二十六章



 後ろから濃霧を切り裂いて飛来した矢を振り向きざま叩き落とし、灘達なんたつは空を見上げた。陽が中天を過ぎてますます由霧が濃くなってきている。


 族領での戦いを経て、十三翼は戦いにおいてのこつを掴んだ。幼い頃から鍛えてきた常に緊張感をもって周囲に目を配る洞察力、察知能力や瞬発力は聞得キコエの能と合わさりより殺し合いに順応した。はじめは血と腐臭に潰された鼻だったが、の開閉をより自覚的に調節する為に役立った。


。まだ来るぞ。油断するなよ」

 指示を飛ばして大男に近づく。斬毅ざんきは大刀の露を払って溜息を吐いた。

「泉が涸れたというのにまだ国境を越えてくるか」

「侵攻を諦めない二泉主も大概だがそれを止めない朝廷も救いようがないな。民が哀れだ」


 二泉の州軍は寄り集まらずに個々で霧界を越えようとしてくるから全体数として寡兵のこちらとしては願ったり叶ったりである。それにあちらはほぼ不能渡わたれず醸菫水じょうきんすいを服用しているとはいえ十三翼の待ち伏せする地点まで霧の中を五日ほど過ごし、存分に力を発揮出来てはいないとみえる。物理的に視界のない霧のなか、こちらがどのくらいの距離にいるのかも分からないだろう。そもそも栽豊側の霧界を入ってすぐ、初手でこちらの罠に掛かってからは慎重になり勇んで突っ込んでは来ない。

 一方、聞得であればおおよその距離が測れるからその時点で圧倒的な差が生まれる。ものの、手当たり次第に放ってくる矢を排除するのが少々鬱陶しい。

 それに二泉側からの進軍を優位に阻んでいるとはいえ、取りこぼしはある。損耗をできるだけ減らすために途中から襲撃は輪番に少数で行うことになった。出来るのはなるたけ増軍の数を減らすことのみで、不利な軍数と見るや霧に隠れてやむなく街道を通すしかなかった。しかし通した兵もただでは道を開けない。隙を見て矢を射掛け、奇襲をかける。


 ひとまず今日は停戦とみて十三翼は分散して断崖の狭間に撤収した。本陣と定めた天幕に二人が帰ると、当主が灌鳥かんちょうを片腕に止まらせて文を取り出しているところだった。


 灌鳥は一度覚えたにおいを忘れない。どれほど霧が濃くても気がよどんでいても辿り着く。牙族はその特性を利用しているだけでどのような構造つくりでそうなっているのかは分からないが、ともかくも落とされないかぎりは飛んできた。居所を知られてはまずいので飛ばす回数はなるべく減らしている。この霧でも、二泉側にもさとい者はいるだろう。


「蓮宿からですか」

 頷いた珥懿は書簡に目を通すと蒙面布ふくめん越しに難しい顔をする。紙片を斬毅に寄越した。

「移動していない軍がある。蓮宿にとどまり後軍と合流してこちらを向いている」

「挟撃ですか。もう一方を西へ?」

 灘達が吊られた図面を見た。

「補給路を我々が邪魔しているゆえ早々に蹴散らしたいのだろう。本軍が瓉明軍の後ろを取るように移動しているということは沙琴公主が討たれるのを危惧している。それに二泉主は四泉主がどこにいるのかまだ掴めていないということだ」

「我らはこのまま囮に?」

「姚綾たちがすでに穫司付近に進んでいる。穫司をおとすのを待って西へ移動する」

「適当な獣道から崖都方面へ抜けるおつもりですか。必ず伏兵がおります」

 言いながら入ってきたのは斂文れんもん、霧で湿しっっけた斗篷がいとうを脱いだ。

「皆の様子はどうだ」

「布陣して十日ですから、まださほどの疲れはみえません。しかし、また山越えとなると体力を消耗したまま伏兵と交戦ということになります」

 それでは、と珥懿は鳥を撫でた。

「このまま蓮宿へ抜ける」

「正面突破ですか」

「そのほうが早い。山越えしている間に沙琴が山柏から出て二泉軍に寄れば行き違いになるし、合流されてはまずい。寡兵のうちに瓉明軍と挟撃して討つのが一番効率が良いから崖都側から抜けて後ろに回り込もうと思ったが。しかしその合間に瓉明と高竺が持ちこたえられるかも分からない。それならば蓮宿を撃破して瓉明軍に向かった二泉本軍の注意をこちらに向けさせる」

