二十八章



 その言葉はまるで床弩矢ゆみやのような重い衝撃で砂熙を射抜いた。燕麦は口を開閉させるも、言葉が出てこない。李乾が渋面をつくった。

「一体なにが」

「仔細はまだわからぬ。灌鳥は頭に血印、文は汚れた鈴丞りんしょうのもの、烏曚うもう芭覇ばはも、誰の生死も定かではない。当主のもとにもしらせは行っておるであろうが、こちらからも今後の動きを指示して下さるよう鳥を出した。最悪、我らは四泉から撤退する」

 燕麦が両手で口を押さえた。よろめいた拍子で卓の上のものが落ちる。有り得ないことが起きてしまった。たったいま話していた、万一の奇禍が。

「……少し、お待ちください!この時点で牙族に手を引かれては四泉は破滅です!」

 ほぼ悲鳴の訴えに姚玉は眉間に皺を寄せる。

「内紛とあるからには二泉ではなく耆宿か僚班いずれかの裏切り者が決起したとみていい。しかし四泉主が奪取されたのならば確実に二泉と通じておる何者かの仕業だ。我々としては四泉を守るより先に族領を取り返さねばならん。ともかくも当主の返事が来るまでは動けぬが、儀同三司には腹を括っておいてもらう」

 突き放すように言うと姚玉は憤然と斗篷がいとうひるがえして出て行った。燕麦は呆然とその場に崩れ落ちる。

「何を言って……これからが、最大の山場だというのに、この時点で?盟約はどうなります」

「四泉主が失われれば全てが終わります。しかし、私たちは四泉よりも領地が最優先、姚玉さまの言ったとおり泉主が奪われ殺されたなら、同盟も白紙に戻る……」

 自分で言いながら、砂熙は絶望に打ちひしがれる。ここまで来てという思いは族軍とて同じである。


「砂熙」


 落ち着いた声がかかり顔を上げると、入口に礼鶴らいかくが立っていた。

「父上……」

「伴當は召集がかかった。来なさい」

 後について走廊ろうかを歩きながら、砂熙は鬱々と自分のつま先を見つめた。

「父上、いったい、何がどうなって」

 沈黙に耐えきれず前を行く背に問う。礼鶴は振り返ると蒼白な娘を見下ろした。

「私にも分からない。まだここにいる誰も詳しいことは知らない。しかし、鈴丞どのの文は拝見した。符牒ふちょうを並べる暇も無かったのだろう、ひどい走り書きで血に汚れていた」

「鈴丞さまを手に掛けられる相手など伴當にもおりません。きっと不意を突かれたか多人数で罠に嵌められたとしか」

「砂熙、落ち着きなさい。我々がここでまごついていてもしようがないよ」

「でも!今すぐ兵を割くなりして、早く助けに行かなければっ……」

。お前は伴當です。皆の手本になるべき立場だ。もう子供扱いは出来ないのだよ」

 礼鶴はどこまでも冷静だった。今にも泣き出しそうな娘にも慰めの言葉はかけない。立ち止まって欄干にもたれた。

「お前は登虎とうこの試練で死ぬ思いをしたね。気がくのなら、登虎よりましだと念じて心をしずめなさい。あれを生きて帰ってきたお前ならば噴き出している気を抑えられる。……少し時間をあげよう」

 そう言うと腕を組んで目を瞑った。砂熙は荒くなる息をゆっくりと吸い込んだ。体中の感覚が忙しなく不必要な雑音までもが混じりあっている。肺に溜め込んだ息を今度は深く吐き出す。泡立った水の波紋を徐々に消すように。聞得キコエの開閉、それを律することを完全に己の中で掌握しなければそもそも登虎は越えられない。



 耳目鼻、加えて肌で感じるところ、それら全てにはがある。人によってその数は違う。そもそもが頭の中で思い描く門だが、それを幾つ閉じて開けておくのかで聞得の加減は実際に調節できる。砂熙の場合は平時、聞得をのには門数の半分と一つが必要だ。気が乱れると門が閉じているのか開いているのか分からなくなるから、まず気を鎮める。



「……感じなくなった。よく出来たね」

 しばらくして礼鶴が微笑んで立ち上がった。砂熙は胸に手を当てる。

「ごめんなさい、父上。……取り乱しました」

「無理もない。が、力ある者の気は下の者にも伝わって少なからず影響する。それを忘れてはならないよ」

 はい、と砂熙は拳を握った。父の気のにおいはいつも一定で乱れたものを感じたことがない。笑んだ礼鶴は行こう、と促して背を向けた。流石だと娘ながらに思った。礼鶴は伴當の中で能力も器量も特に抜きん出て際立つ男ではない。しかしいつも安定していて助言も指示も的確、物腰柔らかで配下の人望もあつい。十牙じゅうがの一である左漸将さぜんしょうを拝命しているだけのことはあった。



