二十五章



 沙爽の隠匿は内密にとは言ったが、瀧州方面軍で事実を知るのが暎景だけとなっては後々支障が生じてはいけない。なので姚綾と姚玉、礼鶴らいかく砂熙さきの四人には極秘に伝えた。四者は驚かざるを得なかったが、ともかくも主命を拝受した。彼らには各々に内通者への注意喚起がなされており、出兵以後相互監視の状態にる。



 風除けの布を巻き、外套で頭を覆い、沙爽の衣をまとった燕麦は一見して四泉主にしか見えない。もちろんあまり近づきすぎれば勘づかれるが、泉主の野牛うまには暎景が同乗し、砂熙が守護する。


 北路にもっとも詳しい淡雲たんうんを先導として城牆をまわり、崩れた北門を通過して軍は峰叢ほうそうを進む。森の中を急に方向転換し、浅い沢を渡って大樹林の山洞に入ったところで道は緩やかに下降し狭くなっていく。牙族のみが知る、北の抜け道だった。森で覆われた断崖の隙間を縫うように続く天然の隧道すいどうでここには古来より狐狸こり、妖が棲みつく。よって決して独りでは利用することなかれと伝えられる。この道を突っ切り距離を稼げるので、四泉西端の瀧州へは五日かからなかった。



 瀧州と西の霧界むかいの境には野獣避けの城砦が連なっており、門は三つ。四泉は大泉地の西端にあるからしてそもそも西から出入りする者などほとんどいない。


 陽もおぼろな朝靄のなか、その門のひとつで奇妙な地鳴りを聞いた。不安を掻き立てる音は耳を澄ませているうちに徐々に大きくなり門卒は霧の中に目を凝らす。壁の下、霞んだ濃霧にうっすらと影を発見して驚きに身を凍らせた。


 瀧州方面軍は最も州首都に近い門に辿り着いた。不寝番は噂だけは聞いていたし伝鳩しらせは来ていたけれども、実際に目にする牙族の異様で奇怪なさまに無意識に緊張を走らせる。まず打ち跨っている騎馬ものからして違うとは思いもよらなかったのだ。それでもなんとか冷静さを保てたのは牙領へ派遣されていた同行の瀧州軍が気を利かせて門兵と族軍を仲介してくれたからだった。


「泉帝陛下」


 兵たちが声を上げてかしずく中、族軍は開け放たれた門から堂々と市中に入城した。



 瀧州の泉川は大部分を穫司から注ぐ幹川に依存しているが、他に三つの小川を持つ。勾配の激しい土地にそれら四つの川から流れ込む水によって細分された小泉を形成しており、結果として人口のわりに郷里の数が多かった。都水台は各泉の管理を必ず徹底させなければならないが、溜池程度の泉にもそれを居所とする民がいるので放置が許されず、人員は常に不足している。その為にいくつかの泉では都水の各長をひとりが兼任していたり、複数の県郷泉を一郡の都水台がまとめて管理しているところもあった。


 瀧州州都は壷游こゆうといい、州北中心にある。幹川はやはり甜江てんこう穫司由来だがごく近くに他の泉川も流れている。氾濫などの水害に度々脅かされてきた為に城壁は高く、所々に水抜き穴が空いており、住居は石床を積み上げた高楼が多い。


 壷游城に入った姚綾たちは太守と刺史から出迎えを受けた。ひととおり挨拶を済ませると太守はただ頭をすこし俯かせたのみの泉主を労わるように見た。

「道中お疲れのようでございますね。無理もありません、由霧の中を越えてこられたのですから」

 そう言えば疲れ切っているのかただ申し訳なさそうにした。

 太守は首を振り押しとどめるようにすると、軍兵たちの宿舎の采配を確認するために刺史を伴って早々に辞し、後に残ったのはこちらを窺い佇む下女のみとなる。


 質素な姿をした下女は黙って泉主をじっと見つめる。それを見咎めて暎景が間に立った。

「無礼だぞ。このとおり泉主はお疲れだ。寝所に案内して頂こう」

 凛と顔を上げて見据えた女はおそれながら、とよく通る声で口を開いた。

「朝廷の命ありきなものの、泉外人せんがいびとを快くお迎えになった壷游太守に対し、疲労困憊しておられるとはいえ主たる泉主が一言もお声をかけて頂けないのはあまりに無体に過ぎるのではないでしょうか。ご一行が本日ここへ到着される何日も前から太守は郷里の民たちの西戎せいじゅうに対する不安を一心に取り除く努力をなさってきたのです。ご尊顔を拝するほどの功とは申しませんが、ただ黙しておられるだけでは太守の働きが報われません」

