二十七章



 撫羊は瓉明・高竺軍の中にも、蓮宿・栽豊間の街道に現れた珥懿軍にも沙爽がいないことを伝えられ、無闇にむきになって戦うことをしない。山柏が兵を支えきれるぎりぎりまで籠城したのち、反転穫司へ戻る動きを見せた。


 しかし時すでに遅く、その頃、穫司では辿り着いた瀧州方面軍もとい四泉主軍と各州から合流した州軍が穫司の開城に成功していた。ただちに城内は制圧され、下流への水門が開かれることになった。この時点で、南地域への水流が滞って三月みつき。開門と同時に南の各都水台へ調水の指示をしなければならない。いちど涸れた泉は土底であれ石底であれ風に晒されれば塵芥や害虫が溜まって水質汚濁の原因になり、新しい水が流れ込む前にそれらを取り除き濾過装置を作動させていなければせっかく水が使えるようになっても伝染病の温床になりかねない。


 しかし、これに待ったをかけたのは燕麦えんばくで、思い詰めた面持ちで駆け込んだ都水台の官衙で金州水衡都尉すいこうといに急遽目通りを求めた。護衛は砂熙さき李乾りけん、李乾は牙領防衛戦の際、殺された斥候の李巽りそんの双子の片割れで、あの偵察で生き残ったほうだ。


「率直にお訊きします、水都尉すいとい。穫司の水虎は書簡を伝えに出たと聞きましたが、戻るまで代替の水虎の要請はお出しになっておられますか」

 基本的に水虎は各郡に一頭だが、緊急時には二頭までの使用が許可される。

 水都尉はこぶしを握ったまま俯いている。

「それだけでなく、穫司以南の水虎は泉に異変があれば遡上して来ますね。であれば、確実に穫司を通っているはずです。その計数をお教え願えますか」

 男はしどろもどろに、

「……私は把握しきれておりません」

 と消え入りそうな声で言った。

「では狗監くかん虎圏嗇夫こけんしょくふを呼んでください」

「……いません」

 は、と目を見開いた燕麦に水都尉は癇癪を起こしたように叫んだ。

「――どちらも二泉兵によって斬り殺されました!」

 言うやいなや泣きわめく。

「私はめいに従って水色すいしょくを変えただけで精一杯でした。水虎の出入りまで見ていることが出来ませんでした。ただでさえ民は混乱して都水台に押しかけ、二泉兵にも詰め寄られ汚穢が嘘だとばれたら殺されてしまう。怪しい動きをすれば牢に投げ込まれたでしょう」

「……なぜ」

「泉を変色させたあと、ご懸念のように水門で以南の水虎が来るのを待っていたところを二泉兵に見咎められ、試し斬りされました」

 燕麦は絶句した。穫司内は想像以上に混乱していたようだ。それは二泉兵も同じで、よほど気が立っていたらしい。

「捕囚もそうです。見ましたか、牢に捨て置かれたしかばねを。二泉兵は人ではありません。嫌がる四泉兵に変色した泉水を無理やり飲ませたあとでなぶり殺しにしたのです。毒水だと思い込んでいた水を飲んだあとに……せめて……最後にきよい水を飲ませてあげられたら」

 うめいて泣き崩れた。燕麦は同じ都水台として彼の心中が痛いほど分かった。なにより直接手を下していない自分でさえ、沙爽に訴えたのだから。

 燕麦は一度顔を伏せたが、上げた時にはもういつもの平静な面持ちで少しばかり長く息を吐いた。

「穫司水虎はどこへ?」

「……曾侭そじんへ。以北のき止めも解除してもらわねばなりませんから」

「やむを得ません。伝鳩か早馬を出してすぐに呼び戻しましょう。同時に以南にも指図を。二人ののこした記録はありますか?」

 力なく頷いた男の両肩に手を置いた。

「しっかりなさってください。ここにはまだ民が残っています。都水台が持ちこたえねば彼らまでもが失われてしまうのですよ」

 そう言えば、再び滂沱ぼうだの涙を流しながら何度も頷いた。





 穫司で族軍に貸与された官舎の広房ひろまの一室で姚綾ちょうりょうは娘の姚玉ちょうぎょくと共に軍備の帳簿を確認しているところだった。


 血相を変えて飛び込んできた臣下にどうしたと問うと、思いもよらない答えが返ってきた。急いで外に出ると門の前に少しばかり人だかりが出来ている。姚綾に気がつくとそれは一斉に割れた。