 別室には姚綾だけでなく暎景の姿も見えた。彼は予想外に静かだったが、砂熙にはそれが怒りを通り越した境地なのだと言葉の端々で感じ取れた。

「俺は単独で泉主の行方を追う」

 言った暎景に砂熙以外の三人は反対する。

「無闇に動き回ったとていたずらに消耗するだけ。ここは当主の返事を待ってからでも遅くはないのでは」

「いつ来るかも分からない指示を待っていられるか。あいつはな、泉主は一番安全なところに隠すから大丈夫だと抜かしたんだぞ。それがこのざま、もう信じてはいられない」

「しかし暎景どの、あなたとて泉主が奪われたという文言だけではいまどこにおられるのか予想もつかないでしょう」

 暎景は殺気立って礼鶴を見返した。

「いまは時が惜しい。こうしてる間に泉主が殺されでもしたら四泉は終わる。そうなれば俺は牙族を一人残らず殺してやる」

 砂熙は丞必が寄越した文に目を落とした。

「奪われた……」

 奪われたというのは文字通り敵によって泉主が連れ去られたということだろう。泉主を亡き者にしようというなら発見して即殺すはず、つまりは丞必は泉主の遺体を見たわけではない。

 砂熙はいまにも飛び出して行かんばかりの男を見上げた。

「暎景さま、少なくともまだ四泉主はご存命です。きっと、二泉主か公主に引き合わされるまではどこかに囚われているのではと」

「そんなこと分からん」

「ええ。でも公主の目的は四泉主に王位を禅譲ぜんじょうさせ、自分が真に神勅しんちょくを受けること。公主は女、そうしなければ自分の正統性を内外に示せないから。だから今はまだ殺せないのです」

「なるほど。禅譲させるなら手順を踏まなければならぬ。それまでは殺せぬ」

 姚綾も暎景を見た。暎景は鵜呑みにして良いのか迷う瞳で一同を見渡す。

「では、何だ、公主が泉主に会うまではまだ間に合うと?」

「おそらく四泉主が公主の手中に入れば奪還は難しい。きっと悠浪ゆうろう平原にいる撫羊軍で動きがあるはず」

「ではその前に見つけ出せば」

「しかし、問題はそこです」

 礼鶴が首を振る。「鈴丞どののこの文だけでは四泉主が今現在まだ牙領にいるのか、それとも連れ出されたのか定かではありません。当たりだけでもつけておかなければ、後手に回ってしまいます」

 暎景は歯ぎしりし、ともかくも、と姚綾は文を撫でた。

「全ては当主の返答を待つしかない。我らは指示が来なければこのまま穫司にとどまり、必要ならば四泉軍の加勢に参ずる。四泉主があちらの手に落ちたのなら穫司こちらに泉主がいないと裏付けが取れ、敵はきっと何のはばかりもなく突っ込んでくる」

「せめて、今どこにおられるのか分かれば……」

「おそらく、時を置かずしてまた灌鳥は来るやもしれん。背反者が多数であっても、僚班全てがそうであるはずはない。これは私の予想にすぎぬが、四泉主を連れて土地勘のない四泉に来るとは考えにくい。おそらく兇賊きょうぞくらは南を行く。そして、二泉に抜けるならば必ず驟到峰しゅうとうほうを通る」

「驟到峰……窊梨わりどの」

「そうだ。窊梨ならいくら街道を避けて山道を辿ろうと必ず見つける。族領からやってくる隊ならなおさら不可思議に思うはずだ。絶対に当主に灌鳥が行く」

 暎景はしかし、となおも懸念を口にする。

「以前驟到峰はいちばん初めに襲撃された。観測地を移したとはいえ、身内に居所が知られているのじゃそれらもすでに討たれているのではないか」

螻羊ろうようがいるわけではなし、それに鈴榴りんりゅうどのが独自に作られた観測拠点は無数に存在する。当主が生まれる前から使っている箇所は当主でさえ知らないものもある」