「身の程をわきまえよ。太守本人がそう願うならいざ知らず、一介の下女が口を差し挟むことではない」

 下女は暎景を透かすように目をすがめた。

「よもや他に理由わけがあるのではございませんか。そちらにおわす御方は本当に泉主でございましょうか」

僭越せんえつ至極。それ以上泉主を愚弄する物言いをするならば牢に放り込むぞ」

 下女はやっと口をつぐんだと同時に、目を伏せてその場に膝をついた。優雅な所作で拝礼する。


「名乗り遅れました。わたくし、瀧州茈渓しけい封侯ほうこう律侯王りつこうおうが一女、姓氏を汽評きひょうと申し上げます」


 突然の名乗りに暎景が動揺したのが背越しに分かった。律侯王といえば先帝の従甥いとこおいに当たる人物、沙爽とは再従兄弟はとこになるが、年齢にはかなり開きがある。汽律は齢六十六、二十で侯王となったが長年独り身で、四十を越えてようやく伴侶を得た。その若妻に先立たれたのち、後妻もめとらずに辺境で一人娘を育て上げ、暮らしぶりは大夫だいぶとそう変わらないが今も自由気ままな隠居生活を送っている。侯王に封ぜられた時に沙姓は返上しているが、れっきとした宗族そうぞくだった。


「……なぜそのような方が、そんな格好で」

 伴當はんとうに倣い膝をつきながら呟き目を逸らす。すでに王統でないとはいえじろじろと見ていいような相手ではない。

 女は手を腰に当て、屈んだ暎景の向こう、逡巡したようにたじろいだ泉主を見据えた。

「わたし、なぜかそのかんじ、とても見覚えがあるのですけど」

 泉主と思しき人物を指差した。「ほら、その困った時に裾の中で手を握ったり閉じたりする仕草。みっともないからおやめなさいと言っているのに」

 言われたほうは観念しため息を吐いた。完全にばれている。おそるおそる被っていた外套を取った。まなじりを下げた、ひどく困った顔があらわになる。


「……桃慶とうけいさま」

「やっぱりね。燕麦、まさかわたしを欺こうなんてあなたにしては思いきったわ」


 燕麦は困って目頭を押さえた。

「なぜ桃慶さまがお出迎えに」

「泉主がおいでになるのに肝心の父上がいらっしゃらないからよ」

 姚綾が房間へやを見渡した。「そういえば州牧しゅうぼくも見当たりませぬが」

 桃慶は肩を竦めた。「いまごろ父上と一緒に田を見に行っているのです。春の増水で心配な堤があるとかで。昨夜戻って来なかったところを見るに、引き留められているのでしょう」