 暗い中でも分かる垢まみれの薄汚れた顔は生気が無い。衣も同じく泥だらけ、だがそれでもゆっくりとした動作でこうべを垂れてみせた。


「……大人たいじん


 呼びかけるやいなや激しく咳き込み、微かに喘鳴ぜんめいを響かせながら息を吸った。


「……姚絹ちょうけん


 姚綾は異父弟おとうとの名を呼ぶ。長年書簡のみで久しく会っていなかった姚絹は背も伸びて幾分逞しくなっていた。しかし相変わらず体は細いまま、今にも折れてしまいそうなほど。

「隠伏していたのか。よく無事で」

 穫司では処刑された四泉兵の身許がまだ調べられていない。てっきり彼もその中に入っていると思っていた。

 肩で息をした姚絹はくまの浮いた眼で義姉あねを見上げた。

「……曾侭から、灌鳥は」

「受け取ってはおらぬ。何があった」

 人払いを、というかすれ声に集まった仲間たちは離れていき、ともかくも室内に運び入れられた。

「民、が」

 姚絹は疲労と義姉に会えたという安堵で朦朧とする意識を奮い立たせ、泥の詰まった指先をてのひらに食い込ませた。

「以南の民が、曾侭や他の郷に押し寄せている……が、門は開かれていない」

 姚綾の横で姚玉がどういうこと、と声を上げた。

「高竺からは聞いていない」

「京師兵が、発ったあとで閉められた…追い出されたんだ」


 水流が止まれば民が街を捨てて逃げ出すのはわかっていたこと、瓉明は曾侭やその他北地域で南の民を保護するという触れを出したはずだ。しかし予想以上に難民が流れ込んで水の供給を圧迫し、以北在住の民に不満が起きた。


「曾侭だけじゃない。じん州の他都市でも東の州でも、あぶれた民と門を閉ざした郡郷まちとで争いが起きている。征南将軍は手が回らない。大司馬も大将軍もここぞというときに無能だから役に立たない」

「……なんということ」

 このままでは穫司から水が開通しても戻る民がいなくなる。

 姚綾は後ろを振り向いた。「聞いておりましたか、寧緯ねいいどの」

「大変なことになりました。まさかそんな事態になっているとは」

 駆けつけた燕麦が青褪めた唇を噛んだ。予想出来たことだった。しかしまさか同国民どうしでいさかいになるとはあまり真に考えていなかった。

 礼鶴らいかくが静かに言う。「各太守に開門を呼びかけるしかないでしょう」

「しかし将軍の指示でさえ力不足だというのに?」

「征南将の地位では周辺住民への布告に絶対的な拘束力も逆らった際の懲罰もその権限のうちにはありません。この状況では火急の勅令でなければ太守たちを動かせない」

 つまりは、と礼鶴は燕麦を見た。

「泉主に出してもらわなければ」

「しかし……泉主はおられません。三公の指示を待っている時間もない……」

 呟けば、おや、と相手は穏やかに微笑んだ。

「泉主が実際におられないとしても、二泉にそれが露見してはいけませんね。しかし、勅令を出すのは可能でしょう?寧緯どのにはその権限があるのでは?」

 はっと燕麦は腰に提げたじゅに手を伸ばした。そうか、と姚綾が力を込めて頷いた。


 発言を待たれて内心怯える。見つめた綾帯あやおび、歩く度に揺れるほど軽い。だが相反してそれに込められたものがどれほど重いか、燕麦は改めて実感した。水工の差配なら飽きるほどしてきた。失敗してもよほどでなければ死人など出ない。しかし今回は違う。己の指先ひとつで万の民が死ぬ。その責任を自分は負えるか。いや、負わなければならない。ふいに、沙爽と二人で話したあの夜が思い出された。



『私は容易く死ぬことも許されない』



 今になってそう言っていた彼の気持ちが身に迫って分かった気がする。泉主はたとえ自らの命令で多大に民が失われようと、責を負って死ぬことは許されない。泉主の命は国そのもの、死ねば更に民に被害が及ぶ。つまり、死で償うこともそこへ逃げることもできない。正しい心を持った君主なら、自らが決断することを少なからず恐いと思わないはずはないだろう。

「本当に……理不尽なことこの上ありませんね」

 その正しい恐れを持った泉主の国が、好き勝手に蹂躙じゅうりんする厚顔無恥な敵によって内部から壊れようとしている。そんなことは許されざるべきこと、勝てば正義と言うが、二泉は決して正義などではない。それを証明しなければならない。


