を霧に巣食う魔物に食われてしまうのだという。霊、とは魂とは違うものらしい。おそらく、その人自身をかたちづくる要素、ということだろう。何度も由霧を往き来する人はその霊を魔物に少しずつ吸い取られていく。時おり他国に行商へ行って、戻ったものの以前と違いまるで『人が変わった』ようになってしまったりするのは、このせいらしい。そうしているうちに寿命までがむしばまれ、早死にする。だから由霧は本来越えてはいけないものなのだと。


 あながち嘘ではないのかもしれない、と沙爽は思う。それら怪談の数々は単に由霧には毒があって危険だから避けるようにという訓戒を暗示したものだ。しかし、実際に霧を渡る牙族は短命で、他者に対して情に薄い。もしかしたら霊を食われるというのは、少なからず由毒が由歩に影響していて、それが情緒面で顕著に現れるということなのかもしれなかった。では、元来不能渡わたれずである自分はどうなるのだろうと考える。由霧を渡る前と後で、とくに自分の中で変調はみられない。


 由霧の逸話にはそういったことに加えて、怪異や奇瑞などの現象について言い伝えているものもある。例えば、霧界で陽や月が二つや三つに見えたなら、それは妖が見せているものでそれをもとに方角を定めると迷う、とか、日中、自分の影に光輪が出来ているならそれは凶兆のしるしなのだという。思い返せばかなり沢山の寝物語があったな、と沙爽は何気なく見下ろして、――――そして言葉を失った。



 自分と馬の影は真下にあり、その周りを囲うように二重の光の帯が取り巻いていた。光は白いようでもあり、色がついているようでもある。それは歩みに合わせて移動する。

 ただの説話とて、いまこの時に実際に体験するのは運気が悪いように感じた。しかしとても貴重なものを見ているのは分かる。帆有が騒がないことをみるに、どうということはない光の加減だろう。


 そう半ば言い聞かせ、頷いて肝の冷えた心地で顔を上げた刹那、正面から風を切った何かの衝撃を受けて帆有が前肢を持ち上げた。


 嘶いた馬の上で体勢を崩した沙爽は共に道を逸れる。轍の両側は急坂、転げ落ちてそのまま結構な距離を落下した。

 したたかに身体を打ち呻いた泥濘ぬかるみ、顔を上げれば苦しげな息づかいをさせて愛馬が立ち上がろうともがいていた。突き立ったものを把握し血の気が引く。助けようとしたとき、追い討ちをかけて首と腹に複数、音を立てて同じ征矢そやが降り注ぎ、沙爽は馬の前に出た。


「――やめろ!」


 怒鳴って前方を睨み据えた。どこから飛んできたのかは分からない。口のなかの土味のする唾を吐き出して声を張った。


「射るなら私を射ればいい!」


 自分の声がこだまするだけ、なんの返答もない霧をもう一度すがむと、向き直って帆有の様子を確かめた。

 徐々に足掻く四肢が力を失い、大きな瞳の輝きが消えてゆくのを沙爽はやるせなく見つめることしか出来なかった。泥に埋もれた馬首を膝に抱えて名を呼び、こぼした雫が黒い毛艶に弾かれ滑り落ちていった。次いで、濡れた目で側に落ちた影を睨み上げる。


「銀の髪の少年。四泉帝沙爽で間違いないな」


 くぐもった声で呟いたのは知らない男、その男も仲間と思われる他も顔を覆っていて沙爽が見たことのある人物なのかも分からない。

「お前たちが牙族の裏切り者か」

 問うた声にも反応はなく、ただ冷めた目で曲刀を突き出す。

「四泉主には我らと共に来て頂く」

「なぜ殺さない。私が生きていては撫羊は王にはなれないぞ」

 沙爽の問いに一切答えるつもりはないようで、男たちは威嚇してただ剣先を突きつけるのみ。沙爽は帆有の首を抱いたまま、左右に目を走らせた。どこか――逃げられる場所はないか。


 殺されるのもまずいが、捕らわれるのも非常にまずいと分かる。二泉は自分を人質に牙族に撤退を要求し、四泉に撫羊と二泉主の戴冠を迫るつもりなのだ。それはもっとも最悪な事態だ。今までの全ての策と牙族との同盟が水泡に帰す。

 しかし敵に囲まれ、逃避は不可能だという絶望で身を強ばらせた沙爽はどうしたらいいか分からずもう一歩も動けない。矢を受けて息途絶えた馬の亡骸を前に茫然自失した。男たちが手首に縄をかけようと強引に腕を後ろに回す。それに力なく従いながら愛馬を見下ろし、じわじわと哀惜が襲う。いつも命令のつたない主に従ってくれた賢く優しい駿馬。触れれば嬉しげに鼻を押しつけてきた。ついさっきまで、確かに生きていたのに。

 寒さと悲しみで震えた。こんな山の中に置いていけない。そう思ったと同時に、沙爽は男たちを振り切り帆有のからだに離れるものかとしがみついた。連れて行かれるくらいならここで共に果てたほうがましかもしれない。

 不意を突かれた男たちだったが、腹立たしげに沙爽を馬から引き剥がす。抵抗したが後背から押さえつけられ泥中に這いつくばり、それでももがいて声を上げた。


 誰か。誰でもいい。助けてくれるなら、人でなくても。錯乱した頭で思わず浮かんだ獣の名を叫んだ。


「……可弟かと雨帰うき怒舟どしゅう!」


 沙爽に貸し与えられた妖犬。あれらならこんな兇賊きょうぞくを蹴散らすことなど容易なはずだ。


「助けてくれっ……」


 さらに喚いたが突然首の後ろに衝撃を受けて突っ伏した。痛みは覚えず、意識の遠のく一瞬、微かに頬に感じたのは先ほどまで生気のあった愛馬の、その冷めつつある温もりだけだった。




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