 聞いてほっとして胸を撫で下ろした燕麦を見て桃慶は目を吊り上げた。

「燕麦、州牧がいないとあって油断したところお生憎あいにくさまだけれど、わたしの再従叔父はとこおじである泉主との対面を邪魔したこと、きちんと詫びて頂きますからね」

「それは、しかし、いずれ即位式でお会いできるのでは」

「豆粒ほどしか見えない顔を会えたとは言えないわ。それだって、いつになるか分からないし。きょう泉主に拝謁たてまつるのを楽しみにしていたのに」

 燕麦が改めて揖礼あいさつする。「申し訳ございません。これにはわけがありまして」

「寧緯どの。こちらの姫君とは、お知り合いのようですが」

 礼鶴らいかくが穏やかに問う。燕麦は頷いた。

「州牧と封侯は昔から公私で親しくしておられて。牧は私の養い親ですので、しぜんと桃慶さまとは幼い頃から見知った間柄でありまして」

 桃慶は得意気に胸を反らした。

「寝小便を垂れている頃から知っている」

 燕麦は顔に手を当てた。流石にいたたまれず暎景が話を変える。

「しかし、あまり感心できない出で立ちですが」

「このお方は昔からこれが常です……」

 鉄面皮の青年が今回ばかりは顔を赤らめたり青褪めたりさせているのを呆気にとられて見ている横で、桃慶は意に介したふうもなく腕を組んだ。

「それで、泉主は来ていないのね?」

「ええ…はい。泉主にもしものことがあってはと。事態が終息に向かえば、折を見てお呼びする予定です」

「このことを知っているのはあなた達だけなの?」

 頷いた面々を見て桃慶はそう、と顎に手を当てた。「瀧州軍はすでに召集がかかっているけれど、由歩兵二十はそのままお連れなさい。穫司の中はいまどうなっているか分からない。中にいた金州軍と征南将軍の兵は脱走した者以外はみな殺されたというし、いつ公主の本軍が引き返して来てもおかしくない。曾侭そじんをはじめ泉畿みやこへの進軍を目論んでいるなら穫司は絶対に失いたくない要衝ではあるけれど……泉が涸れたとは、まこと?」

「桃慶さまはなんでもお疑いになる」

「実際あまり外れたことはないわよ」

「……いえ。汚穢おわいは、実はそう見せかけただけです」

 やはりか、と桃慶は息をついた。

「瀧州は貯水が豊富にあるから今のところ目立った困窮はみられないけれど不便は広がっている。早急に穫司に残っている敵を叩き出して水門を開けてもらわないと」

 さらに面々は頷き、桃慶はひざまずいた燕麦の前に立つ。

「州軍は守備兵を残してすでに発った。みたところこちらの族軍は二万もいないくらいね。郡兵をお貸しするわ」

「しかし桃慶さま、それではこちらの兵がいなくなります」

「いいのよ。こちらは田舎だしいざとなれば牧が何とかしてくれる。封領をないがしろには出来ないでしょ。太守にも父上にもわたしが話を通す」

「よろしいのですか」

「侯王の息女さまにそのような権限があるとは初耳ですが」

 言った暎景に、なに、と含み笑った。

「名ばかりではあるけれどわたしも都尉といの端くれよ。見くびられては困るわ。ともかく、そういうことでいいわね?燕麦」

 いかにも女らしい彼女と縁の無さそうな役職で今目の前に立っている本人と関連づけるのが難しい。しかし、郡兵を取り仕切る長の座はそれなりの実力がなければ、たとえ侯王の娘というだけでは与えられない。

「茈渓郡都尉、汽評翁主おうしゅの名のもとに郡兵六千を泉主にお預けします。茈渓の兵はそこらへんの木偶でくの坊とは違う。四つの泉川に恵まれた肥沃な土地の恵みを奪おうとする破落戸ごろつきやら盗賊やらに可愛がられて育った者たちよ。加えて野獣も出る危険な土地。やわな兵ではすぐ命を落とす」


 概して封領とは国にとってなくてはならない土地が多い。茈渓のように肥沃で収穫物の多い土地や要衝は国にとって守るべき場所で、王族の湖王しんのうや公主が封ぜられるのはそれだけその地に目をかけていることを示す為でもある。封ぜられたからといって侯王は州牧や太守のような実権は無く、実際にその地に住まう者も少ないが、封領の民にとってはもし飢饉や旱魃かんばつに遭ったとしても国から絶対に見捨てられないという保証を得たことになるから、本人がいてもいなくても封領だからという安心感があった。それだけ他の土地と比べて賦税も高いが保証料だと思えば不満もない。まして侯王が実際にいるとなったら安住の地という他なかった。


「牙族の方々。此度の同盟は諸手を振って賛成とは言えないけれど、少なくとも瀧州は意義を申し立てたりはしない。この戦は牙族にとって四泉の民に良い印象を与える機会でもあるわ。少なくとも傭兵を通過させてみて、話の通じない相手ではないとわたしは分かったから」