 側で文字を紙片に刻んでいた茅巻が顔を上げた。

「蓮宿にとどまった二泉軍は二万六千ほどとか。我々の倍とまではいかずとも多軍いる。それに栽豊からの増兵もまだ来る。勝機はあるのか」

 珥懿は布の下で口角を上げた。「全てを相手にする必要はない。不利なら霧界に逃げ込む。それに、報が正しければ蓮宿には二泉の嫡子ちゃくしがいる。捕らえれば兵はおのずと降伏しよう」

 これに周囲は驚いた。

「まさか。このような戦場へ?二泉の泉根は王太子だけでしょう…なぜ」

 さてな、とたばこを噛んだ。

「どうやら二泉主は我々と異なる考えで動いているようだ。それか、絶対に王太子を奪われない何かがあるのか、国などもうどうにでもなれと思っているのか」

「そんな泉主がおりますか」

「現に二泉主は歴史にみて稀な二国統治を目論もくろんで侵攻している。その本心など知らないが彼奴きゃつはこちらが有り得ないと思うことをする男であるのは間違いない」

 斬毅が唸った。

「もう一度斥候を立てましょう。本軍が移動しきっているという確証が欲しいですな」



 蓮宿から二泉軍の大多数が山柏へ向けて出兵したのを確かめた珥懿たちは万騎はんき五百を街道の中点に残し、蓮宿を強襲する算段を立てた。


 蓮宿は人口は多くはないが城外に広大な田畑を持つ肥沃な郷であり、いまだ駐留している二泉軍も歩兵は壁の外の閑地に天幕を建て宿泊していた。すでに住民は逃げるか殺されるかしており、苗植え前の田は水が干上がって荒れ果てていた。本来ならばこの時期は美しい水が張られているはずだった。

 蓮宿に流れ込む泉川は末端ではあるが水深があり水量が多い。ここ以南の泉がないゆえに流れ込む水を全て環泉かんせんとして利用でき、城外においては灌漑路としてそれを多用するので小郷のわりに収穫が多く穀物倉の数もふつうの郷の倍はあった。不幸なことに二泉軍にとってはたいへん都合が良く、すでに倉楼もこめぐらも開け放たれて民の今年以降の食糧は掠奪されていた。



 襲撃は真夜中に決行する。平地において戦い慣れている二泉軍より少しでも勝った条件で事を構えたかった。夕刻、蓮宿と霧界の境まで密かに移動した珥懿たちは物音一つ立てずに夜を待った。


 狙ったかのような朔月しんげつで風もなく、明かりといえば閑地と蓮宿城の松明たいまつのみ、それに目がけて阡陌あぜみちを疾風の勢いで駆けた十三翼は、気の乱れに不寝番が気がつく前に彼らの首に刃を突き立てていた。次々と天幕に火が放たれ、異状に歩兵たちが騒ぎ出す頃には閭門りょもんは容易に開かれる。


「―――いたか⁉」


 怒濤の勢いで郷城に攻め入った族軍だったが、肝心の王太子の姿がどこにもない。

「まさか、誤報……」

「というより、灌鳥しらせを飛ばした直後に変更が起きたのやも」

 城に残っていた兵を掃討して斂文が窓の外を見た。「歩兵が城外で寝泊まりしていたところをみるに、我々が攻め入ってくるのに備えていたのでしょう。しかし、十日あまり霧界の中にひそんでいるのを見て、四泉主がいないことを確信した」

