二十五章
沙爽の隠匿は内密にとは言ったが、瀧州方面軍で事実を知るのが暎景だけとなっては後々支障が生じてはいけない。なので姚綾と姚玉、
風除けの布を巻き、外套で頭を覆い、沙爽の衣を
北路にもっとも詳しい
瀧州と西の
陽も
瀧州方面軍は最も州首都に近い門に辿り着いた。不寝番は噂だけは聞いていたし
「泉帝陛下」
兵たちが声を上げてかしずく中、族軍は開け放たれた門から堂々と市中に入城した。
瀧州の泉川は大部分を穫司から注ぐ幹川に依存しているが、他に三つの小川を持つ。勾配の激しい土地にそれら四つの川から流れ込む水によって細分された小泉を形成しており、結果として人口のわりに郷里の数が多かった。都水台は各泉の管理を必ず徹底させなければならないが、溜池程度の泉にもそれを居所とする民がいるので放置が許されず、人員は常に不足している。その為にいくつかの泉では都水の各長をひとりが兼任していたり、複数の県郷泉を一郡の都水台がまとめて管理しているところもあった。
瀧州州都は
壷游城に入った姚綾たちは太守と刺史から出迎えを受けた。ひととおり挨拶を済ませると太守はただ頭をすこし俯かせたのみの泉主を労わるように見た。
「道中お疲れのようでございますね。無理もありません、由霧の中を越えてこられたのですから」
そう言えば疲れ切っているのかただ申し訳なさそうにした。
太守は首を振り押しとどめるようにすると、軍兵たちの宿舎の采配を確認するために刺史を伴って早々に辞し、後に残ったのはこちらを窺い佇む下女のみとなる。
質素な姿をした下女は黙って泉主をじっと見つめる。それを見咎めて暎景が間に立った。
「無礼だぞ。このとおり泉主はお疲れだ。寝所に案内して頂こう」
凛と顔を上げて見据えた女は
「朝廷の命ありきなものの、
「身の程を
下女は暎景を透かすように目を
「よもや他に
「
下女はやっと口を
「名乗り遅れました。わたくし、瀧州
突然の名乗りに暎景が動揺したのが背越しに分かった。律侯王といえば先帝の
「……なぜそのような方が、そんな格好で」
女は手を腰に当て、屈んだ暎景の向こう、逡巡したようにたじろいだ泉主を見据えた。
「わたし、なぜかそのかんじ、とても見覚えがあるのですけど」
泉主と思しき人物を指差した。「ほら、その困った時に裾の中で手を握ったり閉じたりする仕草。みっともないからおやめなさいと言っているのに」
言われたほうは観念しため息を吐いた。完全にばれている。おそるおそる被っていた外套を取った。
「……
「やっぱりね。燕麦、まさかわたしを欺こうなんてあなたにしては思いきったわ」
燕麦は困って目頭を押さえた。
「なぜ桃慶さまがお出迎えに」
「泉主がおいでになるのに肝心の父上がいらっしゃらないからよ」
姚綾が
桃慶は肩を竦めた。「いまごろ父上と一緒に田を見に行っているのです。春の増水で心配な堤があるとかで。昨夜戻って来なかったところを見るに、引き留められているのでしょう」
聞いてほっとして胸を撫で下ろした燕麦を見て桃慶は目を吊り上げた。
「燕麦、州牧がいないとあって油断したところお
「それは、しかし、いずれ即位式でお会いできるのでは」
「豆粒ほどしか見えない顔を会えたとは言えないわ。それだって、いつになるか分からないし。きょう泉主に拝謁
燕麦が改めて
「寧緯どの。こちらの姫君とは、お知り合いのようですが」
「州牧と封侯は昔から公私で親しくしておられて。牧は私の養い親ですので、しぜんと桃慶さまとは幼い頃から見知った間柄でありまして」
桃慶は得意気に胸を反らした。
「寝小便を垂れている頃から知っている」
燕麦は顔に手を当てた。流石にいたたまれず暎景が話を変える。
「しかし、あまり感心できない出で立ちですが」
「このお方は昔からこれが常です……」
鉄面皮の青年が今回ばかりは顔を赤らめたり青褪めたりさせているのを呆気にとられて見ている横で、桃慶は意に介したふうもなく腕を組んだ。
「それで、泉主は来ていないのね?」
「ええ…はい。泉主にもしものことがあってはと。事態が終息に向かえば、折を見てお呼びする予定です」
「このことを知っているのはあなた達だけなの?」
頷いた面々を見て桃慶はそう、と顎に手を当てた。「瀧州軍はすでに召集がかかっているけれど、由歩兵二十はそのままお連れなさい。穫司の中はいまどうなっているか分からない。中にいた金州軍と征南将軍の兵は脱走した者以外はみな殺されたというし、いつ公主の本軍が引き返して来てもおかしくない。
「桃慶さまはなんでもお疑いになる」
「実際あまり外れたことはないわよ」
「……いえ。
やはりか、と桃慶は息をついた。
「瀧州は貯水が豊富にあるから今のところ目立った困窮はみられないけれど不便は広がっている。早急に穫司に残っている敵を叩き出して水門を開けてもらわないと」
さらに面々は頷き、桃慶は
「州軍は守備兵を残してすでに発った。みたところこちらの族軍は二万もいないくらいね。郡兵をお貸しするわ」
「しかし桃慶さま、それではこちらの兵がいなくなります」
「いいのよ。こちらは田舎だしいざとなれば牧が何とかしてくれる。封領を
「よろしいのですか」
「侯王の息女さまにそのような権限があるとは初耳ですが」
言った暎景に、なに、と含み笑った。