 砂熙が顔を上げた。問うような視線に桃慶は笑う。

崇條すうじょう、と言ったかしら。なかなか面白い御仁だったわ。三公のめいとはいえここで暴れられたらどうしようかとぴりぴりしていたから拍子抜けだった」

「もしや、瀧州軍の由歩を貸し出すよう進言したのも?」

 頷いてさらに茶目っ気たっぷりに笑った。

「あんな無骨な姿なりでも、州牧に燕麦の名を出せば聞かないことはないわ」

 愛されてるわよあなた、と言われて燕麦はまたしても顔を覆う羽目になった。







 霧界を進軍した珥懿率いる二泉方面軍は、栽豊と蓮宿の間の街道を予定通り占拠し陣を構えた。まだ街道を越えていなかった二泉州軍と交戦したが、安背あんはいの禍によって二泉では混乱が起きており天譴てんけんを受けたという衝撃で士気はそれほど高くなかった。

 それでも二泉主がこれを四泉と牙族のたばかりとして、畏れ多くも黎泉の神罰であるかのように見せかけたことは罪多き奸計として逆に焚きつけたから、士気が下がっているとはいえ歴戦の兵士たちは一筋縄ではいかない。蓮宿にとどまっていた斉穹は自らの軍を二つに割き、彼らのほうが珥懿たちを挟撃しようとしていた。


 一方で瓉明・高竺軍は二泉進軍と呼応して穫司から移動してきた撫羊軍の足跡をついに捉えた。穫司から直下した葉州州都山柏さんはく、撫羊が最初に陥落させた郷里・崖都がいと瀑洛ばくらくからそう遠くない州城はすでに機能を停止していた。民の大半は逃げ出して、そうでない者のために節約していた貯水槽は抵抗虚しく開かれた。日を経ずして撫羊軍に追いついた連合軍だったが、籠城攻めを本格化する前に蓮宿からの二泉軍の増援によってこちらも期せずして前後に敵を抱えることになる。





「なぜ……」

 そう言ったきり沙爽は絶句して少女を見つめた。鉄の棒を挟んだ向こう側で申し訳なさそうにしている。

「兵は…出陣は⁉」

 慌てて棒に縋りつく。目覚めたのは牢と思しき房室へやで、鉄柵で隔てられた一辺を残して他三方は石壁、中は薄暗いが広く、家具調度、大きな牀榻しんだいと書棚が揃えられた贅沢なものだった。しかし牢であることには変わりない。

「すでにお発ちになりました」

 歓慧は手許の燭台に火を灯す。鉄柱の外側も両端の石棚にはおびただしい書物が並べられ、それが道の先まで続いている。

「どういうことなのだ」

 沙爽は意識を失う前のことを思い出そうと頭に手を当てた。随分薬で眠らされていたようで、身に着けている衣が真新しい。ずきりと腹部に痛みを感じ、ようやく記憶がよみがえってきた。

「私は……はかられた、のか?」

「手荒い真似をして本当に申し訳ございません。四泉主におきましてはこのたびの戦が収束に向かうまでこちらにてご静養頂きたいのです」

 歓慧が慇懃いんぎんに頭を下げた。沙爽は絶望して見回す。堅牢な石のひとや、出入り口と思しき鉄棒の開閉する箇所にはじょうが幾つも付けられて更に鎖で巻かれていた。

「待ってくれ。私はこんなところに閉じ込められている場合ではないんだ。歓慧どの、これは牙公のめいなのか?それに、暎景や茅巻も……」

 思い至り、はたと顔を上げた。歓慧が黙って頷く。「あの二人もすでにご承知です」

 どうして、とうわ言のように呟き、もう一度鉄柵に顔を寄せた。

「お願いだ、歓慧どの。出してくれ。私が自ら行かなければ四泉の民に顔向け出来ない」

 少女は顔を上げない。ただ黙って伏しているのみ。

「私ひとりこんな安全圏にいていいわけがない。牙公は言った。犠牲なくして何かを得ようとするのは貪汚たんおだと。それなのにここでのうのうと無駄に時を過ごさせるつもりなのか」