「こいつらは足止めのための捨て駒だったってことかい。まったくとんだ無駄足だ」

 鈴榴りんりゅうが矢をつがえ、溜めず即時に放つ。この夜陰でその早さでよく射抜けるものだと内心斂文が感嘆したところで、開け放した扉から当主が合流した。

「王太子はいない。もどきの替え玉がいるだけだった」

「やはりですか」

「将はなるたけ殺さず捕らえよ。あちらの動向を吐かせる。戦況はどうだ」

「月がないのは幸いです。二泉兵は混乱しております」

「油断はするな。それと万一、民が紛れていたら殺すなよ」



 急襲を受けた二泉軍はほどなく指揮系統を失って壊滅した。捕らえた将帥しょうすいから、二泉主と王太子碇也ていやはやはり共に移動したことが分かった。





「……二泉民は口が軽いな」

 翌日禺中ひるまえ、珥懿は敵兵の死体が縄を打たれて城壁に吊るされるさまを淡々と眺めていた。これを見れば四泉州軍や民が戻ってきた時に蓮宿が開かれたことが分かるだろう。

「王太子が替身かげだと、よく分かりましたな」

 斬毅が共に壁を見上げながら問うたのに、珥懿は呆れたように嘆息した。

「自分から泣き叫んで暴露した。侍従役まわりもな」

「それはまた……即席の替え玉ですか」

「二泉主は軍兵には人望があるようだが他にはそうでもないな。それに、ばれても良かったんだろう。こちらが寡兵で軍数が減らない限り攻めないことは二泉主も予想し、蓮宿が崩されている隙に距離を稼いで我らを引き離すことには成功したわけだ」


 ともかくも蓮宿は二泉から取り戻したが、いまだ水は通っていない。乾いてひび割れた田を横目に移動し、同じく荒れ果てた蓮宿泉のほとりで足を止めた。

 蓮宿泉はまわりを塀で囲われてはおらず、都水台の官衙かんがも見えない。蓮宿は郷だからここの泉は郡県で管理しているのだろう、岸沿いには小ぶりの廟堂があるだけだ。

「久しぶりに見た泉地の泉がこれとはな」

「貯水槽にはまだ水が残っているようです。塞水玉そくすいぎょくだけでは飲んだ気がせぬでしょう。少しもらって来ましょう」

 きびすを返そうとした斬毅に首を振った。

「お前はもらうといい。私はいい」

「しかし、飲まねば体に良くないですぞ」

「泉地の水は飲まない」

 硬い声でそう言い、話を変えて大男を見上げた。

芭覇ばはから灌鳥れんらくはあったか」

「は。少し前に特に問題はなくつつが無く、と。……緊急の灌鳥なら当主のほうへ届くのでは?」

「とは限らないだろう。芭覇はお前の実弟おとうとだから。それに、私は嫌われている」

 斬毅は眉間に皺を寄せた。

「そんなことはござらぬ。あれは少し気が弱く、当主に畏怖しているだけです。もしや、それで領地に置いてきたのですか?」

「そうではない。お前の言うように芭覇は伴當はんとうの中でも穏健な奴だ。耆宿院ともそつなく渡り合える。街に異変が起きた時に城と耆宿が揉めていては民に被害が行くからな」

 言えば少し安堵したように表情を緩めた。斬毅が実弟想いなのは皆の間では知られたことだ。筋骨逞しく大柄な斬毅と細身でどこかなよなよとした芭覇は見た目も違えば性格も真反対だが、珥懿は二人が仲違いをしたという話をついぞ聞いたことがない。


 外見も中身も気弱で慎重な芭覇が自分を避けるのも無理はない。斬毅には否定したが、芭覇を遠征の人選に最初から考えていなかったのは確かだった。いざという時、そういう心内の隔たりがかせとなって阿吽あうんの呼吸が通じなければ厄介で、最悪命取りになる。彼がめいに背いて東門を開けたのもそうだ。開けたこと自体は、間違っているとは言えない。抜けていたのは外の敵への対処だった。それが民を失う致命的な結果になったことで珥懿の中で彼を遠征において重用はしないと定まった。


 斬毅は人が良く主の決定にいちいち思惑を猜疑しないが、芭覇はきっとそうではない。それが無意識に自分を避けて、実兄あにを頼るのではないかと思ったのもあり斬毅を側につけた。牙族にとっては四泉よりも何よりも族領を守るのが第一に優先すべきことだから、あちらの状況も時差なく知れるほうが良い。



 郷城の中に戻った珥懿は縄を打たれてひざまずかせられた二泉の将兵を見下ろした。彼らは面を着けた姿を一様に奇妙なものを見るようにする。中でもひときわ憎々しげに自分を見据える男に向き直った。