 燕麦は顔を上げた。囲んだ牙族の面々を見渡す。

 出来るのか、自分に。いや……やるしかない。今、この場に自分より早く指揮できる人間はいない。


「―――儀同三司ぎどうさんしの権をもって」


 口中が干上がって体が震えるのを抑え、胸に手を当てた。



「ここに、戦時南域統括府および国府代行都水台を開きます……!」



 姚綾が目を伏せると同時に膝を折る。燕麦を中心に、それは波のように広がった。

「四泉との盟約にもとづき、牙族は統括府への協力を惜しまない」

 燕麦は大きく息を吐いた。

「ありがとうございます。早速ですが、牙族の灌鳥をお借りできますか」

「お貸しは出来る。しかし間者の所在が明らかになるゆえに多用は難しい。また、すでに移動しひとつ所にとどまっている者が少ない為に支障が出ている。我らが早馬となることは出来るが、異民単独の伝令では四泉民の信用を得られるとは思えぬ」

「分かりました。十三翼には穫司の守りと攻撃に専念してもらいます。どのみち敵のいる葉州には水虎でなければ伝書を届けられません」

 仲間の肩を借りて立ち上がった姚絹が燕麦を見た。

「……曾侭、には、速鳥はやぶさがある。一、二羽だけだが」

「本当ですか。ではそれを借りましょう。準備が整い次第、北地域の郡郷の即時開門と牙族への支援を要請します。気はきますが、ここは確実に。曾侭からどれだけ水虎が帰ってくるかにもよります。水門を開放すれば敵を利することにもなり得ますが、何より各所都市に残っている民の為になるべく早く水を流したいと思います」



 金州城は速やかに儀同三司燕麦の開府により簡易に要職が置かれた仮の朝廷に様変わりした。掻き集めた金州の伝鳩によって先んじてそれは各地に伝えられた。

 曾侭まで遡上していて穫司まで戻ってきた各地の水虎は総数の三分の二ほど、他は混乱のなか衰弱し失われあるいは任務の遂行は不可と判断された。以北から補獣も呼び寄せている。水虎はあまり長くはおかにおれないから、まだ貯水が残っていると予想される地域に優先して戻す手筈になった。





 同じ頃、瓉明と高竺の連合軍は東西を撫羊軍と二泉軍に挟まれ、撫羊の穫司進軍を牽制しつつ北西寄りに移動、金州との州境付近で盾となる。ついに合流を果たした撫羊と斉穹は穫司に沙爽がいると目算を付け、葉州の北、広大な牧草地の広がる悠浪ゆうろう平原において連合軍に正対する形で布陣した。


 二泉軍の後方東南では斂文軍が連絡を受けて悠浪平原東の虞州へ向かい、同時に珥懿率いる牙族本軍は蓮宿に灘達を頭として兵を置き二泉からの兵の流入を監視させ、残りは霧界に戻って移動を始めた。兵を分散させたので指揮下はわずか千、敵のいる葉州を迂回し種州と瀧州を通って穫司に合流する算段であった。





「いやはや、おみそれしましたね」

 あっけらかんと言って、李乾、と砂熙がたしなめた。燕麦が振り返る。

「寧緯さまは人を使うのがお上手だ。軍師の才がおありになる」

「それはどうも。しかし私には戦の経験などありません」

「能力に見合った役の按配が良いという意味ですよ。さすがは水司空長といったところか。この短期間でよくここまで」

 広房を見渡した。おもに金州府の人員を再編成した統括府はいまのところ問題なく動いている。

大司徒だいしとからもお墨つきが届いたのでしょう?門を閉じていた各地太守も門を開けた」

「開門はさせましたが相変わらずの水不足です。末端地域までまだ準備が整っておりませんから、以北の民が不満を募らせて暴動が起きる前になんとか以南の民を帰したいところです」

 李乾は可笑おかしげに肩を竦めた。

「当主があんたを泉主の替わりにしたのが分かった気がする。あのぼうやじゃあここまでの采配をこんな短期間にはやれそうにないしな」

 燕麦は李乾を振り仰いだ。

「知って……⁉」

 狼狽したのに砂熙が頭を抱えた。李乾は大笑する。

「やはりそうか」

「かまを掛けたのですね。なんと底意地の悪い」

「いくら由霧を越えたからといっていつまでも不調な訳がなかろうて。気づいたのは俺だけじゃない。砂熙、お前も隠すのが下手だぞ」

「李乾、このことはくれぐれも」

 少年は快活に笑う。「なあに、ここに敵の間者がいない限りは大丈夫だろ。しかし公主軍がはじめから蓮宿側の軍を無視して穫司に狙いを定めたということは、どこかからこちらの内情が洩れていると考えて良いかもな」