「鼎添さまには、戦況が落ち着き次第お出まし頂きます」

 それでは遅い、と拳で柱を叩いた。

「私がおらずに四泉軍が十三翼を信用するものか」

「情勢を見れば牙族がどちらの味方なのかは明らかです。同盟締結もすでに邑里ゆうりの隅々まで知れていること」

「話に聞いているだけなのと、現に泉主が行軍している様子を見るのとでは、確実に後者のほうが民を安堵させてやれる」

「何もご心配には及びません。全ては鼎添さまをお守りする為なのです」

 硬い表情を崩さない歓慧に何を言っても梨のつぶてだと悟った沙爽はその場でずるずるとへたりこんだ。

「民が飢え渇きに苦しんでいるという時に私に安穏と時を過ごせと言うのか……!川の流れを狭めたのはこの私だ。一刻も早くもとの流れに戻してやらなければ民が死んでしまう!」

「泉主が失われてはより多くの民が死にます」

 たまらず不甲斐なさに目をつぶった。怒りを筆頭にさまざまな思いが心の中で混ざり合い体が震える。

「鼎添さま、ご理解ください。あなたさまが失われては同盟を組んだ牙族も共に身を滅ぼすのです」

「……もういい」

 こぶしで顔を覆う。「ひとりにしてくれ」

 歓慧は悲しげな表情で立ち上がった。

「奥に湯殿ゆどのがございます。日出ひので黄昏くれには温かい水が出ますからお使いください。小さいですが天窓も……」

 言いおいて遠ざかってゆく気配を耳に感じながら、沙爽はやるせない気持ちに脱力してしまった。自分が頼りないから置いていかれたのだ。歓慧の言っていることも事実だろうが、ていのいい理由づけにすぎない。泉主本人がいたほうが確実に素早い指揮系統が整うし、軍の士気も上がる。自分がいないのに、どうやって州軍の支持を得る?

「……燕麦」

 はっと気がついて眉間に皺を寄せた。燕麦は忠を尽くす男だが沙爽の子飼いではない。麾下きかである暎景と茅巻が自分を幽閉することに同意したのならばそれにあえて反抗はしないだろう。泉主がいないのに側付きだけ軍にいるのは違和感がある。ということは沙爽の替え玉が絶対に必要で、軍兵のように妙な殺気を持たない人物が適任だ。

「まさか燕麦までなんて」

 城にとどまっているならなんとか説得してここから出してもらう手も使えたが、おそらく彼も軍に随伴ずいはんしている。


 沙爽は立ち上がってのろのろとこしかけに座った。役立たずだと自ら認めていることと、実際に他人から態度や行動で示されるのとでは気の持ちようが異なる。それがたとえ自分をおもんぱかった行為だとしても、事が事だけに快く受け取れるはずがない。

「私をこれ以上腑抜けにさせないでくれ……」

 涙が出た。悔しさで胸が焼けるようだった。皆が皆、幽閉に賛同したということはつまり、それだけ沙爽の力量が信じられないことの裏返しだ。確かにそうだろう、ろくに剣技も戦も知らぬ豎子こどもなのだから。自分でもそれは嫌になるほど分かっていて、その上で泉主として精一杯努めようと思っていたのに、その機会さえ掴む隙を与えられなかった。


 みじめさに打ちのめされひとしきり座り込んで泣いた。しばらくしてようやく少し心が落ち着き、牢の中を見渡す余裕が出来た。


 小卓には水差しが置いてある。牀榻の横には立派な細工の箪笥たんすがあって、中には衣類一式、どれも絹であつらえてあった。書案つくえには墨筆ふで桑皮紙かみ、漆塗りの煙管きせる盆まであって、どうもここは罪人を入れておく牢ではないようだった。


「一体ここはどこなんだ…………」


 沙爽は書棚の奥に光の射す一角を見つけて頭上を仰ぐ。歓慧の言ったとおり天窓があったが到底人の通れるような大きさではなく、そもそもかなり高い所から陽が射している。脱出は困難だろう。房室全体の石の感じからしておそらく、城の地下。


 唇を噛んでその光の先を睨んだ。全てが終わったあとでご苦労だったと微笑みながら兵を労われというのか。傷一つない顔で死んだ民を憐れむのか。それが国主たる者のすることか。だめだ。諦めてはだめだ。なんとかしてここから一刻も早く出なければ。


 でなければ自分は、己を生かすことを許せない。




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