「名ばかりではあるけれどわたしも
いかにも女らしい彼女と縁の無さそうな役職で今目の前に立っている本人と関連づけるのが難しい。しかし、郡兵を取り仕切る長の座はそれなりの実力がなければ、たとえ侯王の娘というだけでは与えられない。
「茈渓郡都尉、汽評
概して封領とは国にとってなくてはならない土地が多い。茈渓のように肥沃で収穫物の多い土地や要衝は国にとって守るべき場所で、王族の
「牙族の方々。此度の同盟は諸手を振って賛成とは言えないけれど、少なくとも瀧州は意義を申し立てたりはしない。この戦は牙族にとって四泉の民に良い印象を与える機会でもあるわ。少なくとも傭兵を通過させてみて、話の通じない相手ではないとわたしは分かったから」
砂熙が顔を上げた。問うような視線に桃慶は笑う。
「
「もしや、瀧州軍の由歩を貸し出すよう進言したのも?」
頷いてさらに茶目っ気たっぷりに笑った。
「あんな無骨な
愛されてるわよあなた、と言われて燕麦はまたしても顔を覆う羽目になった。
霧界を進軍した珥懿率いる二泉方面軍は、栽豊と蓮宿の間の街道を予定通り占拠し陣を構えた。まだ街道を越えていなかった二泉州軍と交戦したが、
それでも二泉主がこれを四泉と牙族の
一方で瓉明・高竺軍は二泉進軍と呼応して穫司から移動してきた撫羊軍の足跡をついに捉えた。穫司から直下した葉州州都
「なぜ……」
そう言ったきり沙爽は絶句して少女を見つめた。鉄の棒を挟んだ向こう側で申し訳なさそうにしている。
「兵は…出陣は⁉」
慌てて棒に縋りつく。目覚めたのは牢と思しき
「すでにお発ちになりました」
歓慧は手許の燭台に火を灯す。鉄柱の外側も両端の石棚には
「どういうことなのだ」
沙爽は意識を失う前のことを思い出そうと頭に手を当てた。随分薬で眠らされていたようで、身に着けている衣が真新しい。ずきりと腹部に痛みを感じ、ようやく記憶が
「私は……
「手荒い真似をして本当に申し訳ございません。四泉主におきましてはこのたびの戦が収束に向かうまでこちらにてご静養頂きたいのです」
歓慧が
「待ってくれ。私はこんなところに閉じ込められている場合ではないんだ。歓慧どの、これは牙公の
思い至り、はたと顔を上げた。歓慧が黙って頷く。「あの二人もすでにご承知です」
どうして、とうわ言のように呟き、もう一度鉄柵に顔を寄せた。
「お願いだ、歓慧どの。出してくれ。私が自ら行かなければ四泉の民に顔向け出来ない」
少女は顔を上げない。ただ黙って伏しているのみ。
「私ひとりこんな安全圏にいていいわけがない。牙公は言った。犠牲なくして何かを得ようとするのは
「鼎添さまには、戦況が落ち着き次第お出まし頂きます」
それでは遅い、と拳で柱を叩いた。
「私がおらずに四泉軍が十三翼を信用するものか」
「情勢を見れば牙族がどちらの味方なのかは明らかです。同盟締結もすでに
「話に聞いているだけなのと、現に泉主が行軍している様子を見るのとでは、確実に後者のほうが民を安堵させてやれる」
「何もご心配には及びません。全ては鼎添さまをお守りする為なのです」
硬い表情を崩さない歓慧に何を言っても梨の
「民が飢え渇きに苦しんでいるという時に私に安穏と時を過ごせと言うのか……!川の流れを狭めたのはこの私だ。一刻も早くもとの流れに戻してやらなければ民が死んでしまう!」
「泉主が失われてはより多くの民が死にます」
たまらず不甲斐なさに目をつぶった。怒りを筆頭にさまざまな思いが心の中で混ざり合い体が震える。
「鼎添さま、ご理解ください。あなたさまが失われては同盟を組んだ牙族も共に身を滅ぼすのです」
「……もういい」
歓慧は悲しげな表情で立ち上がった。
「奥に
言いおいて遠ざかってゆく気配を耳に感じながら、沙爽はやるせない気持ちに脱力してしまった。自分が頼りないから置いていかれたのだ。歓慧の言っていることも事実だろうが、
「……燕麦」
はっと気がついて眉間に皺を寄せた。燕麦は忠を尽くす男だが沙爽の子飼いではない。
「まさか燕麦までなんて」
城にとどまっているならなんとか説得してここから出してもらう手も使えたが、おそらく彼も軍に
沙爽は立ち上がってのろのろと
「私をこれ以上腑抜けにさせないでくれ……」
涙が出た。悔しさで胸が焼けるようだった。皆が皆、幽閉に賛同したということはつまり、それだけ沙爽の力量が信じられないことの裏返しだ。確かにそうだろう、ろくに剣技も戦も知らぬ
小卓には水差しが置いてある。牀榻の横には立派な細工の
「一体ここはどこなんだ…………」
沙爽は書棚の奥に光の射す一角を見つけて頭上を仰ぐ。歓慧の言ったとおり天窓があったが到底人の通れるような大きさではなく、そもそもかなり高い所から陽が射している。脱出は困難だろう。房室全体の石の感じからしておそらく、城の地下。
唇を噛んでその光の先を睨んだ。全てが終わったあとでご苦労だったと微笑みながら兵を労われというのか。傷一つない顔で死んだ民を憐れむのか。それが国主たる者のすることか。だめだ。諦めてはだめだ。なんとかしてここから一刻も早く出なければ。
でなければ自分は、己を生かすことを許せない。
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