「貴様が将軍か」

「……汚らわしい夷狄ばんぞくが。四泉と同盟して泉民気取りか」

 唾を吐いたのには構わず腕を組む。

「お前たちは本当に四泉を手に入れられると?」

「泉主はそうおっしゃった」

「天譴は下ったぞ。進軍をやめねばこれからも下る」

「それはお前たちの嘘だ!」

 男はいっそう珥懿を睨んだ。「四泉主は沙琴公主だ。神勅は公主にくだる。我々はその四泉主の王位を簒奪さんだつしようとする沙爽を討つために手を貸しているのだ。そも我らが主斉穹せいきゅうさまは血筋を辿れば四泉の血も受け継ぐ高貴なる御方。二国を統べるにこれ以上の方はおられぬ」

 珥懿は高笑った。

「主を盲信した痴鈍で愚直な哀れむべき奴らめ。公主が四泉主にはなり得ん。もちろん二泉主もだ」

戯言ざれごとを」

「どちらが。公主には死んでもらう。二泉主も侵攻を止めぬと言うなら我が手で滅す。泉人が泉外人を蔑如べつじょする歴史はこの牙族が覆してやる」

 二泉の将たちは口々に珥懿を罵る。しかしその中でひとり、将にしてはまだ若い男がじっとこちらを見つめるのみで口を引き結んでいた。それに気がついた珥懿は眉を上げる。将たちを引き立てさせ、その男をただ一人残した。


 発言を許すと男は口を開いた。

「……天譴は何処いずこに下った」

「二泉粛州安背と四泉金州穫司だ。特に安背では毒霧が噴き出して大変な騒ぎだという」

 男は俯いてただ、そうか、とだけ言った。

「貴様は天譴を信ずるのか」

「神罰そのものが本当に下ったのかは判じ得ない。しかし民に何がしかの被害が出ているのなら直ちに二泉へ帰りたいところだ」

 珥懿は椅子に座って頬杖をついた。面白い男だ。

「敵を前にして素直だな。どこの麾下きかだ?」

「私は大将軍が蓮宿に残した一営の将だ」

「大将軍……二泉では大司馬か。大司馬も二泉主に随行しているな」

「大司馬大将軍は王太子の護衛だ。もともとこの侵攻には反対されていた」

「お前もなにか思うところがあるようだ」

 男は言に迷い目を泳がせた。「……他の将軍たちのように手放しに泉主を信じてはおらぬ」

「何故」

 愉快そうに尋ねた族主に、警戒しながらも実直な目を向けた。

「王太子だ。二泉の泉根は斉ろう碇也殿下ただお一人。しかもまだ幼い。そんな王太子をなぜわざわざ危険伴う行軍に連れ出したのか、それが納得出来ない。それに、泉主には前から理不尽を感じることが度々あった。もともと大将軍の麾下は三人いたが、一人は泉主の勅命で大理さいばんもなく処刑された。もう随分と前の話だ。有能な方で、罪に問われるようなことは何一つ無かった」

 気持ちがたかぶっているのか、敵前にして男の言は淀みない。

「それが切欠きっかけで私はそれから、個人の心情としては泉帝陛下ではなく騰伯公にお仕えしている」

「……なるほどな」

 珥懿は静かに呟くと紙を持って来させた。細かく符牒ふちょうを刻みながら男に問う。

「お前、私が助ける代わりに二泉からの援軍を止められるか?」

「――当主!何を仰っているのです。これは敵兵ですよ。すべからく討殺すべきです」

 すかさず斂文が苦言を飛ばす。二泉の将は眉をひそめた。

「私に国を裏切って四泉側にけと?そこまで恥知らずではない」

「こちらの味方をせよと言っているのではない。いま二泉各地から州軍を割いて四泉に投入すれば天譴が下って混乱した民を抑えられない。すでに安背のことは各州に伝わっている。いずれは他の泉も同じようになるのではと泉畿せんきに流れ込んで来るぞ。残りの州軍は留め置き自国の憂いに回すべきだ。二泉主が国を顧みない今、頭のいない朝廷はもはや機能していないのだろう。ここで軍がいなくなれば水を巡って自国民どうしの争奪戦が始まるのをしずめられない。今の四泉のようにな」