「驟到峰が兵を足止めしてくれる可能性は」

「それは無いと言っておく。いま驟到峰には必要最低限の人員しか置いていない。窊梨は頭の良い男だ、無闇に攻撃はせず様子を窺うだろう」

 暎景は剣柄たかびを握る。「どのみち初めに族主に連絡が行くのなら、俺もそっちへ行く。驟到峰から灌鳥が来次第、二泉へ」

「単独で乗り込んでどうにかなると」

「ここで指を咥えて待っていることなど出来ない!お前たちが止めても俺は行く」

 姚綾は姚玉や礼鶴と目で示し合い、諦めたように頷いた。

「……分かった。必ず当主と合流し、その後のことを話し合って欲しい。下手を打てば予想外に四泉主が殺される可能性もある」

「もとより承知だ。それに、泉主は不能渡わたれずで並の者より毒気に当てられやすい。由霧から一刻も早く出して差しあげなければお身体からだを悪くする。霧中での奪還は考えていない」

「当主は現在種州沿いの霧界におられる。暎景どのが行くことは知らせておこう。野牛をお使いになるか」

「目立つのは避けたい。一番速い馬を貸してくれ」

 砂熙が皆の前に膝をついた。

「私も暎景さまと共に行きとうございます」

「いい。一人で十分だ」

「私には聞得の力があります。それに種州にも伏兵がいる場合、囮は必要です」

「お前……」

 暎景が解せないという顔をした。「牙族がそこまで四泉に尽くす必要はないはずだ。お前たちは領地を守れればたとえ四泉が二泉に支配されても害はないはず」

「いいえ。もうすでにその段階は通り過ぎました。ここで牙族が引き揚げたら、戦いで死んだ仲間は一体何のための犠牲となったのです。四泉との同盟は必ず成し遂げます。姚綾さま、叡礼えいらいさま、どうか私を暎景さまの護衛に付けてください。私程度の小物なら失われても大した損失にはならないでしょう」

 じっと見つめた礼鶴は腕を組んだ。

「護衛を務めるなら初めから死ぬつもりではなく守り抜くつもりで行きなさい。帰ってくると誓わなければ私は許しません」

「叡礼」

 姚綾に困って横目で見られ溜息をつく。

「止めても無駄ですよ、姚綾どの。母親に似てこうと決めたら頑固ですから」

 では、と砂熙が見上げると父は頷いた。

「行って暎景どのと当主、そして四泉主をお助けしなさい。でも必ず帰ってくるように」

「――はい!」

 大きく頷いた娘に、行かせたくないという思いを寸毫すんごうも顔に出さず、礼鶴はただ頷き返した。


 同じように必ず帰ると誓った蘭逸らんいつは戻ったけれども、儚くその命を散らした。ここは広い泉地、もしかしたら砂熙を見るのはこれが最後になるかもしれなかった。しかし止めない。彼女はすでに幼子ではない。その魂を縛ることはもはや自分にも、誰にもできはしないのだ。







 春もなかほどを過ぎて首を竦ませる風は緩み、緑一面の草原はうららかな陽気に包まれていた。霞む遠景から蛇行してこちらに延びているのは澄んだ水を滔々とうとうと張った大河、岸辺には鮮やかな野の花がそこかしこに咲いている。

 しかしその穏やかな様相とは裏腹に、小高い丘に布陣した兵は一様に殺伐とした空気を醸し出し、地平線にうっすらと臨む白い城壁を終始警戒の色濃い目で見ていた。


 緩くなびいた旗の立つ天幕の中で斉穹はほう、と手にした文の内容に感心した。具合を問うてきた麾下きかにぞんざいにそれを渡す。

「四泉主を捕らえたと」

「まことでございますか。こんなに容易く?」

 斉穹は笑い含む。満足気に酒瓶を傾けた。

「四泉と本気でぶつかりあえず、口惜しいばかりではあるが勝敗は決したも同然だ」

 おどけて言って、これほど早く決着がつくとは、と盃を呷る。

「どうされるのです?」

「すぐに殺しては面白くない。どうせならば牙族主ともども引き回してから公開処刑し、首級しるしを天下に示してやりたいな。簒奪さんだつを企んだ大逆賊として後世まで語り継ごう」

「しかし殺してしまったほうが、我々の勝利が確実では?」

 そうくな、と斉穹は頬杖をついた。

「継承とは基本的に直系年長順と決まっている。前王の遺詔いしょうがあったとしてもほとんどの場合神勅がくだるのは泉帝の子で一番早く生まれた男子だ。いくら撫羊が自分に神勅が降ったと言い張っても、実兄である沙爽が生きている限り説得力に欠く。民草はともかく、有識ある者を騙せはしない言い分だ。しかしここで撫羊が兄を殺せば周りには正当な泉主を弑逆しいぎゃくした簒奪者と受け取られる。それでいくら本当に降勅しても、民の支持は得られず、撫羊は朝廷の中で孤立を強いられるだろう。確実なのは沙爽を生かしたまま黎泉に連れて行き禅譲を宣旨させ廃位させ、神勅を唯一の継承者となった撫羊に移すことだ」