「やはり…そうね」

「伴當には当主から指示が出ているんだろう?そんな暗い顔をするなよ。二泉軍の目的は四泉主の奪取と四泉泉畿せんきの陥落。悠浪平原で蹴散らせられれば落着だろ」

「そんなに簡単にはいきませんよ」

 燕麦に反論されて李乾は眉を上げた。

「そも我々は二泉に引き揚げて欲しいだけで、二泉主を討ち取るつもりは毛頭ありません。公主さまも同様に、なるたけ生かして捕らえよとの泉主の厳命です。征南将軍はと答えた。その時点でこの戦いはかなり難しい」

「そこまで敵に慈悲を垂れる余裕が四泉にあるのか」

「無いから難渋なのです。しかし二泉主を討ち取ってしまい、次王の即位まで時間がかかれば二泉は少なからず混乱する。難民が戦で荒らされたばかりの南地域に押し寄せることになる。泉主はそれも避けたいのでしょう。同様に、公主をちゅうすれば葉州、特に南端の民の反発が予想されます。いまだ神勅はくだらず、ここで公主を殺さば逆に沙爽さまが簒奪さんだつ者なのではという禍根が残ります」

「しかし、それは公主とて同じだろう。むしろ、あちらのほうが四泉主を捕らえて殺せばまごうことなき簒奪なんだから」

 ええ、と燕麦は頷いた。

「ですから万一泉主があちらの手に落ちても最悪の事態は避けられるのではないかと踏んでおります。おそらく二泉主は沙爽さまを亡き者にしようと考えているかもしれませんが、話を聞くかぎり公主さまは違う。殺すにしてもきっと禅譲ぜんじょうを強要してからになる」


 現泉主がなんらかの形で神勅を失えば、新たな神勅が次の相応ふさわしい継承者にくだる。撫羊は決して二泉主のようにのりを無視するような為人ひととなりではなさそうだった。穫司の兵をすぐに殺さなかったことからも自国民に対する慈悲が垣間見える。結局は取り巻きの二泉兵によって捕囚は失われてしまったが、決してそれが撫羊の意思だったとはいえない。


「二泉主にそそのかされたにせよ、公主さまはいまだ理を保っておられる。と、信ずるしかありません。とはいえすでに泉主は平定が難しいならば排斥もやむなしと分かっておいでです。全ては戦況次第、こればかりはどうなるか誰にも分かりません」

「ふむ、まあ四泉主は我々の領地におるのだ。あちらに渡ることはそうそうないだろう。守りながら戦うのは難しい。その面でも我らの負担は確実に減っている。首魁しゅかいを殺すなというならなおさらだ」

 きっとそのことも折り込み済みで、珥懿は沙爽を牙領に残した。

「悠浪で無事に決着するならそれで良し。二泉もなぜか継嗣を連れて来ていると聞いた。正面からぶつかって無理なら別動で王太子を確保するほうが楽かもな」

「耳が早いわね」

 砂熙は李乾を見た。伴當に優先して知らされる話をこの男は同時期に知っていることがよくある。聞き耳を立てているわけでもないのに、と砂熙は不思議でならない。独自の情報網から得た知見なのかも謎だ。

「俺は『速耳はやみみの双璧』とうたわれた李家の双子だぞ。まあ今はひとりだが」

 李乾は笑顔を少しだけ曇らせた。速耳とは牙族の中で耳のさとい者に冠される尊称だ。加えて牙族の聞得が自分たちのことを形容する時にも使う。李家は斥候を得手としている家系で聞得の能力は高い。死んだ李巽も由霧の中で全ての音の出処が分かるという噂の優れた忠臣だった。

「当主がこちらに合流すればまた方針が変わるやもしれん。いまのうちに体を休めておくとしよう」

 言われて砂熙が頷いたところ、広房の扉が勢いよく開いた。目鼻立ちのくっきりとした女が髪を振り乱して大の字に立ち尽くしている。姚玉だった。

「いかがなさいました」

「……たったいま、しらせが来た」

 肩を弾ませ、顔に垂れかかるのをそのままに三人を見回した。



「領地で内紛あり。四泉主が――――奪われた」



 凍りついた面々に姚玉はさもあろうと拳で壁を叩いた。

「我らは天運を失ったやもしれん――泉国に手を貸したばかりに!」




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