 四泉の南地域の民は北へと移動し、泉の無事な郷里を圧迫している。同じことが二泉でも起きる。

「そうなれば血の気の多い二泉のことだ、各地で叛乱に発展する可能性もある。しかし二泉主の帰還を待っていては遅い。そうではないか?」

 男はしばらく沈黙した。顔の横を脂汗が滑って、拭うことも出来ずただ目をつむった。

 やがて、長考から顔を上げ、ゆっくりと頷いた。

「……良いだろう。どちらにせよ蓮宿を守ったあとは別隊を二泉に戻らせるよう進言するつもりだった。しかし、私が帰泉の途上で牙族から討たれないあかしはあるのか」

「街道の兵には鳥を飛ばしておく。こちらから斥候も付けよう。しかし危険なのはむしろ我々のほうなのだ。斥候が帰らなかったり州軍と合流したあとで少しでも四泉に戻ろうとしたら容赦なく殺す。決してこちらには戻らないと約せるのであればお前の配下で残っている奴を好きなだけ連れて行くといい」

「蓮宿の、他の将帥は」

「私と取引しているのはお前ただ一人だ」

「……分かった。生き残った配下を全て連れて行きたい。だが斥候は断る」

 珥懿は微笑んだ。

「では決まりだ。二泉兵にしては頭の良い奴で気に入った。猿のようにやかましく我々を侮蔑しないところもな」

「牙族の傭兵の強さは間近で見たことがあるが、お前たちとて同じ人なのは知っている」

 だが、と男は初めて睨んだ。

「馴れ合うつもりはない。今回は甘んじて提案を受け入れるが、影で暗躍し泉国を操ろうとする牙族を決して好んではいない。ゆえに名は名乗らぬ」

「構わん。それでは交渉成立だ。整い次第行くがいい。決して振り返らずにな」



 男は出て行き、斂文が厳しい目で主を見た。

「一将に取引を持ちかけたところでその場凌ぎに頷くだけです。当主は間違っておられる」

「言われると思った」

 笑いながら紙片を細かく折る。

「笑い事ではございません!」

「では斂文、お前は後ろを警戒しつつ移動した二泉軍の尻を追いかけてもらう。お前ならばたとえ街道の州軍がなだれ込んできても突破できるな?」

「私に餌になれと?」

 冷え冷えとした視線を受けて珥懿も真顔になる。

「取引の結果が信じられないと言うなら見届ける任をまかせる。万一後ろから攻められたなら降伏しても構わない。もっと言えば、一族を裏切って二泉に屈しても怒らないぞ」

 斂文は呆気にとられ、そして長い息を吐いた。

「……そこまで私が忠の薄いしもべだとお思いですか」

「お前は伴當の中でいちばん情を挟まない。だからこそ信頼に足る」

「私とて、当主を信じてはおりますよ。しかし先ほどのあなたは珍しく軽率に過ぎる。事は内乱ではないのです。あなたの指図ひとつで一翼が全滅ということも有り得る」

 分かっている、と厳しい目を見つめた。

「百も承知だ。だが、大丈夫だ。あれは裏切らない」

「先代とお母上譲りの聞得に賭けて、ですか」

 珥懿は仮面を外して笑みを見せた。

「私に賭けたからいてきてくれたのだろう?頼りにしているぞ」

「こういう時にかぎって素顔を見せないで頂きたい」

 仏頂面になった斂文は叱責を諦めて肩を落とした。そのまま膝をつく。


「拝命します。――言祝ぎを」

 垂れた頭に珥懿はてのひらかざす。


「――なんじ鯔背いなせ剛邁ごうまい大翼つばさあり、風受けてあだ膺懲ようちょうせしむ騎虎きこの勢、瑞兆のしょう必ずや現るるべし。異香いこう追風おいてが吹かんことを」


 奏でた言葉に斂文は力強く顎を引いた。珥懿は頷き返す。

「以後は高竺と連携しろ。必要ならば合流して二泉軍と相対あいたいするよう」

「……当主も、くれぐれもお気をつけて」




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