「ややこしいですね」

 つまらなさそうに言った下僕しもべにさらに笑う。

「とまあ、撫羊は生真面目にこの手順を辿ろうとするだろう」

「……泉主は、そうされないので?」

 密やかに問うたのにさてな、と主はあらぬほうを見た。

「面白くなりそうなほうに転がろう。伝令を撫羊に」

「まさか、泉主も四泉主をお迎えに?」

兄妹きょうだいの感動の対面に立ち会いたいではないか」

「しかし、前線の指揮はどうされるのです」

 斉穹は別の者に手招きして人を呼ぶよう伝えた。しばらくして現れた将軍は王の足許にひれ伏す。

騫在けんざい。牙領で負った傷はもう良いか?」

 は、と男は額を地に擦りつけた。斉穹はそれを見て目をすがめる。逃げ足の速いこの男が傷など負っているわけがない。牙領から壊滅状態で逃げ戻った騫在は命からがらになりながらも牙族の内情を伝えるため、慚愧ざんきえないと感じつつ厳罰覚悟で戻ってきたと言った。しかし厚顔無恥なこの男のこと、おおかた勝機が無いとみて兵を見捨てて逃げ戻ってきたに違いないと初めから分かっていた。とはいえ、諂諛てんゆすることしか能のない彼はまだ斉穹にとって有用な駒である。

「騫在、我は撫羊と一時合流する。その間本軍を任せるぞ。必ず四泉軍を討ち滅ぼせ」

「私に、京師兵をお任せなると⁉」

 騫在は驚いて身を強ばらせた。

「牙領での汚名をそそぐ機会をやる。働き次第では望む地位をやろう。ああ、お前は大司馬位に憧れていると聞いたが」

「そんな、滅相もございません。私などにそのような」

「騰伯も耄碌もうろくしてきた。そろそろ引退させても良いかと考えておる。しかし後釜にちょうど良いのが居なくてな。お前さえ良ければと思ったが、そうか、そこまで望みでもなかったか」

 男の顔色が変わった。

「いえ――いいえ!私ごときに大司馬の任が務まるとは到底思っておりませんが、三公の一の大役、これからの二泉を繁栄させる上でやはり不足があってはなりません。泉主がかようなことでお困りであられますならば、この騫在が力の限りお仕えしてご憂慮を取り除く働きをしてみせてご覧にいれます」

 そうか、と主は微笑んだ。顔を上げた騫在に手をかざす。

「これより後、えい将軍に任ず。騰伯と共に四泉を討ち果たせ。頼んだぞ」

 これには輪をかけて驚き口を開けた。京師兵の総司令官にいきなり抜擢されてさすがに怖じけた。

「それは、いささか」

「なんだ?不満か」

「いえ!ただ、あまりに身に余る光栄で」

 王はただ笑う。

「そうさな、突然で驚いたろう。なに、案ずることはない。あちらは戦馴れしておらぬ雑兵、数こそ多いが練度も経験も二泉には到底及ばぬ。それにおりよく広大な平地、戦いにはもってこいだ。よもやこちらの兵が万を超えてやられることもないだろうなぁ」

 斉穹は氷の瞳で見据えた。口角は上がっているのに酷く冷たい視線が降ってくる。

「険阻な獣道で斬り合いするわけでなし、それに、大事な碇也を何より守らねばな。頼りにしておるぞ、騫在」

 俯いて震え出した男に猫撫で声で退さがるよう言って、直後あざけるために顔を歪めた。黙って見ていた麾下が目を伏せた。

「おたわむれがすぎます」

「思い上がりもはなはだしい男だ。それでいて愚策ばかり練る馬鹿。あの阿呆のせいで泉賤どれい傀儡くぐつも人質さえろくに役に立たなんだ。騰伯とは天と地の差だな」

「本当にあの者に軍をお任せになるのですか」

 斉穹はどうでも良さげに足を投げ出した。

「我と撫羊が軍を離れたとあっては四泉も敢えて突っ込んでは来まい。碇也だけは守らねばなならぬが騰伯がいれば問題ない」

「それほど大司馬を信用しておられるなら、なぜ全権をお渡ししないのです?」

「騰伯は此度の進軍に賛成ではない。奴は本来義と理がなければ動かん堅物だ。撫羊と同じく己の定めた信念に真面目すぎる。ここで奴に戦わせては逆に馬鹿正直に殺し合って無駄に兵が減るだろう」

 なるほど、と納得させて斉穹は寝転んだ。

「問題は族主だな。今どこにいるのか、尻尾を掴ません。騫在によるとまだ若いようであったと。上手く捕らえて連れて来られればいいが」

 聞いたほうは憮然と遠くを見る。「女だという噂もありますが」

「尚更興味をそそられる噂ではある。しかし、大鎌で首をね飛ばす豪腕とも聞いたぞ。どれが事実まことなのだ」

 さて、と気のない返事をすれば主が目を閉じたのを見て被衾ふとんを着せ掛けた。

「碇也の様子はどうだ」

泉畿みやこに帰りたがっておいでです」

「軟弱な奴め」

 下僕はそれには応えず、一礼すると出て行った。



 無人になった天幕の中で寝返りをうつ。薄暗い幕内、垂らした布の隙間からわずかに陽光が射す。微睡まどろみに身を委ね、そうしてしばらく、斉穹はいきなり腕を振り上げた。

 放ったのは懐剣、くうをきって飛んだが手応えなく。起き上がって睨んだ先の、たいして広くもない天幕の隅、影のわだかまる暗がりにそれはいた。



 黒い外套に包まれた人物はゆっくりと立ち上がる。白い顔は口だけしか見えず、紅脣こうしんにわかに弧を描いた。


「……ご無沙汰しております。二泉帝」

「貴様か。どうやって入った」


 外套の者は問いには答えず、受け止めた懐剣を小卓に置くとまるで蛇が這うように斉穹に近づいた。しかし、音はない。衣擦れも無く手の届きそうな位置まで来て止まった。

「四泉主を手中におさめたと」

「それが」

「陛下にはもうひと踏ん張りして頂きたく。牙族主は種州南の霧界にいる。お望みになるなら我々が手をお貸ししましょう」

 斉穹は胡散臭げにする。

「貴様の飼い主はどこに行った」

 何が可笑おかしいのか、くつくつと口許に袖を当ててその者は笑う。

「主は血のにおいをおいといになられますので」

「自分は高みの見物か。いい身分なものだな」

 黒い影は意に介したふうもなく微笑んだまま小首を傾げた。斉穹はそれをさらに睨み据える。この、人を食ったような感じが大層不快だった。

「まさかあれだけの傀儡をお使い潰しになるとはこちらも思っておりませんでしたのでこうして参上したのです」

「あんな質の悪いのを使ってやったというのに言うことはそれか。今度はもっとましなものにしろ」

 影は微かに首を振る。

「今度とはおっしゃりますが、もう二泉には使える材料ものがございませんでしょう。族主は我らにお任せ下さいまし」

「信じられるか」

 おや、と影は鈴を転がすように笑った。

西戎せいじゅうの頭は只人ではありませんよ」

「化物だろうが何だろうが我が討ち滅ぼす」

「へえ。……それが出来ると?」

 含みを持った言に斉穹は鞘付けたままの剣を横にぐ。跳び退すさった影は笑みをたたえたままなおも窺い見た。

「虫唾が走る」

「……いいでしょう。こちらからはまだ、手は出さずにおきます」

 斉穹がさらに罵倒しようとした時、外から声がかかった。

「泉主、どうかされましたか」


 注意が逸れた一瞬の隙に影は消えた。後に残った、切り裂かれ、風ではためいた天幕の布だけが夢ではなかったことを告げるのみで、斉穹は忌々しく剣を降ろした。


「……勝つのは我だ」


 柄を握り直す。地に垂直にしゆっくりと引き抜く。現れた刀身が白く光を弾き、映った己に言い聞かせるように呟いた。


「誰にも邪魔させぬ」


 自らの進む道に何人なんぴとたりとも踏み入らせない。障碍しょうがいは全て自身の手で取り除いてみせる。

 強さとは力、人は常に強者に従う生き物だ。自分は昔も今も、そしてこれからも強者であり続ける。いや、あり続けねばならないのだ。


 なぜなら――とそこまで考えて口端で笑った。


 もう止まれないし止まらない。結果は誰にも分からない。ただ自分は突き進むのみ。どれだけの人を巻き込もうと、犠牲にしようと振り返ってはいられない。これは生命そのものを賭けた戦いなのだから。

 ただ己自身を証する、ただそのために。




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